AACHにおける伊藤秀五郎さんの評価―ツルでの出来事―

1)はじめに

「Aさんに『伏見と喧嘩をしたらしいね』と言われてあれあれと思いました」とBさんから2015年10月04日に知らされた時には私(伏見)は大いに驚きました。というのは、“喧嘩”と思しき“ののしりあい”をした二人はBさんと私ではなく、BさんとCさんだったからです。(もう6年も前のことですが、実名を明らかにするのは未だに何となくはばかれるので、とりあえずアルファベットの仮名で話を続けます。)その“喧嘩”とおぼしき現場は北大山岳部(AACH)の会員がたむろする札幌の居酒屋ツル、時は2015年09月06日夜、争点は“AACHにおける伊藤秀五郎さんの評価”でした。
どうやら、伝言ゲームのように、上記の1か月ほどの間で“喧嘩”をした当人のCさんが私に入れ替わってしまったようです。「ケンカをしないと仲良くなれません」とは1972年の日中国交正常化の際、当時の毛沢東主席が周恩来首相と田中角栄首相にかけた言葉だそうですが、はたして「雨降って地固まる」良い“喧嘩”だったのか、いやまた、そうなることを切に願って、AACH備忘録(8)伊藤秀五郎さんの視点で(2)AACHにおける伊藤秀五郎さんの評価―ツルでの出来事―と題して報告します。
なお本拙稿は、2015年10月24日のAACH関西支部の月見の会で報告した資料を基にしているとともに、下記の「ぶらっとヒマラヤ」の書評にかえて、AACH備忘録(7)伊藤秀五郎さんの視点で(1)藤原章生さんの「ダウラギリ行」の動機と原眞さんの登山論の続編です。

https://hyougaosasoi.blogspot.com/2021/03/blog-post_16.html

写真1 2015年9月3日~6日の北海道旅行図

写真2 十の沢遭難50年忌前夜の焚火(2015/09/03)

 

2)2015年9月の北海道旅行の後味悪さ

2015年9月は.3日の十の沢遭難50年忌(写真1と2)に参加し、その後、幌加温泉を経て、古川宇一さんの農場(写真3)に泊めてもらい、6日に北大山岳館で下記の2015年春のネパール地震の報告(写真4)をした私の心は、数年ぶりの友との会合や北海道の自然に触れて意気軒昂としていたが、その報告後のツルでの懇親会で、その”喧嘩“が起こったため、楽しかった北海道の印象がすっかり砕けてしまったのである。なぜ”喧嘩“が起こったのか、問題点は何か、どうしたら良いのか、を考えざるを得なかった。

写真3) 古川宇一さんの農場にて(2015/09/05)

写真4)北大山岳館での報告会(2015/09/06)

当時の私は、関西にいて、毎月主治医である京都の齎藤(淳生さん;京都大学学士山岳会AACKのOBで元日本山岳会会長)診療所に通っていて、AACKや日本ネパール協会関西支部(ぼくは支部長を勤めていた)の方々からAACHは「すばらしい山岳館を持っていて、現役との接点があるので、羨ましい」と言ってくれていたので、なおさら、その時の”喧嘩“がAACHの羨ましくない面を表しているようで大いに気になった。そこで、その課題を明らかにしたいと考えて、”喧嘩“のお二人と、その時同席していたAACHの内部事情に精通している関係者の意見を聞き、個人的な一方的な視点が強いかもしれません(そのため、皆様からのご指摘をお待ちします)が、問題点と解決方法をまとめましたので、皆さんにお伝えします。

第8回北大山岳館講演会 ネパール報告-「2015 年ネパール地震」を中心に-
2015年9月6日(日) 13:30~15:30
https://aach.ees.hokudai.ac.jp/xc/modules/Center/activity/lecture/8th.html

3)何が起こったのか

2015年09月06日夜のツルでの宴が中盤にさしかかったころ、Bさんが「伊藤秀五郎さんのことを知らない現役がいるので、話をしている」と言ったとたんに、Cさんが「現役が伊藤秀五郎さんを知らないで当たり前だ」とBさんの話しに割って入ったのである。すると、Bさんが「何言ってやがるんだ!」と素早く切り返したので、その場の雰囲気が一気にさめてしまい、気まずい思いを残して、ツルでの宴はお開きになってしまったのである。
Bさんは「砂を噛んだような後味の悪い、議論というよりはののしりあいでした」と述べているのだが、Cさんは「口論した覚えはありません」と言うのである。また、Dさんは「つるでの口論」と表現するのだが、Eさんは「CさんとBさんの件は、微妙?な点もある」と口を濁していた。これでは、まるで芥川龍之介の羅生門の登場人物のように、それぞれの証言が食い違っている。どうしてなのだろうか。はたして、喧嘩・口論・ ののしりあい・微妙?な点のままにしておいて良いのだろうか。そこで、「雨降って地固まる」ような良い“喧嘩”になることを願って、上記の関係者の視点をまず紹介する。

