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6.私のフィールドワーク

  1999年正月、ヒマラヤのフィールドワークが始まってから25年周年の会合があった。、ネパール・ヒマラヤ氷河学術調査隊のことである。このヒマラヤのフィールドワークの経験から「私のフィールドワーク」について述べる。

ネパール・ヒマラヤ氷河学術調査隊の正式名称は Glaciological Expedition of Nepal である。英語の略称は”GEN”、直訳すると、ネパールの氷河調査隊。GENだけでは見えないけれど、GEとNのあいだに”of”が入っている。しかし、メンバーが日本からきている隊なので、GE”to”N(ネパールへの氷河調査隊)であって、GE”of”Nでは英語の表現としておかしいという意見もあった。先遣隊メンバーとしてカトマズ入りしたぼくが調査許可を得るために作った当初のGE”to”Nの計画書では、ネパール外務省での2カ月ちかい交渉でも調査許可がもらえなかったのである。外国人によるネパールへの氷河遠征隊というニュアンスが強すぎたのだろうか。調査許可の交渉のためネパール外務省に日参しているうちに、ネパール人とのつきあいも深くなり、それにつれてネパール語もいけるようになると、考えかたもだんだん変わってくるものである。時は1973年春、ぼくは大学院の学生であった。

(よし、できるだけ現地主義でいこう。)

ぼくたち、貧乏学生調査隊は、食料や薪などの衣食住をはじめとして、現地のひとびとの協力なしにはやっていけないのだから、好むと好まざるとにかかわらずかなりの部分を現地主義でいかざるをえなかったのである。たとえば薪についても地元の理解が必要で、モンスーン中は「宗教上の理由で煙をだしてはいけない」との申し出があったときも、それでは基地運営ができないので、地元の村の人びとと何回にもおよぶ協議をおこなったうえで、やっとわたしたちの調査活動を理解してもらったこともあった。英語の表現が少しくらいおかしくとも、GE”of”Nだと、現地主義の感じがでているではないか。GE”to”Nでは、いかにも、よそ者がやっている感じがするし、さらにすすめて、GE”for”N(ネパールのための氷河調査隊)のほうがよかったかな、と考えないでもなかったが---。

ところで、GE”of”Nの計画書にしてしばらくすると、ネパール外務省は許可証をついに発行してくれたのである。そこで、地元の人たちの協力を得ながら、世界最高峰チョモランマ(8848m)のふもとのハージュンに、観測基地を建設した。地元の人によると、地名のハージュンとはシェルパ語で、幸福をもたらす神のすむ平らな土地という意味があるとのこと。ゲン(験、GEN)がよくなりますようにと期待しながら、1973年春、ネパールヒマラヤ氷河調査隊(GEN)をスタートさせることができたのであった。

ネパールヒマラヤ氷河調査隊の目的は、ネパールヒマラヤの氷河の実態を明らかにすることで、氷河形成にかかわる気象や地形的調査を大学院生が中心になって始めたのであった。学生であるからに、当然のごとく金がない。そのため、1973年の沖縄海洋博用の長さ30m、直径30cmの氷柱を切り出しに、北極海の氷島へでかけ、500万円ほどの軍資金をかせぐことなどもしたのである。通算10人ほどの学生たちが1年間の継続調査をてがけることができたのは、主としてこのアルバイトのおかげであった。この年のぼくは、半年のヒマラヤのフィールドワークで15キロの減量に成功したものの、その直後の北極海の贅沢な生活でふたたび体重が元に戻るという大変化を経験したのも今ととなっては懐かしい思い出である。この学生隊が発端となって、翌年からの文部省の長期海外学術調査へと発展していったのである。

1960年代までのネパール・ヒマラヤの氷河調査隊は、GE”to”Nの時代であった。山登りなどの外国隊と同様、いわゆるよそ者の時代といえよう。そして1970年代になると、ぼくたちのGE”of”Nの観点がめばえたが、1980年前後に発生した氷河湖の決壊による災害を契機として、自然災害対策を目的としたGE”for”N(ネパールのための氷河調査隊)の段階に変化してきたのである。GE”for”Nになるのと併行して、調査を手伝ってくれていた現地の若者の奨学金募集を行い、大学卒業後に地元の学校教師なった彼をさらに援助したり(彼はその後、日本企業の地元所長に転身してしまったが)、また現地の大学や研究機関との共同研究によって、ネパール人研究者も育成されてきているのである。とすると、GE”to”NからGE”of”NをへてGE”for”Nに、調査隊自身も進化してきた、といえるのはなかろうか。このことはとりもなおさず、滋賀県立大学環境科学部のフィ-ルドワーク(FW)も、FW1の課題発見、FW2の解析・分析、FW3の課題解決にいたるプロセスに対比できる、と考えている。課題解決にいたるプロセスには「GE”for”N」と共通する視点があるからである。

1977年の夏、ぼくは学生たちとネパール・ヒマラヤのフィ-ルドワークを行い、全員で4500mの氷河横断をすることもできた。その内容は、その年の湖風祭のとき、各学生がそれぞれのテーマをまとめて発表したので、みなさんの中にはご存知の方があるかも知れない。できれば将来は、このような学生たちの外国のフィ-ルドワークにたいしても一種の「特別実習」として単位をあたえていければ、と考えている。同じように、人間文化学部の学生たちは、モンゴルなどへ行っているとのことだが、外国での新しい経験は必ずや学生たちの将来の糧となり、学生たちをひとまわりもふたまわりも大きくすることであろう。学生たちとのヒマラヤの旅はぼくにとってもかけがえのないものとなったので、その気持ちをおさえきれず、サンライズ出版の”Duet”8巻5号に次のように記したのあった。

「滋賀県立大学のフィールド・ワーク・クラブの部員と、ヒマラヤの環境問題を調査した。調査内容は、ネパールの首都カトマンズの水・大気・ゴミ問題など、および、カトマンズ北方のランタン・ヒマラヤの村々までの自然・社会環境の実態と課題を踏査することであった。ランタン・ヒマラヤは、私にとって21年ぶり。ヒマラヤへの旅は、カトマンズから離れるにしたがって近代化の影響がしだいに少なくなるので、あたかも歴史をさかのぼるタイム・トンネルをくぐるかのようだ。およそ2昔前のヒマラヤの面影を重ねあわしながら、同時に、かつての日本の姿をみいだす旅ともなった。」

フィールド・ワークの原点の1つは,さまざまな課題にひそむ歴史認識にあるのではなかろうか.(1999年1月)

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滋賀県北部栃の木峠での積雪観測実習