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B. 豪雪・廃村・過疎
  1983~’84年の冬ははやくきた。晩秋の寒気団の南下にともない、すでに10月23日には、伊吹山や比良山などの山々に例年よりも9日はやい初雪がおとずれた。11月ともなると、比叡山にも降雪があり、新雪が紅葉をおおった。
琵琶湖集水域北部のなかでもとくに、滋賀県最北部の余呉町から福井県今庄町に通じる北国街道ぞいの中河内周辺は、北陸地方からつづく豪雪地帯といえよう。 膳所藩の儒官、寒川辰清は中河内について次のようにしるしている。「近江國の北極にある村也。此村より越前の國界まで一里有なり8)」。「北極」とは最北の意味だが、それにしてもこの簡素な書きかたのなかに、越前(福井県)にほどちかい中河内の北陸的な光景がうかぶ。木之本からの北国街道が中河内へとこえる雪の椿坂峠は、越藩史略によると、江戸時代初めの1628年に、「八百人余」が雪崩で死亡したと報告されている日本最大の雪崩災害地である。
かつての中河内は北国街道の宿場として栄え、多くの伝馬が常備され、本陣・旅館・商店などが軒をならべていたという。しかし、3度にわたる大火で昔の面影はすっかりなくなり、いまでは、いかにも急ごしらえを感じさせるブロック家屋などのたたずまいとなってしまい、宿場としての町並をすっかり失ってしまった。
北国街道の県境が栃ノ木峠である。この峠の名前は県境にそびえる樹齢数百年とおぼしき栃(トチ)の大木からきている。「越前路、六道あり。虎杖(イタドリ)越・庄野嶺越・倉坂越・沓掛越・大浦越・七里半越なり8)」。越前路のひとつ、「虎杖越」が北国街道にあたる。「虎杖」とは栃ノ木峠に近い今庄町板取である。「虎杖越。所謂、北陸道、東近江路といふもの是也。官路なり。中河内村より、越前の國虎杖村に出るの路なり。木本村より、中河内村に至って五里、中河内より国界に至りて一里半、国界より越前の国虎杖村へ一里半、虎杖村より今庄に至りて二里ある也8)」と記されている。
冬ともなると、北国街道ぞいの村々は数mもの積雪におおわれる。1963(昭和38)年1月の中河内村の積雪深は3.6mに達した。1963年は、西高東低の冬型気圧配置が長いあいだつづき、大寒波が襲来したので、北陸地方を中心に東北地方から九州にわたるひろい範囲が大雪にみまわれた。これが、いわゆる三八(サンパチ)豪雪である。日本海岸ぞいの各地では、鉄道・道路・家屋・通信網などが大被害をうけた。滋賀県内でも、余呉町の中河内・椿坂や伊吹町の甲津原・吉槻などをはじめ、10以上の村が長いあいだ孤立した。また、1981年の中河内の積雪深は実に6mをこえたのである。寒川辰清の江戸時代はもとより現在においても、この豪雪地帯の村人の苦労がしのばれる。中河内で北国街道をはなれ高時川(丹生川)ぞいにくだる道は、半明(村)の新しくたてられた炭焼き小屋をすぎると、でこぼこの砂利道となり、峡谷左岸をすすむ。高時川上流の中河内には舗装された北国街道がはしり、また高時川下流域の菅並周辺ではひろい谷間に河岸段丘が発達するので、ともに交通の便がいいが、半明から菅並までのあたりは地形・道路が悪いため、高時川流域では最上流部よりもちかづきがたい地域となっている。
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図5 滋賀県北部の廃村(針川にて)

  半明から下流に約3㎞、高時川支流の針川との出合でやや谷がひらけると、そこに晩秋のススキに深くおおわれた廃村があった。(図5)くずれ落ちたカヤぶきの屋根とはがれた土壁。14家族がすんでいたとのことである。そこに残された雨露のかかる古新聞は、離村の悲しみを象徴するかのようだった。
