宮地隆二さん-山岳博物館ことはじめ-

 

写真1 宮地隆二さん

ヒマラヤの氷河調査をはじめるということで、名古屋大学に行き、名古屋鉄道(名鉄)におられた宮地隆二さん(写真1)の覚王山の家におじゃまし、お話をよく伺いました。1972年のことです。そこで例の、精のつく「にんにく卵」をご馳走になりました。とくに、宮地節で何回も話された「にんにく卵」が結晶化するという講釈には(僕自身は地質屋ですから、結晶の基本性質からみて「にんにく卵」は有機物ですので、結晶ではないと理解していますが)いつも感心して聞き入ったものでした。そこで、宮地さんが作られた金色に輝く「にんにく卵の結晶」をご自身がもっとご利用すれば、さぞかし長生きされたのではないかと僕は思うのですが、このような時がこんなにも早くこようとはまことに残念でなりません。お亡くなりになられたのは、宮地さんも参加予定だった北大山岳部(AACH)関西支部の琵琶湖集会直前でした。そこで、再び琵琶湖で開かれた秋の月見の会では、奥様からいただいたカイラス・ラベルの泡盛で宮地さんを改めて偲びました(写真2)。

 

 

 

 

 


写真2 琵琶湖で開かれた北大山岳部秋の月見の会で宮地さんを偲ぶ

1970年前後の学園闘争で、僕自身は別に全学連三派系に属していたわけではないのですが、民青派が牛耳っていた北大理学部地質学鉱物学科が住み辛くなった(考え方が違うと、話もしない人多い)ので、北大を後にして、最初に述べたように名古屋大学の樋口先生の教室にお世話になりました(*ウェブサイト「学会>名古屋大学」参照)。そして、ヒマラヤの氷河調査の学生隊を立ち上げるために1973年春からネパールに行きました。まずは調査許可を取るためカトマンズでの2ヶ月の現地交渉とその後の半年のヒマラヤ学生調査隊(*ウェブサイト「国際協力>ネパール>4.ネパール氷河調査隊ハージュン基地建設」参照)から戻りましたが、こんどは数百万円の軍資金稼ぎのために1960年代に暮らした北極海の氷島へ2ヶ月ほど行き、沖縄海洋博用の直径30cmの氷資料(アイスコアー)を30mほど採集して戻った1973年の冬、宮地さんから印象的な言葉を聞くことになりました。それは、例によって宮地家の「にんにく卵」をご馳走になりながら、インドのダージリンなどのような”登山博物館”ではなく、山岳地域の自然や文化研究の場としての宮地さんの”山岳博物館”構想でした。その構想を聞かせていただき、僕自身の将来の方向性が決まったような感じがしたものです。宮地さんの構想では、当時のカトマンズにたくさんあったラナ家(ネパールの旧貴族)の未使用の大邸宅をヒマラヤ研究センターにした山岳博物館に作り変えるというものでした。宮地さんの勤めていた名鉄は、明治村・モンキーセンターやリトルワールドなどの博物館的な文化事業を行っていますし、宮地さん自身は石垣島近くの黒島で文化施設を作られたことを見ても、またさらに、残念ながら若くして亡くなられた弟の宮地新墾さんが琵琶湖研究所や琵琶湖博物館などをも構想されていたところを見ても、宮地伝三郎先生を父にもつ宮地家伝来の発想力が山岳博物館構想の根底にあるように思えます。従って、安藤久男さんたちがポカラに立ち上げられた国際山岳博物館の原点には宮地さんの発想もあったのではないかと考えています。

写真3 1974年の山岳博物館の計画書

そこで、僕は宮地さんの構想にのっとり、1974年にヒマラヤ・バーバン(館)をカトマンズに作り、地元関係者と山岳博物館の話を進めていきました。当時のことですので、今のカトマンズの状況とは大きく異なります。例えば、コピー機などもないので、薄い紙に書いた手書きの山岳博物館の計画書を書きあげ、それを青焼きのプリントにするのですが、太陽の光で感光させますので、天気が悪いとコピーができません。雲が厚くなるとコピーを中止し、天気のいいときを見計らって計画書(写真3)をつくって、先代のビレンドラ国王のお姉さんのご主人、クマール・カドガ・ビクラム・シャーさんまで話をあげていきました。クマール・カドガさんは登山や調査研究方面に興味があり、まだこの種の構想は1970年代には早すぎた感がありましたが、それでも彼は話を良く聞いてくれました。結局、そのクマール・カドガさんのポカラの広大な土地に、国際山岳博物館が2003年に発足することになったわけです。宮地さんの発想から実に30年近くもかかったことになります。残念ながら、クマール・カドガ・ビクラム・シャーさんも含めて、先代王様の一族が(弟一家を除き)亡くなってしまいましたけれど、いまはそのクマール・カドガさんのご子息であるディーバス・ビクラム・シャーさんがネパール登山協会の専務理事をされ、国際山岳博物館の運営に尽力されています。先代のビレンドラ国王の面影そっくりのディーバス・ビクラム・シャーさんたちとの関係も含めて、安藤さんたちが立ち上げてくださった国際山岳博物館で「ヒマラヤの自然史」(伏見,  1983)(*ウェブサイト「ヒマラヤ>ヒマラヤの自然史」参照)の観点を発展させることができないかと考えて、私は2008年~2010年の2年間、JICAのシニアー・ボランティアとして学芸員をつとめました。1974年の手書きの山岳博物館の計画をクマール・カドガさんに語って以来、35年ほどしてようやく夢がかない、宮地さんのお陰で、クマール・カドガさんの土地に建てられた国際山岳博物館に来ることができて感慨ひとしおでした。

