瀬古勝基さんの想い出
瀬古さんのKCH日誌
瀬古さんは1996年秋の雪氷学会北見大会の頃に失踪することになったが、その1年前の1995年10月の前述のギャジョ氷 河の共同調査と半年前の1996年3月にカトマンズで開かれた「Ecohydrology of High Mountain Areas」国際会議(ICIMOD主催)にともに参加し、彼とネパールで過ごした日々が忘れられない。今でも、カトマンズ中心部の繁華街、アソン・バ ザールなどを歩いていると、瀬古さんがふっと現れてくるのでは、と思う時がある。
その瀬古さんは、1996年3月29日のカトマンズ・クラ ブ・ハ ウス(KCH)日誌で上に示すような図を書いている。図の縦軸はActive(Pathos,感性)-Passive(Logos)、横軸が Apparent(Constructive,活動)-Suggestive(Reflective,思考)である。そこに、「酔っぱらいながら覚えてい ることばを考える。“人は信念とともに若く、疑惑とともに老いる。”」と記している。またその2日後の3月31日の日誌には、「Ecohydrology of High Mountain Areas」国際会議のアナウンス資料がはりつけてあり、「久々のKCH滞在、滞在期間を伸ばしたため、1人、当地に留る。久々にネパールのペースに慣れ る」、と「久々」の表現を2度繰り返して書き、4月4日のには、「飛行機の切符が取れ、本日帰国致します。今回も大変勉強になりました。すこし冷えた頭で “人は信念と共に老いる”のか・・・名大 水研 瀬古」、と記名している。しかしながら、瀬古さんが描いた図には、「多様な学問&コミュニケーション」と説明しているだけで、瀬古さんが占めるべき位置は 図中に示されていないのだが、この半年後に失踪する彼の心の内面が図の縦軸と横軸のとり方や、彼の表現である“人は信念とともに若く、疑惑とともに老い る”から“人は信念と共に老いる”へ変化した表現に現れているのではなかろうか。

その国際会議のことは3月30日の日誌で、ぼくは次のように書いた。「瀬古兄とともにEcohydrology会議に参加し、本日伏見のみ帰国する。今回の会議については、色々と学ぶことが多かった。とくに、ドイツとイギリスの活躍が目立った反面、日本のヒマラヤ研究者の参加が少なかったのは残念の一語につきる。Scientific Strategyの面からも反省すべきことと想われる。また、キラン・シャンカール・ヨガチャリヤさんを中心とするネパール側の熱意(将来のヒマラヤ研究に対する)を十分にくみ取る事ができたのも収穫であった。それに対して、どのように答えるべきか。宿題が残されている、と想う。」

*瀬古勝基さんの想い出
https://glacierworld.net/travel/recollection/seko-katuki/

P9. 瀬古さんと鳥海山頂で(1993/10/18)

P10. KCH日誌に書いた瀬古さんの図(1996/03/29)

 なお、瀬古さんの図の下に、(伏見氏より照会していただいたKolbの図をもとに)と書いているのは、「David A. Kolb(1981) Laerning Style. “Modern American College”, Chickering & Assoc.」(上の図)について、ぼくが彼に話したことをもとにしているのでろう。  ところで、その国際会議のことは3月30日の日誌で、ぼくは次の ように書いた。「瀬古兄とともにEcohydrology会議に参加し、伏見のみ1日早く、本日帰国する。今回の会議については、色々と学ぶことが多かっ た。とくに、ドイツとイギリスの活躍が目立った反面、日本のヒマラヤ研究者の参加が少なかったのは残念の一語につきる。Scientific Strategyの面からも反省すべきことと思われる。また、キラン・シャンカール・ヨガチャリヤさんを中心とするネパール側の熱意(将来のヒマラヤ研究 に対する)を十分にくみ取る事ができたのも収穫であった。それに対して、どのように答えるべきか。宿題が残されている、と思う。」
Picture

David A. Kolb(1981) Laerning Style. “Modern American College”, Chickering & Assoc.

