2015年春ネパール調査(8)  ネパール地震(2) ポカラ紀行(写真速報)

 20年前の神戸を思い出すようなカトマンズの地震被害の状況を見たうえで、ポカラで長年世話になっている国際山岳博物館などの人に聞いても、「ポカラはなんともなかった」と言うのである。カトマンズや周辺のバクタプール、パタンでも、古い家が、特に歴史的建造物などがのきなみ倒壊し、著しい被害がでているのに、「ポカラのオールド・バザールの古い家並みも大丈夫」と言っている。

   今回の地震の震源地はラムジュン(Lamjung)と言われた(*)。ラムジュンはポカラから50キロほどのすぐ東隣りである(写真1)。震源地から200キロほども離れて遠いカトマンズ周辺が大災害になっているのに、より近いポカラがなんともないとは、これはどうしたことか。バスのルートはカトマンズからほぼ西200キロのポカラに近づくにつれて、震源地といわれていたラムジュンの近くを通るので、車窓から見る被災地の状況変化に注目した。

    (*)おそらく、アメリカ地質調査所(USGS)の「M7.8 – 34km ESE of Lamjung, Nepal」
http://earthquake.usgs.gov/earthquakes/eventpage/us20002926#general_summary
あたりから、ラムジュン震源地(震央)説が広まったのではなかろうか。カトマンズのランドマークの1つであるビムセン・タワー(ダラハラ)が倒れ、ランドマークが消えてしまった(写真2)。かつて1934年の地震の時にもビムセン・タワーは中程で倒れている(写真3の右上)ので、今回は81年ぶりということになる。よく言われることであるが、大地震は80~100年毎に(忘れた頃に)やってくるそうだが、その地震発生の確率が正しいとすれば、カトマンズ周辺の大災害を見るにつけ、その対策・対応に手抜かりがあったということになるであろうか。バスでポカラに向かう時には、カトマンズの中央郵便局前の十字路を競技場方向に曲がる際、ビムセン・タワーが白い優雅な姿を見せてくれていた(写真3)のだが、無残にも根元付近から折れてしまったのである。1934年の時の写真では、中程で折れていたので、今回の方が折れ方がより激しいようだ(写真2と3の右上)。
カトマンズから西に、ポカラに向かう街道筋の古いレンガづくりの民家はのきなみ大きな被害をうけている(写真4)が、比較的新しい家は被害を免れているとはいえ、地盤が軟弱で滑りやすい場所では、新しい家でも大きく傾いている(写真5)。かつて調査したこの街道筋近くの新興住宅地*は、はたしてどうなっているだろうか。ポカラから戻ったら再調査したい。
*Housing Site and Landslide in Kathmandu
http://glacierworld.weebly.com/1housing-site-and-landslide-in-kathmandu.htmlカトマンズ盆地の西の峠を越えて、トリスリ川の渓谷に下る街道から北にガネッシュ・ヒマールが眺められ、その手前に、今回の地震で大きな災害をこうむったシンドパルチョーク地域が垣間見える(写真6)。遠くから見ても、森林に覆われた山肌には、ところどころ地すべりで削られた斜面が現れており、この地域で被災された住民がヘリコプターでカトマンズ大学病院へ運ばれていた(*1)。この地域の災害状況はこの報告の最後に付録のなかで紹介している各種新聞や雑誌(*2)でも取りあげられている。
(*1)2015年ネパール春調査(6) カトマンズ大学にて(3) ネパール地震(1)
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015_04_01_archive.html
(*2)How ‘Crisis Mapping’ Is Shaping Disaster Relief in Nepal
http://news.nationalgeographic.com/2015/05/150501-nepal-crisis-mapping-disaster-relief-earthquake/カトマンズからポカラへの街道は、トリスリ川とマルシャンディ川が合流するムグリンから南下すると、ネパール南部からインドへ通じる大動脈なので、普段は通行量が多いが、普段より車が少ないのは地震の影響と思われる。ただ、救援物資運搬中の表示シート(写真7)や赤い十字のマークを貼ったトラックがなパール南部地域からカトマンズに向かっていた。トリスり川沿いの集落では、比較的新しい民家でも大きな災害を受けているのが車窓から見てとれる(写真8)。トリスリ川沿いの道がムグリンでネパール南部やインド方面への街道と別れ、マルシャンディ川沿いに進むと、南からヒマルチュリ、ピーク29、そして8千m峰のマナスル、いわゆるマナスル三山が現れる(写真9)。マナスルとピーク29の手前直下には2008年以来調査しているツラギ氷河湖があり、そのため分岐地点のドゥムレからラムジュン地域を通り、マルシャディ川を北上するツラギ氷河湖へのラムジュン地域の道は記憶に焼きついているが、今回の地震の震源地がこの地域と報道されたのでなおのこと気になってしょうがなかった。

