3.私の環境への取り組み
「私の環境への取り組み(環境学の広さ、深さ、複雑さを踏まえ、社会との関連を含め、環境に対する考え方、研究活動、教育活動など、環境学における各人 の姿勢や取り組みを自己主張する)」というなにやら「環境優等生」のレポートが期待されているかのような与えられたテーマに当惑しているところであるが、 ぼくはやはり、最近でた滋賀県立大学(県大)環境サークルK季刊誌”おおなまず”創刊号にのべられている「それ(県大)は、期待してええもんなんか?…… 分からん。ただの流行でつくられた、へったくれの地方大学になるかもしれんし、未来を明るくしてくれるかもしれん。」という指摘にかかわる当事者の1人と して、この与えられたテーマに対する答えとして県大環境とのかかわりにおけるぼくを語るのがいちばんふさわしいのではないか、と考えた。とにかく、ぼくは 県大環境に身をおいている。しかも、ぼくのすべてではないにしても、たぶん半分をこえる時間をそれにさいているのだから。したがって、現在までの「私の (県大)環境への取り組み」をのべれば、当惑を禁じえないこのテーマへのぼくの半分以上の答えにはなるであろう。
そもそも県大にきた第1日目、ぼくたちは県庁に集められ、ある書面への署名・押印を求められた。ある書面とは、はなはだ頼りない書きかただが、宣誓書 だったか、契約書だったのか、確認のため学部事務に閲覧を申しこんだが、そういうたぐいの書面はおいそれとは見せてもらえないものらしく、現時点でも再会 できずにいる。さて、その書面には「(署名・押印者は)多数のためにであって、少数のために行動するのではない……」というような文言があった。ぼくに とっては、あまりにも突然の署名・押印要求だったので、まずそこにひっかかった。研究にたずさわる者は、はたして、こういう書面に署名・押印するものだろ うか?そこで、次のようなことを大学事務局長さんにいわざるをえなかった。「研究者として、新しい成果を公表するときは、(多数のためにであって、少数の ために行動するのではない)などということはあまり眼中にない。うまくいけば結果として、多数のためになるかもしれない。しかし、少数のためだけに終わる かもしれない。また場合によっては、空ぶりに終わるかもしれない。ともかく、「だれだれのため」というのは、研究者にとっては口はばったい表現のように思 う。だから、自分という少数の研究者の考えで活動するしかないが、それでよいのでしょうか?」。おかしなことをいう奴だわいというような顔をしながら局長 さんは次長さんたちとも議論の結果、「それでよい」ということになったとぼくは理解したので、多分ぼくもおかしな顔をしながら署名・押印したのであった。 その議論のなかで、ぼくは考えた。(なにしろ、いろいろな方々が「県大はユニークな大学である」と表現していたので、その基本性格として県大は「トップ・ ダウンに流されず、ボトム・アップを重視するユニークな大学」になったらいいな。いわんや「駅弁大学やコンビニ大学」的になってほしくない。)そんなふう にして、県大でのぼくの第1日目はスタートした。
その考え方を環境科学部に反映するための議論が、スタート直後の第2回教授会議事録として残されている。「教授会の運営について意見があり、坂本議長よ り次の回答がされた。(1)教授会は、教授で構成することとし、情報交換のため教授会の他に教員全員の会議を2ヶ月に1度くらい開催することを考えてい る。(2)自発的に研究会を組織すべきで、それを学部が支援する。」とあるが、この議事録では「教授会の運営について」のどんな意見があったのかは不明で ある。そこで、もともとの議事録案を見ると、次のように記されているのである。「4、提案事項 伏見教授から、次の意見があった。(1)情報流通をよくす るために、教授会に教授以外の教員を参加させること。(2)トップダウンでなく、ボトムアップで研究会を組織すべきこと。(3)学部長控え室を研究協力室 という名称に変えるべきこと。」との前段があり、上記議事録につながっているのである。ぼくがいわんとした(1)~(3)は、ボトム・アップという下から の情報発信を重視し、できるだけオープンな情報交換を行うということであった。
