1.なつかしの樋口研サロン

かつての樋口研サロン(竹中、酒井両氏2011/01/29撮影

ヒマラヤなどを旅していた1960~70年代がなつかしい。
1960年代の北極海とユーラシア大陸の放浪、そしてアラスカの旅のあと、あの”70年安保”で北大にいずらくなったわたくしは、樋口研究室の自由なアトモスフィアーに魅力をかんじた。いわゆる民青と三派の「政治的」なるものよりも、どちらかというと個人的な旅のきらいはあったが、できることなら「探検的」なことをもとめたいとおもっていたからだろう。60年代の放浪の旅で、そこはかとない自由の味を知ってしまったわたくしは、”安保世代”ではあったが(安保の「政治的」なることも、また海外渡航解禁にともなう「探検的」なることも、その根底では、自由を求める行為であるという点では共通しているとおもうが)、どうしても、安保の「政治的」なるもののなかには自由の実現をかんじることができず、より「探検的」なることのなかに新たな自由の達成を希求していたのかも知れぬ。だが、民青と三派の友人たちからは「のんびりと、海外調査などしていられるかい」と、白い目でみられていたし、さらに、わたくしのいた北大・理・地鉱は、おたがいの考えかたが違うと、学問上の議論もしてくれないという奇妙な教室だった。1970年前後の1部の大学は、(残念ながら)そういうアトモスフィアーだった。
「探検的」なるものをとりまく北海道でのわたくしの環境は、当時、そのような状況だったが、樋口研究室には、わたくしとおなじように、ヒマラヤなどのフィールドをめざす若者がたむろしていたのである。わたくしたちは世界各地のあたらしい情報に飢えていたのだろう。樋口研究室の1角、名古屋大学・水圏科学研究所401号室(「サロン」)からは、おおくの若者がアジアや北・南極、北・南米、アフリカなどに旅たっていくことになる。そこは、グローバルな旅をもくろむサロンであったといってもよいかもしれぬ。「規模雄大」をもってする中谷宇吉郎先生の流れをくむ樋口先生の、あの「地球からの発想」の旅をつくるサロン。ある面では、「名大探検部」的な性格もあったのではなかろうか。そうした場のもつアトモスフィアーは、そこにあつまってくる若者たちがもちこむ生の情報と、それらによって醸造される新しいプランによってつくられるのであるが、その醸造過程をつぶさに体験できたことは、実におおくの影響をわたくしにあたえてくれることになる。樋口サロンには若者たちをあつめる求心力があった、とおもう。そしてそこから、若者たちは(樋口先生も)世界に発散して行った。
それにしても、樋口サロンが蓄積してきた貴重な情報のストックをうまく利用できるようにし、将来にわたって、じょうずに活用できる方法はないものか?なにせ、ネパール・ヒマラヤの航空写真だけでも、9000枚をこえるのである。そこに蓄積された画像情報などは、あのサロンの若者がうみだした、四半世紀まえからの世界各地のデーターバンクだ。それは、新たなる若者たちの糧になるのではなかろうか。そして、「規模雄大」な発想をうむデーターベースへと発展していく可能性を秘めているとおもう。だから、現在の若者たちがそれらのデーターベースから新しいニーズや価値をひきだしてくれるのではないか、とひそかに期待したい。そのことが、ポスト樋口サロンの新しい場ずくりの財産となろう。
わたくしが今いる琵琶湖研究所のように、富栄養化などの病にかかった琵琶湖という具体的なフィールドを相手にしていると、どうしても、すぐに役だつ研究成果を求められがちである。環境研究にたずさわるものの現場では、「のんびりと科学的に明らかにするよりも、一刻もはやく応急処置してくれ」(税金を使って、好きかってなことをやってくれては困る)などともいわれる。これらの指摘をきいていると、(なんだ、70年前後の民青と三派の諸君からいわれたこととにているな)と腹のなかではおもう。そのようなときはことさらに、ヒマラヤなどをより自由に旅していた1960~70年代がなつかしい。(1999年7月記す)その後、JAXAの矢吹裕伯氏を中心にしてデータベース化がすすめらた。