D. 雪害と雪利
  伊吹や鈴鹿山地などの積雪調査をおえ、川ぞいにくだる道が最後の谷の曲がりをすぎると、そこに広大な平野がひらける。はるかかなたにかすむ比良山地などの雪山をいただいた琵琶湖のひろがりをみると、湖を中心とした湖国の自然のまとまりを実感する。分水嶺にはっした水をとおして、自然も人もおたがいに結ばれて、湖とつながる(図8)。湖国は、また山国でもある。

図8 琵琶湖と比良山

  寒川辰清は、「琵琶湖八景あり。呼んで近江八景といふ。何人の名づけしことをしらず」とのべ、琵琶湖八景のひとつをうたった「雪はるる比良の高根の夕暮は花の盛りに過る比かな」(近衛政家)を紹介している8)。いわゆる「比良暮雪」だ。白銀の山々は夏山とは違った自然の厳しさを示すが、雪化粧の言葉があるように、とくに朝日と夕日に赤くそまる雪山は山の美しさを象徴的にあらわす。琵琶湖にその姿をうつす雪の比良山地などをながめていると、まとまりのある自然のおちつきにやすらぎをおぼえるとともに歴史への想いにかられる。
陰暦の11月は「霜月」だが、「雪見月」ともよばれる。雪見灯ろうをたて、雪見酒をたしなみながら、雪景色を鑑賞する俳人たちなどの姿がしのばれる。「はつゆきや幸い庵にまかりある」(芭蕉)。このように、雪の美しさをたたえる人たちがいる一方、雪を白魔とみる俳人もいた。小林一茶である。彼は「霜降月(霜月)のはじめより白いものがちらちらすれば、悪いものが降る、寒いものが降ると口々にののしりて、はつ雪をいまいましくといふ哉・・・・・・昼も灯にて糸とり、縄ない、老たるは日夜榾火にかぢりつく」、「雪ちるやおどけも言えぬ信濃空」や「これがまあ終の栖(すみか)か雪五尺」となげく。大雪による白魔は雪地獄ともなる。雪国の生活にとって、「雪害」は農業・林業をはじめとし、道路・建築などにも大きな影響をあたえる。
江戸時代の越後の商人・鈴木牧之は、「暖国の雪一尺以下ならば山川村里たちどころに銀世界をなし、雪の飄々翩々(ひょうひょうへんへん)たるを観て花に諭え玉に比べ、勝望美景を愛し、酒食音律の楽を添え、画に写し詞をつらねて、称翫(しようがん)するは和漢古今の通例なれども、是雪の浅き国の楽み也。我越後のごとく年毎に幾丈の雪を視ば、何の楽き事あらん。雪の為に力を尽し財を費し千辛万苦する事、下に説く所を視ておもいはかるべし13)」と、雪浅き国と雪深い国の人たちの雪にたいする考え方の違いを記している。
ところで、鈴木牧之が苦労をつづった時代に、チョンマゲをゆって刀をさした大名が、虫メガネをつかい、雪の結晶を調べていた。下総国(茨城県)古河の殿様、土井利位(としつら)である。彼は雪の結晶形に関する研究を「雪華図説14)」として、19世紀はじめに刊行した。しかも、土井利位の雪の図は、「ゆきわ」としてしられる家紋や着物の絵柄にまで使われている。
土井利位は雪の利点・効用についてつぎのことをのべた14)。1)「空気をきれいにし、山に積って川を養うこと」。これは雨と同様の効果だ。2)「冷凍用に貴重であるとともに、医療に必要なもので、雪でこすると凍傷がなおること」。当時は、雪は冷源として貴重だった。そして現在では、雪でこすって凍傷をいやしたことがある人はすくないかもしれない。3)「田畑の作物をやわらかくつつみ、寒さで、いためられぬようにするとともに、寒さが地中に入るのをふせぐ」。雪は寒気を伝えにくい性質があるので、作物の保護と地面の凍結(凍上)防止に役だつことをのべたものである。だから、関東地方では「麦の雪は麦俵」16)といって、降雪を歓迎するそうだ。雪洞で寝たことのある人なら、外気温が零下20℃程度となっても、積雪の中はせいぜい零下数度にしか冷えないことをしっているだろう。4)「よく輝いて冬の日を明るくし、気持をさわやかにするとともに、学者は自然科学をまなび、詩人は山川の美景をたたえることができる」。これなどは、雪浅き国の人としての彼の気持ちがよくでている。
土井利位がのべている、5)「1尺以上の積雪は豊年となること」は、広くいい伝えられている。たとえば、大田忠久氏は岡山県の「雪は豊年の花」、「雪にがしん(ききん)はない」とのべ、積雪が多いと山地が水を吸収し、かんがい用水が豊富になるとともに、越冬中の害虫が凍死したからだ17)、と説明している。しかし、これには異論もある。加納一郎氏は北海道の石狩平野で稲の収量と積雪量の変動を検討し、豊作は雪がおおい年にもすくない年にもあらわれるので、このいい伝えが石狩平野ではあたらないことを示した19)。また、市川健夫氏は、適当な積雪は凍上・旱ばつ防止に役だつから太平洋側では「大雪は豊年の兆」だが、日本海側では「三朔日(さんついたち)(3月1日)雪あれば凶作」といって、大雪の年は陽気が遅れるため不作となる16)、とのべている。このように、積雪量と作物の収量との関係は、地域によっても雪の量によってもことなる。中河内では、あとでのべる春先の「あか(紅)雪19)」を豊年の兆として喜ぶとのことだ。
日本人と雪氷とのかかわりは古く、なかでも氷室(ひむろ)の記述が各地にのこる。寒川辰清は氷室について次のように記した。「氷室の始は、仁徳天皇62年5月、額田大中彦皇子、闘鶏(つけ)という所に猟し玉ひて、山に登り野中を見やり玉ひしかば、菴を作りたる所あり。土を一丈余り堀て、草を其上に葺く、茅萱などを厚取舗て、氷を置たるに、こほりで如何やふなる大旱にも解ず。是を取て熱月に用いるとなん8)」。との日本書紀から転載されたと思われる公事根源の記述を紹介し、滋賀県の氷室について「今其所在は、遺址つまびらかならずといえども、誠に此地のやうす、太甚山中にして寒気つよく、氷をたくはふべき地なり。定めて上龍華か途中かにありし成りべし。好事の者もなき故に、自ら古跡も云傅ものなし。千年の後は、いよいよ故蹟の一・二のこりしも、皆となへ失なうべし。是臣が深憂とする所なり8)」とのべている。つまり寒川辰清は、乾いた草などで氷を保存した氷室が大津市北部の和迩川流域にあったことを推定している。奈良県の笠置山地にある闘鶏の氷室のことは樋口敬二氏によって紹介された。それによると、氷室の氷は池氷で、池に張る氷の薄い年は気候不順だとし、農産物の豊凶を占うため、毎年正月元旦に氷の状況が奏上されたので、これらの資料を解析すれば、当時の気候変動をしることができる20)、とのべられている。
以上のように、雪に関連する現象においても、ほかの自然現象と同じように、利・害の両面がある。最近では、「利雪の時代」という言葉が使われはじめたように、雪を有効に利用しようとする積極的な動きがあらわれた。対馬勝年氏は、雪の冷熱を利用した温度差発電・都市冷房・食糧貯蔵などを提唱している21)。これなどは現代の氷室といえる。山形県では克雪技術研究協議会が「克雪」という雑誌を発行し、新潟県十日町市は「克雪都市」宣言をおこなっているのも、そのような時代の変化を反映するものと思う。
琵琶湖集水域の暖地積雪は年によっては豪雪となり、人びとの生活に交通・通信・家屋倒壊などの被害をあたえる。琵琶湖集水域は日本海側気候区の周辺部にあり、冬の季節風の影響をまともにうける湖国の人びとにとって、暖地積雪との生活は宿命的でさえある。湖北の民家のように、そこには雪国のうんだ伝統的な生活様式があったが、この四半世紀の急激な都市化・工業化とともに、琵琶湖集水域の豪雪地帯の山村も急速に変化し、過疎・廃村化が進行している。だが、これまでの雪害に泣いてきた受身の立場から転じて、一部には山村の新しい生活基盤をつくる民宿村などへの動向があらわれた。「利雪の時代」をむかえて、雪害を最小限にくいとめ、さらに雪利を最大限にひきだすためにも、琵琶湖集水域の暖地積雪の特性を明らかにする必要がある。
謝辞
  この報告をまとめるにあたって、名古屋大学・水圏科学研究所の樋口研究室と滋賀県土木部道路課が収集した資料を利用させていただいた。ここに、これらの長期的かつ広域的にわたる貴重な観測に従事してこられた方がた、また現地調査にあたり便宜をはかっていただくとともに有益なお話しをきかせてくださった伊吹町甲津原の草野丈正氏、余呉町中河内の前崎みよ氏、マキノ町在原の上田文吾氏をはじめとする地元の方がた、そして今津町箱館山の観測に便宜をはかっていただいた箱館山スキー場と滋賀県生活環境部消防防災課の方がたに深く感謝する。