さらに、そのようなぼくの考えかたは、県大を元気にする会が昨年まとめた”県大語録”に「大学内のものごとの決まり方は、いわゆる評議会をはじめ教授会 から情報が下りてくるトップ・ダウン方式が強すぎるのではないか。この方式は開学前からすでに決まっていたもののようだ。が、この1年間をふり返ってみる と、このトップ・ダウン方式ではさまざまな矛盾が吹き出している、と思う。というのは、これでは、私たちの主体性を発揮しにくいからである。そこで、各種 の場で、下からの意見をできるだけもち上げていけるボトム・アップ方式も機能するシステムづくりが必要だ、と考えている。私たちそれぞれが納得できるキャ ンパス環境を作るために。そして、その新しいシステムが、大学のユニークさを創る原点になるといいな、と思うのですが。」と記されている。このようなボト ム・アップ方式は、昨年から行われるようになった原発問題の新潟県巻町や米軍基地問題の沖縄県の住民投票とも基本的には同じ手法であり、今後の環境課題解 決のための取り組み手法として、ますます強まっていくだろうことを考えると、県大環境においてもボトム・アップ方式がますます定着していくと良いのに、と 思わざるをえない。
そもそもぼくは、県大への赴任挨拶状で次のようにのべているのである。「この春から、私は下記の滋賀県立大学にきました。新設の大学で、ご覧のように 「環境」の名前が3つもつくところにいます(環境科学部環境生態学科地球環境大講座)。そこで、さらに「環境」を冠した「環境フィールド・ワーク」や「自 然環境学」、「環境地学」などを新入生たちとやりますが、いわゆる冠講座的なものにはしたくありません。そのための環境整備の1つとして、サロン・ワーク にはできるだけ力点をおき、自由闊達な根っこの議論をもとに、建設的なる批判精神の酒を発酵・醸造していきたい、と考えています。ぜひとも、私たちのサロ ンにお立ち寄り、一献を傾け、談論風発していってください。ところで、これまで勤めていた大津の琵琶湖研究所より淀川源流域に北進しましたので、「淀川・ 琵琶湖流域」の上下流(南北)問題ではさらに「北の立場」にも、また「地球環境」の場ではネパールなどでのこれまでの経験から「南の立場」をも重視し、南 北全体を観ていきたい、と考えています。淀川・琵琶湖流域の北の立場は、地球環境の南の立場に通じるのではないか、と見ています」。国際シンポなどで、先 進国北側の代表が「持続的開発の時代から持続的管理の時代へ」などと発言しようものなら、開発途上国南側の代表は「いぜんとして持続的開発の時代である」 ことを強く主張して、会議は平行線をたどることがあるが、南側も北側も納得できる論理はどのあたりにあるのであろうか?
ボトム・アップを重視するぼくは、大学の主人公は学生だ、と考えている。なぜなら、授業料という金ををはらっているのは学生、給料という金をもらってい るのは教職員だからだ。金をもらっている者が主人公面をすることはできぬ、と考える。教職員は、主人公の学生への一種のサービス提供者とみなせるであろ う。そこでぼくは、琵琶湖からの発想に重きをおいた講義のかたわら、環境サークルKやフィールド・ワーク、ジオ・サイエンスなどのクラブ活動の顧問をつと めるはめになり、当然、地球環境大講座のサロンなどで夜などのつき合いもふえてくるが、学生とのつきあいを大いに楽しんでいるところである。なにしろ新し い県大であるからには、部活については学生もぼくもはじめてのことなので、なににつけ手探り状態だ。しかし、学生たちの主体的な活動には目をみはるものが あり、よくいわれる「今ごろの学生達は」という発言がいかに的はずれの批判であることかということを常々実感している。
去年の夏は、学生たちとネパール・ヒマラヤのフィールド・ワークを行い、全員で4500mの氷河横断をすることもできた。その内容は、昨年の湖風祭のと き、各学生がそれぞれのテーマをまとめて発表したので、みなさんの中にはご存知の方があるかも知れない。できれば将来は、このような学生たちの外国の フィールド・ワークにたいしても一種の「特別実習」として単位をあたえていければ、と考えている。同じように、人間文化学部の学生たちは、モンゴルなどへ 行ってきたとのことだが、外国での新しい経験は必ずや学生たちの将来の糧となり、学生たちをひとまわりもふたまわりも大きくすることであろう。学生たちと のヒマラヤの旅はぼくにとってもかけがえのないものとなったので、その気持ちをおさえきれず、次のように記したのあった。
「今年の夏は、滋賀県立大学のフィールド・ワーク・クラブの部員と、ヒマラヤの環境問題を調査した。調査内容は、ネパールの首都カトマンズの水・大気・ゴ ミ問題など、および、カトマンズ北方のランタン・ヒマラヤの村々までの自然・社会環境の実態と課題を踏査することであった。ランタン・ヒマラヤは、私に とって21年ぶり。ヒマラヤへの旅は、カトマンズから離れるにしたがって近代化の影響がしだいに少なくなるので、あたかも歴史をさかのぼるタイム・トンネ ルをくぐるかのようだ。およそ2昔前のヒマラヤの面影を重ねあわしながら、同時に、かつての日本の姿をみいだす旅ともなった。