4)関係者の視点

Bさん

砂を噛んだような後味の悪い、議論というよりはののしりあいでした。このグループとはいつもこのような感じで終わりです。
山岳館に関係するようになった67歳から現在の78歳まで、すでに11年間が経過しました。昨年、10年間だったのでもう辞めるべきでしたが、90周年誌の編集でできませんでした。この間、AACHの文化に惹かれて私なりに力を尽くしてきたつもりです。
この素晴らしいAACH文化を継承し発展していくためには、酒を飲んで批判をしているばかりではなく、具体的な文化的な取り組みが必要であると言いたかったのです。幸い現役部員たちは歴史を聞くことに大変興味を持ってくれていて、部員総会の後で時間をもらって、少しづつ話をするようにしています。伊藤秀五郎についてもすでに前回話をしています。反響も良く、すでに次回の催促も来ています。これからは若い人たちに期待して行こうと思っています。

Cさん

<伊藤秀五郎さんを知らないで当たり前>と言ったのはごく軽い気持ちで感想を述べただけで問題点の提起などという大げさなものではありません。私はツルで口論した覚えはありませんしBさんと対立など全く考えた事もありません。Bさんが話をするというのならそれはとても良い事だと思います。ただ年寄りが<今の若いものは云々>と嘆いてお説教を始めたらそれはボケの始まりと私は思いますので気をつけたほうが良いと思います。

Dさん

つるでの口論についてご意見ありがとうございます。伊藤秀五郎さんは,AACHの軌跡の1つを方向付けたわれわれの大先輩として,尊敬しております。ただ,Cさんがおっしゃったのは現役時代に伊藤さんを知らない部員がいたとしても責めることではない,ということだったと理解しています。
Bさんは筋を通してご自分の信じることを実行される方で,そのことを私は尊敬しています。Bさんが現役に対してAACHの歴史を教えようと努力されている行為にも敬服しております。AACHはBさんをはじめ,自分の信念でさまざまな行為でAACHに貢献される会員がい らっしゃることで単なる懐古趣味の団体ではなく,創造的な活動ができていると感じております。
私が申し上げたかったことはAACHの中にはいろいろな考えを持つ会員がいて,その多様性を否定すべきではないし,他人を非難すべきではない ということでした。人生にはさまざまなステージがあって,山の会に深くかかわる時代もあるでしょうし,関心を持てない時期があってもよいと思 います。酒の席で,私の言い方もまずかったと深く反省しております。

Eさん

BさんとCさんの件は、微妙?な点もあり、メールにするに時間がかかりそう。9月6日のツルでの言い争いについては、ちょっと文章にしにくくて、どう書いたものか?と悩んですっかり遅くなってしまいました。
酒が入っていたので、フォーカスがずれた、分かりにくい論争になっていましたが、背景は組織にはよくある、いわゆる「老害」と、私は見ています。老兵は死なずとも消え去らねばならない、ということです。老いること(老害・・・思いこみ、失念、記憶違い等)は恥ずかしいことでも悪いことでもないのですが、この場合の具体例を挙げると個人攻撃ととる人もいるのでひかえます。
いかにして、fade away して頂くか、規程が有るわけで無し、皆困っている、というところでしょう。それが、アルコールのため、山岳部の歴史を教える・教えない、という本来論争になるはずのない、ピントはずれに行ってしまったのです。
老害のため、現役に対して、思いこみによる間違った歴史を話しているのでは?という懸念を持つ人もいるようです。ということで、何とかして fade away していただこうと思っている人たちが、酒の席で気持ちを表したのではないか?と私は見ています。

