2015春ネパール調査(9) ネパール地震(3)ポカラからカトマンズにもどりて(写真速報)

ポカラからカトマンズへ

  カトマンズの代表的な木の花を紫色のジャカランダ(写真1)とすると、ポカラは朱色の火炎樹(写真2)だろう。火炎樹はマレーシアなどの赤道に近い地域の花で、ポカラはカトマンズよりも600mほども低く、より暖かく、熱帯的な気候であるので、火炎樹に適しているのであろう。両都市の女性たちが着るサリーの色にも両者の色が反映しているような印象がある。火炎樹が咲きはじめたポカラを後に、5月14日、カトマンズまでの約200キロの道中(写真3)をふたたびバスで復習した。ヒマラヤ山脈のアンナプルナとマナスルを水源とするマルシャンディ川とガネッシュとランタンを水源とするトリスリ川の合流地点、道中のほぼ中間地点であるムグリンまでは地震による家屋倒壊などはほとんど見られないが、ムグリン以降は、カトマンズに近づくにつれて被害家屋が多くなり(写真4)、テント暮らしの人たちが増えてくる。

往路で見たマルシャンディ川は氷河起源をしめすグレーシャーミルクの乳白色をしていたが、復路に見ると、トリスリ川同様の泥色の川(写真5)になっていた。上流で大規模な土砂崩れなどの自然破壊が起こっているのかもしれい。また、中国が上流で建設している大規模なダム建設の人為的影響もある可能性がある。ムグリン近くの日本の援助でできた既存のダムでは発電のための取水をするので、マルシャンディ川の一部が涸れ川になるが、今回のマルシャンディ川は涸れることなく、大量の泥水を流していた。今年は降水量が多く、豊水年になっているためなのだろうか。降水量が多いことはヒマラヤの降雪量も増えていることを示し、そのことが今回のエベレスト・ベース・キャンプやランタン地域などでの雪崩災害とも結びついている。

カトマンズにもどり、定宿のターメル地域に行くと、バザールの家々は比較的新しいため倒壊被害は免れたが、壁などのひび割れなどがあり、観光客相手の店が半分以上も閉まっている。馴染みの日本料理店も当分は閉店休業だという。今回は既に泊まっていた2軒のホテルが建物の被害が大きいため閉まっており、その近くの日本人が設計したという地震被害がない3番目のホテルに泊まることができた。耐震設計で建設されたかどうかで明らかな違いが出ている。そのためもあり、ホテル代が当初の900から2番目の1200、そして今回3番目の2000ルピーへとしだいに高くなったが、それもいたしかたない。.


カトマンズにもどりて (新興住宅開発地域)

  2005年9月25~26日にカトマンズで国際地滑りシンポジウムが開かれた時、カトマンズ近郊の新興住宅開発地域で地滑りが発生*したので、エクスカーションにくわわり、地すべり地域の危険な住宅開発を実感したが、その地滑り地域が今回の地震でどんな影響受けたのか、カトマンズにもどった翌日に調査に出かけた。カトマンズの西のソエンブナート寺院近くのその住宅開発地域は平坦な台地(状のテラス)下の斜面にあるのだが、10年前に田園地帯だったその地域は都市化が急速に進み、かつての面影がなくなったため、すぐには目指す住宅開発地域に着くことができなかった。最初は、テラスの上に行く道に入ってしまったので、テラスの上から展望し、住宅開発地域への道をやっと確認することができたほど、都市景観が変わってしまっていた。
*Housing Site and Landslide in Kathmandu
http://glacierworld.weebly.com/1housing-site-and-landslide-in-kathmandu.html住宅開発地域に入り、西端の地滑り地点に近づくと、地中に幅50cmほどのコンクリートの堤防状の構築物が5列、20m間隔でつくられており(写真6)、近くでボーリング作業が行われていた。聞くと、堤防状の構築物は深さ6m、底部の幅は3mあるとのことで、この構築物によって地滑りをくい止めることができたそうだ。そこで住宅開発を推進するため、ボーリングで地下水を探していたところ、地下230mのカトマンズの湖底堆積物底部から飲料水に適した地下水が出てきたとのことである。