半明の新しい炭焼き小屋は、山林に依存する生活がいぜんとしてつづいていることを示してはいるが、この四半世紀のあいだの燃料変化──とりわけプロパンガスの普及──にともなって、木炭製造などの自然と共存する山村の生活が苦しくなった。一方、琵琶湖集水域北部にも都市化・工業化の波がおしよせ、自動車道の開通とともに、山村から湖岸近くの工場などへの通勤が可能となる。現在では、中河内からもおおくの人が木之本や長浜あたりまでもかよう。
道路が整備され、都市への通勤・通学がはじまると、出稼ぎにともなって都市への人口移動がしだいにおこり、山村などの過疎化が進行する。その影響をつよくうけるもののひとつが学校である。中河内小学校の児童数は、「4年生以上が6人、3年後には児童がゼロとなって廃校の運命にある」(中日新聞、1982年5月31日)と報道され注3)。
北国街道ぞいの宿場として栄えた中河内は製炭業中心の村となったが注4)、今のような過疎化がすすむと、これから先はどのように変わってゆくのか。子供のすくない村はさびしさがただよう。すでに10年以上も前から、この豪雪地帯の積雪観測をたんねんにつづけてこられた中河内小学校の谷口孝敏先生たちの苦労も、ほかの学校へと移ることで中断するのだろうか。
高時川上流の人びとの生活にそのような変化がすすんでいるところへ、豪雪がおいうちをかけたと思う。1969年にまず奥川並、つづいて翌年に針川、さらに翌々年に尾羽梨の人たちがつぎつぎと集団移住していったという。高時川最上流部よりもちかづきがたいこれら下流の地域に、まず廃村化がはじまったのは、道路事情によるところもすくなくないであろう。
いまでも冬になると、針川のすぐ下流の余呉町鷲見・田戸・小原の3区には、道路除雪が順調にいかないときがおおいので、郵便物がとどかない。そこで考えだされたのが冬の郵便物集配請負人制度である。「中之郷郵便局員が菅並まで運んだ3地区の郵便物を、同地区の請負人が受け継ぐ。時には2m近い雪壁の間に続く道で、小牛大のイノシシと鉢合わせ。思わず雪壁をよじ登って命びろいした」(京都新聞、1982年2月4日)。都市の、いわゆる便利な生活となんと違っていることだろう。奥川並、針川、尾羽梨につづいて、鷲見・田戸・小原の人たちも集団移住の意向をかためている9)、とのことだ。 琵琶湖集水域北部の豪雪・廃村・過疎は、北陸地方と共通した日本海側の自然・社会現象のようにみえる。
日本の山村からの人口流出はすでに戦前にもみられたが、昭和30年代後半からの人口流出はとくに山間部に過疎地域をひろげていった。いわゆる高度経済成長期に都市化・工業化がすすんだのと裏腹に進行したこの過疎化・廃村化について、藤田佳久氏は次のようにのべる。「人口の地すべり的流出が進行し、三八豪雪がそれをさらに加速すると、山村問題が地域問題として認識されるようになった。それを受けて1965年に山村振興法が、1970年に過疎法が施行され、莫大な投資が行われた。その結果、山村の景観は一変し、幹線道路や支線道路、林道の整備がすすんだ。役場などのセンター施設の新装建築、小中学校の統合校舎や公民館の建設、さらに一般民家の改築もすすんだ。しかし、学校統合の結果、廃校となった地区から長年の地域社会の核を奪い、既存の生活圏の枠組崩壊や人口流出を促した10)」。  晩秋の針川の廃村には、ナダレ防止用にのこされてきたといわれるブナ林が黄色に輝いていた。だがいまは、その美しいブナ林をみまもってきた村人たちはもういない。そして、この豪雪・廃村・過疎地帯にもちあがってきたのは、ダム建設の話だった。