5)伊藤秀五郎さん

伊藤さんの「北の山」に収められた「登山の動機」に関しては、冒頭でふれた「AACH備忘録(7)伊藤秀五郎さんの視点で(1)」で次のように述べた。
伊藤さんの出身である横浜一中(現在の神奈川県立希望ケ丘高等学校)では慶応大学山岳部の三田幸夫さんの後輩で、慶応大学の大島亮吉、槙有恒さんたちとも親しく、大島亮吉の「山‐研究と随想」(1930)には大きな影響を受けたと思われる。伊藤さんの「北の山」の視点は持論である「静観的登山」で、「それは山を遠くから静かに観照するという意味ではなく、困難な登山の中にあって、自己を大自然の中に投入し、渾然と融合することに喜びを見出すという態度」で山に向かうことと言われている。本の出版は1935年という戦前でもあり、伊藤さんにとっては、1935年1月よりペンシルバニア大学大学院留学、2年半の米国滞在ののち、ヨーロッパ回りで帰国の途中、イタリア、スイスを巡遊し、1940年、北大に戻り、北大予科教授となる時期に「登山の動機」を含む「北の山」は刊行された。
伊藤さんが「登山の動機」をまとめるにあたって、「少なくとも私自身の経験においては、山登りの動機と、及びそれとの関係においてその内容本質に対する正しい理解をもつということは、もともとその内容の極めて複雑で、その態度傾向形式等に様様なものが存在する山登りのうえにおいて、山登りそのものを理解するためにも、また私自身山登りを行う上にも、かなり多く役立つところがあったと信ずる。それ故に、私はここに少しく山登りの動機について考察してみようと思う。ただし、私がここで取扱う山登りの対象としての山は、単に氷雪の被われた高山や、最高の技術を必要とする困難な岩山などのみを指すのではなく、より低い平易な山々などに至るまでを含むところの、広い意味においてのそれである。」との視点で、1935年の戦前の登山環境の中で「登山の動機」が示唆する登山論の中心的命題を考察された慧眼に改めて敬意を表しざるを得ない。
AACH関西支部長をしていた原眞さんは琵琶湖で行われた月見の会の焚火を囲んでの談笑では、<敗北的登山家>が多い支部会員には原さんの登山論そのものを展開することはありませんでしたが、しばしば、AACHを創立した“北の山”の伊藤秀五郎さんの思い出を話されていたのは、原さんは伊藤さんと同様に、AACH本流の北大から出て、ともに札医大にいたことや、伊藤さんは戦時中、北大教授を辞し、名古屋の軍需工場へ赴き、中部地域で活躍(中日新聞論説委員や三重県人事委員を歴任)したことも原さんの出身地との接点が深かったことの影響ではないか、と想像しています。そこで今回の”喧嘩“の潜在的背景として、BさんとCさんの出身環境(それを示すと本人が特定されてしまうので、ふれないでおきます)の違いも影響している可能性があるのではないか、と想像をたくましくしています。

6)何が問題か、どうしたら良いか

「伊藤秀五郎さんのことを知らない現役がいるので、話をしている」と言ったBさん姿勢にも、「現役が伊藤秀五郎さんを知らないで当たり前だ」というCさんの指摘それ自体は、双方の考えを述べているだけで何ら問題はない、と思うのですが、なぜ、両者の発言が「何言ってやがるんだ!」という展開になってしまったのだろうか。Bさんの言うところの「このグループとはいつもこのような感じで終わりです」になってしまっているのは誠に残念でたまりませんが、「幸い現役部員たちは歴史を聞くことに大変興味を持ってくれていて、部員総会の後で時間をもらって、少しづつ話をするようにしています。伊藤秀五郎についてもすでに前回話をしています。反響も良く、すでに次回の催促も来ています。これからは若い人たちに期待して行こうと思っています」と述べているBさんの活動には、「Bさんが話をするというのならそれはとても良い事だと思います」とCさんも同調しているのですから、そこには何ら問題はないはずですし、そこに希望の光すら感じるのです。
「伊藤秀さんが亡くなる5、6年前だと思いますが、山の会の理事会があって出席しました。詳しいことは忘れてしまいましたが、その席で誰かが古い先輩についての失礼な発言をしたようで、出席していた秀さんが激高しました。スキー部時代の苦労から始まって、山岳部独立に関係した人たちのことを話され、激しい口調の途中で涙を流していました。その時はそこまで何でと思いましたが、年を取ってからはその時の涙を美しいと感じるようになりました。山岳部の基礎を作るのに苦労した仲間を思ってのことだったからです。秀さんは毀誉褒貶の多い人ですが、山岳部の根をしっかりと植えつけた人であることを疑う者はいないでしょう。AACH文化はこの根の上に育ちました。老害だ、ボケだ、歪曲していると言われようと、蔑まれようと、私はこのAACH文化が好きだから、文化史を掘り起こし、記録し、後世に残していくための作業を今後も続けていくつもりです。部員が私のつたない講義を興味を持って聞いてくれていることが私には喜びです。昔と違って先輩との交流が極端に少なくなった部員達に誇りを持たせ、この文化を継続させていくために積極的に働き掛けていくことが大切と考えています。山岳部が消えてしまわないためにも」と述べているBさんがいう伊藤秀五郎こと、秀さんのことなどのAACHが持つ歴史の重みを改めて考えざるを得ません。
「私が申し上げたかったことはAACHの中にはいろいろな考えを持つ会員がいて,その多様性を否定すべきではないし,他人を非難すべきではない ということでした。人生にはさまざまなステージがあって,山の会に深くかかわる時代もあるでしょうし,関心を持てない時期があってもよいと思 います」とのDさんの指摘はもっともなことだと思いますが、(秀五郎さんを)「知らないで当たり前」というCさんの指摘と、現役に「部員総会の後で時間をもらって、少しづつ話をする」というBさんの活動は、決して、先日のツルでのような「ののしりあい」の口論になるようなことではなく、Dさんが述べているAACHの多様性が示す一局面として捉えることができる、はずです。
つまり、Cさんの言う「知らないで当たり前」という問題点の指摘から、その問題点解決のために、Bさんが行っているような「現役に話をする」ことも、Dさんが指摘する両者の「多様性」をまとめる具体的解決策の一つになると解釈できます。そこで、双方が認め合い、その上でAACHの「多様性の統一」的な行動をとることが必要ではないでしょうか。それができれば、Bさんの言う「いつもこのような感じ」になるAACHの「ののしりあい」の残念な現状が解決できる可能性がある、と考えます。