ラムジュン地域が今回の地震の震源地(震央)と言われているのに、ムグリンからドゥムレのラクジュン地域に向かうにつれて、地震被害を受けた民家は見られなくなった。震源地に近づいているのに被害がほとんど見えてこないのが解せなかった。そんなことがありうるのだろうか。

ドゥムレに向かうにつれ、スレートの石を張りつめた重量感のある民家も被害を受けてはいないのに驚いた。というのは、20年前の神戸・淡路大震災では、灘の酒蔵などの重たい瓦屋根の建物が軒並み倒され、変動地形の大家、藤田和夫先生をお見舞いに行ったら、やはり瓦屋根の邸宅が倒壊していた。石や瓦の屋根は重たい(慣性が大きい)ので、大きくは揺れにくいが、地面と密着した土台は地震に追従して揺れるので、家がひしゃげてしまって、倒壊しやすくなると言われている。ドゥムレ周辺のスレート屋根の民家が被害を受けなかったということは、震源地と言われたラムジュン近くの地震の揺れは、そもそも大きくはなかったことを示している、と解釈できる。

ドゥムレ周辺の民家にはトタン屋根が見られた(写真12)。トタンが導入される前はスレート屋根だったと思われるが、トタンのほうがスレートの石よりも軽いので、地震に対しては安全性が高いのは確かだ。カトマンズ大学の宿舎に泊まっている職員や学生が、トタン屋根の食堂で夜を過ごしていた*ように、トタン屋根は地震対策の1つになると感じた。トタンは錆びると汚い感じがするので、ラムジュン・ヒマールのふもとの民家を見たとき(写真13)も景観的に問題があると思ったものだが、生きるか死ぬかの地震災害を考えたら、まずは景観のことなど言っていられないだろう。
*2015年ネパール春調査(6) カトマンズ大学にて(3) ネパール地震(1)
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015_04_01_archive.html

ただし、トタン屋根の集落で景観問題も解決したのがクンブ地域の村(写真14)である。水色や緑のペンキを塗り、錆止めし、村全体が統一されている。没個性的な感じがしなくもないが、とにかく安全性とサビの問題を解決した点は良し、としたい。

ポカラに近くなると、相変わらずの新築ラッシュであった(写真15)。各柱部分には8本ほどの鉄棒を立てセメントで固めたネパール式の鉄筋建築である。このような鉄筋建築は、よほど地盤が悪くない限り、今回の地震では被害を受けてはいなかった。建築中の床や屋根部分を支えている竹の棒があっち向いたりこっち向いたりで不安定な感じがするのだが、これでもそれなりの経験に裏打ちされたネパールの工法なのであろう。ただ、ネパール式の鉄筋建築は地震に対して効果があったと思われるが、建築ラッシュで大量の砂・砂利を河川から取ってくることから、かつての日本で議論されたような環境問題になることには留意したほうが良い。

それでは最後に、ポカラのオールド・バザールの伝統的な民家を見てみたい。1つはスレートを使った重たい屋根(写真16)で、先にも述べたように、地震の揺れに対しては弱い弱点を持つものだが、今回の地震でも被害がなかったようだ。ポカラの震度が小さかった証であろう。またもう1つは、ポカラの伝統的な民家の中でも最大の建物ではなかろうか(写真17)。レンガ造りで、屋根にはトタンが敷いてある。トタンは新しい用材なので、かつてはスレート屋根であったと思われるが、今回のポカラの震度の小さかったことに加えて、屋根がトタンで軽かったため、被害をまぬがれたものと思われる。また特に、トタンのサビの茶色が壁のレンガ色にマッチしている、といえなくもない。ネパールのレンガを使った伝統的な民家であれば、たとえトタンが錆びていても、地震対策の点や景観的にも、それほど悪くないというのが今回のポカラ紀行の結論の1つである。

ポカラには、3時半の予定が2時半に到着した。着いてすぐ、友人に迎えに来てくれるよう電話したのだが、1時間も早く着いてしまったので、友人はびっくりしていた。バスの到着は遅くなることはあっても、早くなることはないからである。それだけ、地震の被害少ない道の状況も良かったし、車も地震の影響で比較的少なかったので、私たちのバスはスムースに走れたのであろう。途中で眺めたマナスル三山周辺の雲はほとんどなくなり、雪をいただいた神々の座は夕日に赤く染まり、西方には満月が輝いていた(写真18)。