写真4 1978年航空写真;手前にナモラディ氷河、中央にグルラマンダータⅡ峰、後方にカイラス峰、その間に聖湖マナサロワール(右)とラカス湖(左)

それではここで、宮地さんたちが踏査されたネパール北西地域のことをつけ加えたいと思います。1963年秋、宮地さんたちは安藤久男隊長のもとに、標高7300mと言われたナラカンカール峰遠征を行いましたが、一ヶ月半以上におよぶ踏査にもかかわらず、目的の山が見つからなかったという信じられないことが起こりました。当時はまだ正確な地図もなかったために、宮地さんたちはネパール領から中国領のナモラディ氷河に達し、この地域の最高峰グルラマンダータ(ニャモナニール”ナムナニ”:7694m)の登路偵察を行っています(「チベット高原への旅」参照)。はたしてその際、宮地さんたちは聖山カイラスなどを見たのでしょうか。そこで1978年秋に、私たちはネパールヒマラヤ氷河調査隊の航空写真撮影調査(Fushimi et. al., 1980)の際、渡辺興亜さんたちが調査したタクプ氷河からナモラディ氷河近くまで飛び、宮地さんたちが到達した地域の写真撮影をしました(写真4)。航空写真には、カイラス峰とともに、聖湖マナサロワールとラカス湖も写っていますが、宮地さんの「チベット高原への旅」にはカイラス峰やマナサロワール湖のことは書かれていないことから、グルラマンダータⅡ峰(ゴナラ:6902m)にさえぎられて、少なくともカイラス峰やマナサロワール湖は宮地さんたちには見えなかったのではないでしょうか。その後宮地さんはツァンポー河経由で東から車でカイラス詣でをされているのは、ナラカンカール隊の思い出があったからなのでしょう。しかしもともとは、インドのヒンズー教徒やネパールのラマ教徒と同じように、カルナリ川沿いに南から歩いて、かつてのナラカンカール隊の長いキャラバンの旅をたどり、カイラス峰に行くことを希望されていましたので、いつの日か、それらの地域を私たちが再訪することも宮地さんを偲ぶ旅になるのではないかと思っています。カイラス峰は宮地さんにとって、よほど思い出深い聖山なのでしょう。冒頭のカイラス・ラベルの泡盛をはじめ、京都の円光寺の宮地さんのお墓にもカイラス峰が描かれています(写真5)。


写真5 聖山カイラス峰が描かれた京都円光寺の宮地さんのお墓

最後にナラカンカール峰のことですが、日本ネパール協会関西支部の大西保さんが作られたこの地域の地図には、ナモラディ氷河の東側にナラカンカール峰が記されています。その高度は、5913mです。宮地さんたちはナモラディ氷河に到達したとき、ナラカンカール峰を見たかもしれませんが、その高度が7300m前後ではなく、あまりにも低い6000m以下だったために、気がつかなかったのではないでしょうか。しかし、そもそもなぜ、6000m以下の山の高度が7300m前後に飛躍?したのであろうか。グルラマンダータと錯覚しただけではすまされないが、いずれにしても、地図が頼りにならない地域の調査活動には、苦労がある半面、ある意味では探検的な要素があり、未知の探究という楽しみも感じられたことであろう。
その後宮地さんたちは、グルラマンダータ峰南側の谷を下っている時に、中国軍に捕まってしまうユニークな経験をされています。そのことは、前述の「チベット高原への旅」でご覧ください。


追記

写真6 ヒマラヤの宮地隆二さんの分骨場

宮地隆二さんのヒマラヤへの分骨が、奥様の許可をえて、2011年4月6日に行われました(写真6)。分骨場の遺品には、奥様の字で、翠雲院長安大道居士(平成17年6月3日、69歳)と書かれています。場所はネパール中部マルシャンディ川中流のナチェ村上部のアルバリ(ジャガイモ畑)とよばれる、マナスルとアンナプルナⅡ両峰が見渡せる高原です。ナチェ村は、マナスル峰のツラギ氷河湖調査(本ウェブサイト  ヒマラヤ>ECO TOUR>3.Tulagi Glacier Lake 参照)をする時に世話になる最奥の村です。

 

 

 

 



参考文献
宮地隆二 「チベット高原への旅」,  テーチス海に漂う青い雲-若きフィールドワーカーたちの見聞録-(テーチス紀行集編集委員会),  いりす,  2011,  27-55.
伏見碩二  「ヒマラヤの自然史」,  ヒマラヤ研究(原眞・渡邊興亜編),山と渓谷社,1983,  179-230.
Fushimi, H., Yasunari, T., Higuchi, H., Nagoshi, A., Watanabe, O., Ikegami, K.,Higuchi, K.,Ageta, Y., Ohata, T., and Nakajima, C.  PRELIMINARY REPORT ON FLIGHT OBSERVATIONS OF 1976 AND 1978 IN THE NEPAL HIMALAYAS. 1980, 「SEPPYOU, 41, SPECIAL ISSUE」 JAPANESE SCIETY OF SNOW AND ICE,  62-66.