7)おわりに

「年寄りが<今の若いものは云々>と嘆いてお説教を始めたらそれはボケの始まりと私は思いますので気をつけたほうが良いと思います」とのCさんの指摘や、「老害のため、現役に対して、思いこみによる間違った歴史を話しているのでは?」というEさんの懸念にも留意する必要があります。東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の森喜朗前会長の失言で、「老害」といった心ない言葉まで聞かれる昨今ですが、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」のマッカーサーですら、晩節を汚したようですので、後期高齢者の自分自身も大いに考えさせられます。しかしながら、AACHは「すばらしい山岳館を持っていて、現役との接点があるので、羨ましい」と関西の関係者から良い印象を持たれているのですから、現役からAACHのロートルまでの青・壮・老の多様性がまとまっていくような共存共栄のつながりができていくことを切に願わずにはいられません。

写真5)南札内小学校の「故郷の灯」の石碑(2015/09/03)

写真6)AACH関西支部新年会での今村さん(中央;2012/01/28)と追悼会記事(左)

Bさんが述べている「今村昌耕さんのAACHを含む北大への、そして戦争で若い命を失った仲間への熱い思い、その思いを追悼会という形にしようとする力、年だから老害だなどという話には無縁です。創部以来、ペテガリへの想いを持ち続けた世代は南札内分教場の男沢先生一家と熱い交流を続けました。それが例の「故郷の灯」(写真5)という碑で形になっています。碑建立の発起人の一人である今村さんはご健在で(ママ;2017年4月19日に亡くなられた)、会員との交流を楽しみにしておられます(写真6)。この人のつながり、やはり素晴らしい文化だと思います。知らなくて当たり前ではなく、知らせなくてはいけないのです」には同感で、冬期ペテガリ岳初登者の今村さんの諸活動が示すAACH文化に改めて思いをはせ、ツルでの懇親会の”喧嘩“で楽しかった北海道の印象が砕けてしまった私の心が癒される気がしました。

8)追記

写真7)北大構内の根元から切り倒された無残なポプラ並木

写真8)北大近くの歩道に残された3本の大木

老齢なポプラ並木は倒れると危険だという考えだからでしょうが、根元からバッサリと切り倒す手法が北大構内で行われていた(写真7)。ただ、前述したように、AACHの現役からロートルまでの青・壮・老の多様性がまとまっていくようなつながりの視点から考えると、老齢樹の北大のバッサリと切り倒す手法は首をかしげたくなる。老齢樹の倒壊防止が目的なら、根元からバッサリと切り倒さなくとも、倒壊の危険のない高さまでは残して保存する共存共栄の手法がとれなかったものか。そうすれば、季節ごとにポプラの新緑や黄葉を楽しむことができたはずなのに、悔やまれる。北大近くの通称伊藤邸(建設土木会社伊藤組の社長邸)近くの歩道には数本の大木が残されている(写真8)例もあるのだから、なぜポプラ並木と共存できる手を打たなかったのだろうか。老齢樹をバッサリと切り倒す手法は、AACH問題はもとより、人生百歳時代を迎えている日本の高齢社会の老齢(老人)課題の解決には通用しないことは当然分かっていたはずだと思うのですが、なんとしたことか。