ポカラ紀行のまとめ
5月3日のカトマンズからポカラへのバス・ルートはほぼ西に向かって200キロ、ポカラに近づくにつれて、震源地といわれていたラムジュン近くを通るので、車窓から見る被災地の状況変化に注目したところ、下記の点が印象深く心に残った。


1)カトマンズからムグリン周辺までは家屋などへの地震被害が多く見られたが、ラムジュン周辺のドウムレからポカラに近づくにつれて、家屋などへの地震被害は少なくなった。
2)したがって、当初報道されたラムジュン震央説は再考を要すると思われる。
3)地震の規模を示すマグニチュードは当初の7.9→7.8→7.6に、また震央はラムジュンから5月5日の新聞ではゴルカ地域のバルパクに修正されているように、正確な情報を確立する必要がある。
4)家屋の具体的な地震対策としては、軽いトタン屋根が現実的で、壁材がレンガなら、景観的にはトタンの鉄サビもそれほど気にはならないが、さらにクンブ地域の例のように、ペンキで屋根の色を統一している集落も参考にはなる。
5)ネパール式の鉄筋建築は地震に対して効果があったと思われるが、建築ラッシュで大量の砂・砂利を河川から取ってくることから、かつての日本で議論されたような環境問題になる可能性がある。

以上のように総じて言えば、震源地といわれていたラムジュン地域のすぐ西隣りのポカラの家々はカトマンズ周辺のような大きな被害もなく、学校もカトマンズのように半月以上も休校することもなく、通常通りの学校・市民生活が営まれているのである。カトマンズ周辺のような大被害見舞われたところだけの狭い視点でなく、たとえばポカラ・カトマンズ間200キロ規模またはそれ以上のスケールでの鳥瞰図的視点から見た地域的特徴も、今回の2015年ネパール地震の正しい実態を明らかにするうえで必要になる、と考える。

最後に蛇足かもしれないが、地震の影響で観光客が少なくなり、ホテルや土産物店などの観光産業に影響が出ているとともに、また展示更新を現在行っている国際山岳博物館への見学者も減っているとのことであった。

付録
1)地震情報
高知県立大学の大村 誠さんから教えていただいたのが、国土地理院による2015ネパール地震の解析結果(写真19)で、内容は下記の通りである。


【地殻変動の特徴】
・地震に伴い10cm以上の地殻変動が見られる領域は、カトマンズ北方を中心として、東西160km程度、南北120km程度の範囲に広がっています。変動域の南部は隆起、北部は沈降しています。
・カトマンズの北方から約30km東方にかけての領域が最も地殻変動が大きく、最大で1.2m以上変位したことがわかりました。地震に伴い大きく隆起したと考えられます。
・観測された地殻変動の特徴から、北北東傾斜の断層による逆断層滑りが生じたとみられます。
【断層モデルの推定結果】
・カトマンズの北東20-30kmの領域の直下に、最大4m超の滑りが推定されました。
・やや右横ずれ成分を含む逆断層滑りが推定されました。この結果は、地震波の分析とも整合しています。
なお、今回の結果は速報であり、今後より詳細な分析等により、今後内容が更新されることがあります。

国土地理院による2015ネパール地震の解析結果によると、震源地(震央)はポカラに近いラムジュン、地震規模を示すマグニチュードが7.8(当初のネパールの報道では7.9)で、余震の震源地域全体が逆断層滑りを起こしている、とのことである。つまり、正断層のように断層面の上側の地盤が滑り落ちるのではなく、断層面の上側の地盤がせり上がるような動きを起こしている、と報告している。このことは、この地域全体に圧縮応力が働いた結果、断層面の上側の地盤がせり上がる「逆断層滑りが生じ」たものと解釈できようが、「変動域の南部は隆起、北部は沈降」したとはどういうことであろうか。逆断層滑りで南部が隆起するのは理解できるが、同じメカニズムで北部が何故沈降するのかが分からない。それとも北部は正断層のメカニズムで断層面の上側の地盤が滑り落ちたのなら、沈降したことが理解できるのである、が。

5月5日のネパールの新聞(The Himalayan Times)によれば、震源地は当初発表のラムジュンではなく、ゴルカ地域のバルパックで、マグニチュードは7.6とさらに低く見積もらている(写真20)。震源地がゴルカ地域ならば、写真19の余震地域のほぼ中央に位置するので、4月25日午前11時56分の本震の震源地からほぼ四方にその影響が余震の震源地となって現れたものと解釈できるし、またゴルカ地域のすぐ北側のシンドパルチョークに著しい被害が出ていることも、かつ湖底堆積物で軟弱地盤のカトマンズ周辺で被害大きく、ラムジュンに近いポカラで被害少ない地域的特徴を理解することができるのである。
国土地理院による解析結果では、震源地をラムジュンとしているために、なぜ、震源地に近いポカラで被害が少なく、シンドパルチョークやカトマンズなどで被害大きいのか、が理解できなかったが、2015ネパール地震のマグニチュードが当初の7.9→7.8→7.6と変わってきているように、正しい震源地についても新たな情報があきらかになれば、今回の地震の地域的特徴がより明らかになるものと思われる。