 ヒマラヤの氷河変動とその影響
1995年秋に、瀬古勝基さんと東ネパール・クンブ地域のギャジョ氷河を調査し、1970年代には前進と後退を繰り返す動的平衡状態だったギャジョ氷河が 上流と下流で分割するとともに、上流部が2つの氷体に分かれ、氷河流動のない全域消耗域の雪渓になっているので驚いたものである。さらに、2009年に再 調査すると、下流部の氷体はほとんど消滅し、氷河湖が下流部を覆い、また分割した上流部の氷体は更に縮小していたのである。1970年代のギャジョ氷河は 典型的な教科書的氷河であったが、1990年代以降、雪渓化してしまった。このような氷河と雪渓との遷移関 係は「生態氷河学」の視点とも言えるが、かつて今西錦司さんがいみじくも述べた「氷河と雪渓は種を異にする」という指摘と合い通じるものがある、と思う。
地球温暖化によて、ギャジョ氷河のような6000m以下の氷河は今世紀中頃には消滅する、と解釈できるが、すでにその兆候はヒマラヤの人々に現れている。 ネパール・ヒマラヤ中央北部のムスタン上流域の人々は氷河縮小で水資源がなくなり、下流域の水資源の豊富な地域に移動せざるを得なくなっている。 「Nepal’s first climate refugee village in Mustang」(Myrepublica; 2010/06/01)である。このような環境難民はヒマラヤ地域に今後広がっていき、今世紀中頃には、ヒマラヤを起源とする南アジアの大河下流部にもお よぶことを危惧している。なぜならば、温暖化でヒマラヤの氷河と永久凍土が融解していくと,ヒマラヤを起源とする南アジアの大河川にとって,乾期の水源に なる氷河が減少することを示すので,河口域の大都市では、河川水位が低下するのに加えて、世界各地域の氷河融解で海水量増大とともに、温暖化による海水温 上昇で、海水位が上昇し、水位が下がった大河河口部に海水が流入するとともに、地下水層にも塩水が貫入する ので、河川水・地下水の水資源利用が困難となることが予想される。さらにそれらの地域では人口増加が著しいので、数億を超える人たちの水資源が逼迫し、環 境難民化するという今世紀中頃以降の重大な環境課題になることにも留意する必要がある.そのような環境課題を解決するためにも、とにかく地球温暖化阻止は 急務であり、これまで以上にヒマラヤの氷河の動向に注視していかなけれなならない、と思う。
余談だが、1995年のギャジョ氷河調査では、瀬古さんが氷河末端の観測基点で測量し、ぼくが猿廻しの猿よろしく氷河上を歩き回り、氷河の変化を測量した のであるが、最後に氷河末端の氷河湖の淵で、ぼくが薄氷を踏み外し氷河湖に飛び込み、全身ずぶ濡れになってしまったのも彼との思い出になっている。
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ヒマラヤ調査の友人たちのその後
ぼくたちがヒマラヤ調査を行っていた1960年台以降の20世紀後半は日本も、またネパールも激動の時代で会ったと思う。長年お世話になっていたクソン・ ノルブ・シェルパ(タワー )さんは1965年の中央ヒマラヤ地質・氷河調査隊に参加した後、日本に来て、札幌でぼくたちと過ごすことになるが、その間、タワーさんの言行録と称する 次のよう なメモを書き留めた。彼は、「子どもの時から行きたいところたくさんあった。4才でタンボチェの寺に入り、15才の時チベットへ行った。仏教の言葉、言葉 ものす ごく上手になった。タンボチェのお寺に帰ってみると、外国人がたくさん来たから、外国に行きたくなった。お寺の偉い人と喧嘩になったので、200ルピーお 金だしてお寺やめた。カルカッタへ行って商売し、カトマンズで金もうけた。日本へ来てよかったのは、車の免許とったこと、歯の病気なおしたこと、スキーも した。どこへ行っても、いちばんいい国はないよ。あなた日本が一番いいと思う?どこへ行っても、悪いとこあるでしょ。中国きらいだね・チベット人の国とっ た。中国は夜きた。」と話してくれた。彼はタクシーや旅行会社を経営し、順調な生活を送っていたのであるが、ネパール人としては珍しいほどの自由人として の人生を送ったのであろう。ところが、彼の家庭生 活の最後は悲劇的で、自殺した長男と奥さんからも見放され、アルコールに溺れ、最後はボーダナートでホームレス同然の生活になり、息 を引き取るのである。だが、彼の奥さん も、最後はアルコール中毒で命を落としたが、幸いなのは、次男のフジ・ザンブーさんと長女のカルシャン・デキさんがアメリカでそれぞれタクシー運転手と看 護婦として満ち足りた生計を営んでいることである。
1970年代以降の激動するネパール社会にあって、それぞれの家庭も個人もその変化に翻弄されていった のは タワーさんだけではない。ネパール・ヒマラヤ氷河調査隊のはじめにハージュン観測基地の建設に携わったペンパ・ツェリンさんも、1970年代後半に失踪す るのである。彼は英語とチベット語に長けていたので、一説によると、アメリカのCIAもからんだともいわれるチベット独立運動の動向を追っていたネパール 政府の諜報機関に彼は雇われていたと言われ、最終的には消されてしまったのではないか、と噂されている。ペンパ・ツェリンさんの妻ニマ・ヤンジンさんが亡 くなったのは、2011年春であった。カトマンズのバグマティ川岸の火葬場で、がっちりとした体躯の長男のウルケン・モランさんとほっそりした長女のツェ リン・ドマさんに会い、ペンパ・ツェリンさんの面影を偲ぶことができたのである。
また、ペンパ・ツェリンさんの後を継ぎ、樋口先生を中心とする1970年代の氷河調査隊の活 動に尽力してくれたハクパ・ギャルブさんの弟、パルデンさんはバングラデッシュで勉強した技術者だったので、ハクパさんの建設会社の責任者としては必要不 可欠の人だったにもかかわらず、自殺をしてしまったのである。ぼく自身もまた、1070年前後の大学環境の変化の中で環境難民的な体験を したのであるが、彼らネパールの友人たちもネパール社会の大きな変化に翻弄されてきたのである。