カトマンズの湖底堆積物は砂や粘土のため水をふくむと軟弱地盤になり、地震で大きくの揺れる。10年前に建てた家でも塀や壁のひび割れや部分的な倒壊が起こっていた。家の人たちは、余震が続き、とうてい家には住めないので、戸外でテント生活をしている(写真7)、と語っていた。10年前に較べて、現在のところ住宅個数はあまり増えていないが、今後は住宅開発が進むことであろう。その際、地滑りを止めたという堤防状の構築物が地下水を貯めるダムのようになって、砂や粘土の堆積物の軟弱地盤化を引き起こす可能性が考えられるので、カトマンズでは軟弱地盤対策なしに住宅開発がすすむと、さらなる地震での被害は免れえないであろう。今回の地震が土壌水分量の少ない乾季の4月に起こったことは不幸中の幸いで、もし6月から9月の雨季に起こっていたら、土壌水分量の増加による軟弱地盤化で家屋の倒壊はさらに増えたことであろう。


スワヤンブナート寺院と自然史博物館

  カトマンズ西の丘にあるソエンブー寺院はポピュラーな観光地の1つである。仏教寺院とヒンズー教寺院などが共存する多神教の聖地になっていると思われるが、なかでもその中心に鎮座するのがラマ教の仏塔である。これらの貴重な寺院が大きな被害受けたため、現在その片付けや部分的な修復が行わている。そこで、観光客が入ることが禁止されているが、幸い門番がポカラの人だったので、ポカラのよもやま話をするうちに、入ることを許してくれた。ソエンブー寺院の破壊の様(写真8)を見て、チベット高原のギャンツェの白居寺(パンコル・チョエデ)寺院を思い出した。毛沢東一派が仕掛けた文化大革命で紅衛兵によって寺院などがめちゃくちゃに破壊されていた。まさに、巨大な人災そのものであった。ソエンブー寺院の破壊された仏塔にX字型の亀裂(写真8)ができているが、これは岩石などの圧縮実験で上下方向から強い応力がはたらく時の特徴で、地震の際に仏塔が大きく揺れ、上下方向に圧縮応力がはたらいたことを示している。このような亀裂の特徴は1995年の阪神・淡路大震災の時に神戸で被災した建物でも観察された(付録の写真16)。

この丘の上の寺院群からはカトマンズの街が一望できるが、カトマンズのかつての伝統・文化的な風景は見る影もなく崩れ、ランドマークだったビムセン・タワーも消え(*)、ところどころに、大規模なテント村(写真9)が散在している。あと半月もすれば、4ヶ月もつづく雨期になるが、それまでに家が修復できないと、テント暮らしはますますきびしくなることであろう。すでにこちらでは、6月の梅雨の花、アジサイが咲き始めている(写真10)。
(*)2015年ネパール地震(2)ポカラ紀行(写真速報)
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015/05/2015-2015.html

スワヤンブナート寺院の南側にはトリブバン大学付属自然史博物館がある。京都大学に留学したケシャブ・シュレスタさん(写真11)は当博物館の館長だった方で、荒廃した環境を取り戻すため、環境教育と緑化活動を進めるNGO組織「ネパール環境教育開発センター」(略称セニード)を設立したので、私たちもその活動を支援してきている。今回は自然史博物館の現状を見るために行ったところ、博物館は閉鎖され、玄関と前庭周辺にはテントが張ってあり、避難民が滞在していた。玄関前にいた方にケシャブさんのことを尋ねると、電話してくれ、3日前にカナダから戻ってきたばかりのケシャブさんとの再会を果たすことができた。


付録(今後の予定をふくむ)

  新興住宅開発地域からソエンブー寺院へのリングロード周辺には急速な発展を象徴的にしめす大きなビルが建てられたが、淡路・阪神大震災の際神戸で見たのと同じように、いくつかの建物は完全に根元から崩れていた(写真12)。それにしても、神戸と同じ規模の家屋の破壊が起こったのに、なぜ神戸のような大火災による2次的な大被害が起こらなかったのであろう。木の家と土やレンガの建物の違いなのだろうか。火を使う時間からすれば、神戸が朝6時前、カトマンズが昼12時前で、カトマンズの方が火を使う可能性が神戸よりも大きかったのにも関わらず、カトマンズでは大火災が起こらなかった。日本が学ぶべき点であろう。すでにその破壊の現場には、鉄くずなどの金目の物を探す人々の姿があり(写真13)、荒廃から立ち上がる第1歩はこうした人たちによってはじめられている。