─── 注 ───
1) 鈴木秀夫氏(1966)の日本の気候区分はわかりよいものだが、裏日本気候区と表日本気候区という日本の気候区分の用語は、「表」に対する「裏」といういわば「表」からの主観的な見方があると思うので感心しない。文部省はすでに教育・報道機関にたいして、裏日本を日本海側または日本海沿岸、表日本を太平洋側または太平洋沿岸とするように通達しているが、今のところ学会ではこれらの裏日本気候と表日本気候の用語がいぜんとして使用されているようだ。
関口武氏(1959、日本の気候区分・東京教育大学地理学研究報告、3、65-78)が示すように、表日本気候区の北陸地方と、表日本気候区の東海地方および瀬戸内気候区とそれぞれの漸移気候区としての伊賀地方としてのべることもできたが、日本の積雪現象の地域特性からみても、とくに南北方向の違いの大きい琵琶湖集水域の気候区分をのべる場合、どうしても広域的な気候区分からみることが必要なので、できれば「裏」「表」の用語にかわって、「日本海側気候区」と「太平洋側気候区」のような地理的により客観的な用語が学会でも定着しないものだろうか。
2) 樋口敬二(1978)  雪国文明論.“第3回雪国問題研究会速記係”、1~36、国土庁地方振興局、東京.
樋口敬二氏は、雪国を寒冷型雪国と温暖型雪国にまず区分し、温暖型雪国より南に位置し、雪国になったりならなかったりするところを「ときどき雪国」と分類した。「東海道新幹線が冬に遅れるのは、関ヶ原付近の雪のためである。とくに、琵琶湖東岸の、普通は雪が降らない所に降ると影響が大きい。このように、年によって雪国になったり、ならなかったりする地域には、独特の雪問題があり、対策も普通の雪国とは違ったものが必要である。そんな地域のことを、「ときどき雪国」とよんで、注意を喚起したのである。[樋口敬二(1984)「ときどき雪国」宣言.朝日新聞、3月7日夕刊]。
3)  中河内小学校の6年生3人が卒業すると、1984年度から、児童が1人となるので、その存廃について協議してきた余呉町は存続することに決定した。この結果、全国でも珍しい、児童1人の小学校ができることになった(京都新聞、1984年2月9日)。
4)  1892年の長浜-敦賀間の北陸線開通で、北国街道とともに栄えてきた中河内はさびれ、1894年につづく1895年の大火で、多くの人が村をはなれたという。のこった人たちは製炭業に従事することになり、木炭質の品質改良につとめたので、「中河内炭」の名声はひろくみとめられ、販路が拡張し、東京・名古屋までも進出した(参考文献:伊藤唯真・柿原正明(1960)  北国街道筋村落の習俗と生活
───  滋賀県伊香郡余呉村を中心とした歴史地理的調査とその考察───.東山高校研究紀要、7、43-127)。

