C. 雪国の家
  1983年10月の伊吹山の初雪で、湖北の人たちは例年のように、雪囲いなどの冬をむかえる準備に忙しい。そして、11月と12月の寒波で湖北の山々はふたたび白銀に輝いた。こうした何回かの冬の徴候のあと、大寒波をともなう冬将軍がどっとおしよせる。この厳冬への変化は急で、大きい。

図6 雪止瓦の民家(彦根周辺にて)

 雪囲いのできた家の屋根をみると、雪止め用のでっぱりのついた瓦が使われていたり、丸太やムシロが固定されている。(図6)これは、雪が滑り落ち、軒さきが破損するのを防いでいるものだ。積雪量の多い湖北では、「雪止め瓦」が2~3列にもならべられている場合もある。今西錦司氏は、東海道線ぞいの雪止め瓦の分布について、「東は木曽川付近ではじめて現れる。その出現率は垂井-関ケ原間60%、関ケ原-柏原間の分水嶺付近で74%の最高率を示し、それより柏原-近江長岡間の63%・・・・・・ついに守山以西にはほとんどこれを見ることができなかったのである。このように東海道線を通じて、その分布範囲が関ケ原、柏原、近江長岡付近を中心とした地域に限られているのも、一方では東海道線における積雪の分布状態と密接な関係にあることを示すものにほかならない11)」とのべている。大津駅周辺の家にもわずかながら、軒さきから4~5枚めの瓦にこの雪止め瓦が使用されているのも、「ときどき雪国」のそなえなのだろう。
  湖北の伝統的な民家の特徴は、太い柱が用いられ、急な傾斜をもつカヤぶき屋根となっていることだ(図7)。杉本尚次氏は、「湖北の家は伊香型と名づけられたもので、ほとんど妻入である。屋根は草葺入母屋で勾配の強いものが多い。広間の部分のみが奥の畳敷の床より低くなっていて落間(ニュウジ)とよばれている。いわゆる地床住居である。この構造は“炉の火持ちがよい”といわれ、冬季は地温で保温上便利である。このような間取りが湖北の伊香郡を中心に分布することは、一つには裏日本からこれに隣接する湖北地方にかけての積雪地域に適応した型とも考えられる12)」、とのべた。さらに彼は、湖北の居住様式の特徴として、採光用の「明り窓」、風呂桶の横を開いて中に入り、木製の蓋を被る「蒸風呂」などをあげている。
だが、抗しがたい都市化の進行とともに、湖北の伝統的な生活様式も変化する。たとえば、すでにのべたように高時川の針川などでは廃村化という急激な変化がおこり、また姉川上流の甲津原や知内川上流の国境などではスキー場をもつ民宿村があらわれた。この四半世紀の急速な社会・自然環境の変化は、これまでの地域にねざした伝統的な生活様式をけしてゆく新しい波にみえる。これらの炭焼き村に伝わっていた「山講(やまこう)」などのしきたりはきえていくのだろうか。

図7 カヤぶき屋根の民家(高島市の安曇川上流にて)


だが冬ともなれば、湖北の村里はふたたび深い雪にうもれる。新しい波の影響がいかに大きくとも、湖北の村人と雪との結びつきがきえることはない。重い屋根雪にたえるには太い柱が、また雪おろしの労力をはぶくためには急傾斜の屋根が必要だ。琵琶湖のぬれ雪の密度は0.4~0.5gr/㎝3程度なので、1mの積雪は降水量でいうと400~500㎜ほどになる。これが屋根のうえにそっくりのると、1㎡あたりの重量は400~500㎏にもなり、軽自動車1台分、またはおすもうさん4人程度の重さに相当する。だから、大雪のときには、各家ともたくさんの自動車とおすもうさんをのせているようなものだ。
最近では、伝統的なカヤぶき屋根はトタン屋根にかわったとはいえ、いぜんとして伊香型の急な屋根のスタイルを保っている。新しい波にもまれながらも、伝統的な知恵がいきている。「里人の話だと、カヤぶきの屋根は雪が積もりだすと適度に落としてくれるが、トタン屋根は滑りがよすぎて家が埋まってしまう」(朝日新聞、1981年1月8日)。そのような利点をもつカヤぶき家屋だが、カヤ場の維持や屋根のふきかえが大変で、「カヤ屋根は煙をたえず通して乾燥させないとすぐ腐ってしまう。けど今どき、イロリの時代じゃないしねぇ」(朝日新聞、1981年1月8日)と報道されたように、カヤぶき屋根はすくなくなってしまった。  ドイツ人の建築家、ブルーノ・タウトがたたえた富山・岐阜県境の豪雪地帯の白川村などにみられる合掌造りのように、伊香型家屋は福井県などの多雪地域の民家様式と共通性をもち、これも雪国の生活がうんだ知恵の結晶といえるのではあるまいか。