カトマンズの環境問題の深刻さは話にきいていたが、それ以上だった。まず、車などの排気ガスによる大気汚染(写真1)。 町に出るときはマスクをし、帰るとヨード液でうがいをする。とくに乾期が、ひどい。カトマンズ在住の人にきくと「そんな生活が3年ほど前からつづいてい る」という。テムポーとよばれる三輪のタクシーが、カトマンズでは普及しているが、これが恐ろしいほどの黒い煙をだす。乗っていると、おおいに気がひけ た。最近では、サファー・テムポーとよばれる電気自動車式の環境にやさしいタクシーがある。が、まだまだその数は少ない。サファーとは(きれいな)という 意味。水力の豊富なネパールにとって、サファー・テムポー方式が望ましいのだが。
第1の極地は北極、第2は南極、そして第3がヒマラヤであるとは従来からいわれているが、カトマンズなどの急速な都市化による切実な公害問題をかかえる 地域は人類の生存条件の困難さから考えてみても、”第4の極地”といえるのではなかろうか。そこには、開発途上国共通の環境課題がある。カトマンズのたれ 流し同然の下水(写真2) は、断水時に、穴だらけの上水道管に入りこんでいるそうだ。カトマンズ盆地の河川水の半分は未処理の下水がしめる、という見積もりさえある。そのため酸素 不足の河川水には、魚がほとんどいない。トリブバン大学自然史博物館ちかくのビスヌーマティ川の橋周辺の光景には、驚かされた。ゴミが散乱し、橋の周辺に は豚や犬がうろつき廻る(写真3)。 ゴミを竹篭に背おってきた人が、橋の上から川に投げすてている(ゴミの不法投棄は、日本でも大問題)。鼻をつくような腐敗臭。ヒンズー教の神の名に由来す るビスヌーマティ川の橋周辺が巨大ゴミすて場と化している。’70年代までの田園的なカトマンズがもっていた自浄能力の限界をはるかにこえてしまった光景 である。
カトマンズの大気汚染などの環境問題は、がまんの限界をこえている。将来の健康被害などを考えると、恐ろしい人体実験場のような気がする。久しぶりにヒ マラヤに行ってみると、ヒマラヤの地形や氷河の大変動もさることながら、カトマンズなどの近代化しつつある都市の大変化に「浦島太郎」の心境になったよう な旅になった。なにせ、1970年代に下宿していた家が、町並みの大きな変化でわからなくなってしまうほどだ。1960~’70年代のカトマンズは、人口 約20万程度の実にすがすがしい田園都市だったが、現在の人口は100万人を優にこえ、残念なことに、無計画きわまるむさ苦しい都市になってしまった。カ トマンズは、メキシコ・シティーやアンカラとならんで、世界3大都市汚染地域の1つといわれる。いずれも盆地地形である。汚れた空気と水が盆地の中心部に 集まる。水資源の有効利用から考えると、カトマンズの適正人口は約30万人ほどなので、適正人口をはるかにこえている。開発途上国に共通する大気・水質汚 染などの”第4の極地”化現象をすでに体験した日本の経験が生かせたら、と切に思う」(サンライズ出版、”Duet”、8巻、5号)。
発展途上国と先進国とで考え方の異なる概念、つまり持続的開発でも持続的管理でもなく、南側も北側も納得できる概念として「持続的社会」を創ることが重 要なのではないか、と考えはじめている。企業的な発想の「持続的開発」とか、行政的発想の「持続的管理」という概念それ自体は目的ではなく、「持続的社 会」をつくるためのひとつの手段にすぎない、と解釈できる。「社会」というのもあいまいさの残る表現だが、ボトム・アップ思考からみると、ヒトだけでなく 環境を構成するすべての「社会」が持続的であること、それが目的になる、と考えたい。そう観れば、発展途上国の南側も、先進国の北側も「持続的社会」とい う共通性があるので、歩みよれる地盤ができるのではあるまいか。そのためのひとつの鍵は、日本でも去年からはっきりしてきた新潟県巻町や沖縄県などの原発 や基地問題などを問う一連の住民投票行動にみられる、民意を実現するためのボトム・アップ方式であろう。今年は、産廃施設問題でゆれる岐阜県御嵩町などで も住民投票が行われることになっている。当然のごとく、社会の主人公は、企業的「開発」者や行政的「管理」者というトップ・ダウン思考を得意とする人たち ではなく、ボトム・アップの発想をする住民なのである。そんなボトム・アップ思考の大切さを、学生とのつきあいのなかで再認識している今日この頃である。
そもそも、古生代末や中世代末などの生物大絶滅期をのぞけば、地球社会は多少の地質学的な変動をともないながらも、それなりに進化をとげてきた持続的社 会、とみなせる。急速な都市化(文明化)に苦しむカトマンズ的な人たちなどが、サーベル・タイガーのように定向進化的滅亡の道をたどろうとも、いぜんとし て自給的・リサイクル的生活を営むヒマラヤ高地の山村的な人たちなどは、将来ともども悠久なる生活の営みを続けていける可能性(実力)を秘めているのでは なかろうか。そう解釈するのは、はたして開発途上国の南側からみれば、楽観的すぎるであろうか、それとも先進国の北側からみれば、悲観的すぎるであろう か。(1996年3月)