カトマンズ大学への途中で、バクタプールのリジャンさんの家を訪れると、家の前で、地震が来ないことを祈る祭り(チャマ・プザ)が開かれていた。祭りの中央にはチュラという乾燥した(アルファー米のような)お米を山盛りにし、豆や野菜などで飾りつけた様式(写真14)を見ると、豊作祈願の意味もふくまれているのだろうか。ただ、祭りの最中に空が暗くなり、雷雨にともない直径5mmほどのヒョウも激しく降りはじめた。祭りは中断され、人々は心配そうに空を見上げていた(写真15)。私たちはその時点でバクタプールを離れ、カトマンズ大学に戻ったが、後でリジャンさんに聞くと、その後雨も上がり、祭りは続き、とどこおりなく終了したとのことである。祭りのご利益で大規模地震が来ないことを期待するばかりである。

今回の地震で今後の予定にもいくつか変更がでてきた。まずは、当初予定していたカトマンズのヒマラヤ研究機関(ICIMOD)とのヒマラヤ写真データベースの英語版作成の共同作業については、ICIMOD自身がこの地震調査で忙しくなったため当分延期せざるをえない。また、ネパールの詩人で、日本文学の紹介者であったチェトラ・プラタップ・アディカリさん(*1)の1周忌の法事もこの大災害によって延期されることになった。さらに、カトマンズ大学は1ヶ月間の休校に入ったため、講義はなくなり、留学生たちは帰国しはじめている。講義はなくなったとはいえ、講義のホームページ(*2)の最終的なまとめをするとともに、今春のネパール調査の報告のなかで、今回の地震情報もできるだけ取り入れて、学生および関係者が今後も利用できるようにしていきたいと考えている。そのため、静かになったカトマンズ大学のキャンパスで最終的なまとめの作業を行ったうえで、予定通り6月10日に帰国するつもりでいる。

最後になるが、私はこれまでネパールで3回の災害を体験している。1回目はクンブ地域で1977年9月3日のミンボー谷の氷河湖決壊洪水(*3)、2回目は2012年5月5日のポカラのセティ川洪水(*4)、そして3度目が2015年4月25日、つまり今回の地震である。まさしく、2度あることは3度ある、の例えのようになったが、気になるのは発生頻度が短くなってきているようなのだ。このことは、ネパールで体験する災害が3度で終わらずに、また近々、4度目が起こるやもしれないことを示すのだろうか。それにしても、ヒマラヤ関連の調査をする者とって、クンブ地域のイムジャ氷河湖近くのディンボチェ村の危機感を訴える住民が私たちのところに来て2009年4月に語った次の言葉(*5)を忘れてはならない。「去年は氷河湖調査隊が7隊も来た。調査隊は危険だとは言うが、何が、どのように危険なのかは言ってくれない。危険という言葉が独り歩きしているので、学校も発電所も作ることができないで困っている。もう、調査隊はたくさんだ。」
(*1)ネパール2014春調査報告 11 お世話になった人々
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2014/06/2014-11-6-6-2014-2014-april-01-is-april.html
http://glacierworld.weebly.com/2014241802614912493124971254012523355192661911.html
(*2)Kathmandu University Lecture-Environmental Changes of the Nepal Himalaya-
http://environmentalchangesofthenepalhimalaya.weebly.com/
(*3)Glacier Lake Outburst Flood (GLOF)
http://glacierworld.weebly.com/2glacier-lake-outburst-flood.html
(*4)セティ川洪水
http://glacierworld.weebly.com/5124751248612451240292794627700.html
(*5)イムジャ氷河湖関連報告
http://glacierworld.weebly.com/612452125121247212515277032782728246.html