引用文献
1) 渡辺興亜(1980) 地球上の積雪地域. 月刊地球、海洋出版、2、3、189ー200.
2) 武田栄夫(1980) 近江気象歳時記. 近江文化叢書5、219pp. サンブライト出版、京都.
3) 彦根地方気象台(1966) 雪害編. “滋賀県災害史”(滋賀県総務部消防防災課編)、109ー129.
4) 高橋浩一郎監修(1983) 日本気象総覧(下巻). 1060pp. 東洋経済新報社、東京
5) 中島暢太郎・後町幸雄・井上治郎(1977) 琵琶湖周辺の気象(1). 京大防災研究所年報、20、Bー2、553ー569.
6) 鈴木秀夫(1966) 日本の気候と気候区. “世界地理第2巻、日本”(石田・矢沢・入江共編)、41~62、古今書院、東京.
7) 中谷宇吉郎(1938) 雪. 161pp. 岩波新書、東京.
8) 寒川辰清(1735) 近江国興地志略(第1巻). 大日本地誌大系(蘆田伊人編集、1977)、39、406pp. 雄山閣、東京.
9) 石川正知・小林博・高橋昌明・畑中誠治・平田守衛(1979) 滋賀県. “日本地名大辞典”、25、1246pp. 角川書店、東京.
10) 藤田佳久(1981) 日本の山村. 271pp. 地人書房、京都
11) 今西錦司(1940) 積雪雑記. “山岳省察”、弘文堂、(山と探検、1970、34ー36、文芸春秋、東京.
12) 杉本尚次(1969) 近畿地方の民家. 269pp. 明玄書房、東京.
13) 鈴木牧之(1835) 北越雪譜. 宮栄二・井上慶隆・高橋実校註、1975、350pp.野島出版、三条.
14) 土井利位(1832) 雪華図説. “雪華図説覆刻版”、1968、17pp. 築地書館、東京
15) 中谷宇吉郎(1941) 「雪華図説」の研究. “第3、冬の華”、285ー320、甲鳥書林、東京
16) 市川健夫(1980) 雪国文化誌.NHKブックス、361、266pp. 日本放送出版協会、東京.
17) 太田忠久(1983) 暖冬につのる悲しさ. 朝日新聞(1983年2月19日)夕刊、4.
18) 加納一郎(1947) 雪の世界. 155pp. (財)子供の国、札幌.
19) 彦根地方気象台編(1911) 中河内ノ紅雪. 滋賀県気象界、59.
20) 樋口敬二(1982) 氷河への旅. 265pp. 新潮社、東京.
21) 対馬勝年(1983) 雪氷の有効利用. 京大防災研究所・水資源研究センター研究集会にて口頭発表.

付記
回想記「琵琶湖の雪(1)」は下記報告の一部分である。

琵琶湖の雪-暖地積雪の構造-.1983.琵琶湖研究所所報.2.79-117.