最近の地元の新聞では、被害の大きかったシンドパルチョーク地域とともに、新たな震源地として報道されたゴルカ地域のバルパックの取材記事が多くなっている(写真21)。その例は日本の新聞にも見られ(写真22)、”ネパール地震:震源地・バルパク 標高2000メートル「ツナミのよう」 道なき道、物資背負い”などとの見出しで大きく報道されている。記事には、”鳥のさえずりが響く中、「ツナミにやられたようだ」と村人が言った”と記しているが、山国ネパールの村人が「津波」を知っているかどうかはともかく、今回の2015年ネパール地震でも、被害をセンセーショナルに報道するあまり、当初の震源地ラムジュンに近いポカラで被害少なかったことなども、地震の正確な実態をつかむために必要なことであるがセンセーショナルな報道の陰に隠れてしまっているのは残念と言わざるをえない。

2)カトマンズ周辺の被害状況
それでは最後に、文化的建造物が多く、世界遺産にも登録されているカトマンズ周辺の被害状況を報告する。
バクタプールの伝統的文化施設はかつてドイツの支援もあり、また保存のために一人1500ルピーの入場料をとって、維持管理してきたのであるが、今回の2015年ネパール地震で多くの世界遺産に被害が出てしまった(写真23)。80年ほど前のかつての1934年代地震から考えると、今回のような大地震がいつあってもおかしくはない状況にあっただけに、被害軽減と災害防止のための手立てが十分だったのかどうか、悔やまれる。
パタンのマンガル・バザール周辺の歴史的建造物群もかなりの被害が出ており(写真24)、早急な修復作業が必要になっている。
軟弱地盤である湖成堆積物の上に建つカトマンズのダルバール・スクエアーの旧王宮建物群にはかなりの被害が出ている(写真25)。
バクタプールの古い民家の被害も大きく、崩れた建材で通路がふさがれている状況を見て、20年前の阪神淡路大震災の神戸の街を思い出した。

写真説明
写真1 GPS軌跡の青い線がカトマンズからポカラへのバス・ルート(2015.05.03)
写真2 カトマンズのランドマーク、ビムセン・タワーが消えた(右上;今回の地震で根元から倒壊したビムセン・タワー)。
写真3 3年前のカトマンズのランドマークと1934年の地震で倒壊したビムセン・タワー(右上)。
写真4 カトマンズ郊外の街道筋の古い民家の被害
写真5 カトマンズ郊外の傾いた新しい民家
写真6 被害の大きかったガネッシュ・ヒマール南部のシンドパルチョーク地域周辺
写真7 救援物資を運ぶトラック隊
写真8 トリスリ川沿いの大きく破壊した民家
写真9 ドゥムレ周辺から眺めたマナスル三山(左の円内の左がマナスル、右がピーク29; 右の円内がヒマルチュリ)
写真10 ドゥムレ周辺で被害のないスレート屋根の民家
写真11 神戸・淡路大震災で倒壊した瓦屋根の邸宅の前に立たれる藤田和夫先生
写真12 ドゥムレ周辺で被害のないトタン屋根民家
写真13 ラムジュン地域のトタン屋根の民家
写真14 クンブ地域クンデの新しいトタン屋根民家の集落
写真15 ポカラで建築中のネパール式鉄筋の民家
写真16 ポカラのオールド・バザールのスレート屋根の伝統的民家
写真17 ポカラのオールド・バザールのトタン屋根の伝統的民家
写真18 夕日のマナスル三山と左上の満月(合成写真)
写真19 国土地理院による合成開口レーダー(SAR)の解析結果に地名などを加えた図
写真20 The Himalayan Timesの新たな震源地ゴルカ地域のバルパックを示す図 (Page 3 ; 2015.05.05)
写真21 震源地ゴルカ地域のバルパックの災害状況(The Himalayan Times ; 2015.05.04)
写真22 震源地ゴルカ地域のバルパックの災害状況(毎日新聞 ; 2015.05.06)
写真23 バクタプールの破壊された歴史的建造物の片付け作業
写真24 パタンの破壊された歴史的建造物の片付け作業と見守る観光客
写真25 カトマンズの破壊された歴史的建造物前を通過する地元の人たち
写真26 バクタプールの破壊された民家を通り抜ける地元の人たち