2.ヒトと自然の共存の道、いまだ遠し
これが、もともとは自然に属していたはずのヒトがひきおこした重要な生態学的課題である。そこで「ヒトと自然の共生の道をもとめるべき」という考えもでてきたのであるが、ヒトと自然には生態学的な共生関係は成立しない。なぜならば、ヒトは自然から利益をえてはいるが、自然に利益をあたえるようなことはほとんどないからである。むしろ、エコノミック・アニマル的に自然を略奪しているのが、ヒトの活動実態であろう。そうなると、共生ではありえない。持続的生物社会の大原則は「元金には手をつけないで、利子を効率的に運用する」ことにあるのだが、ヒトはこの大原則から大きくはずれてしまった。
去年の京都会議や今年のブエノスアイレス会議でも議論された地球温暖化問題などにも現れているように、ヒトの活動が、地球全体の気候を変えるまで、巨大になってしまった。60億人のヒトをふくむ数百万種以上の生物を満載した現在の宇宙船地球号は、50億年の歴史ではじめて、ヒトという地球号乗組員自身の無謀とも思える破壊活動によって、すでに小さな舞台になってしまったのである。そのようなヒトのエコノミック・アニマル的活動が、地球環境問題の基本的要因になっているのは、誰の目にも明らかである。
地球環境問題という20世紀の負のイメージを形成する要因を歴史的に見ると、農業・工業革命の基本的矛盾の現われともいえるが、ヒトの生存にとって自然環境が不可欠であるかぎり、両者の共存の道を探るほかはないのである。両者が致命的な破綻をまねくことなくおり合う道、両者にとって妥協できるぎりぎりの道を探ることがいぜんとして環境生態学科に課せられた重要な課題になっている。はたして21世紀は、農業・工業革命のエコノミック・アニマル的な基本的矛盾を解決し、経済至上主義をのりこえたいわゆる環境革命が成功するのだろうか。そのことが、地球環境問題にかぎらず、私たちの地元の課題についても問われている。
25年間続いた琵琶湖総合開発(琵総)が終了し、これからはポスト「琵総」の時代になっている。渇水年になると、京阪神地域の水利用のためにさらに琵琶湖から放流するため、人為操作によって水位がかなり低下することも覚悟せねばなるまい。水位操作もふくめて、琵琶湖への人為的影響がますます大きくなる時代である。かつての遊水池機能をはたしていた琵琶湖周辺の内湖の大部分や宇治市の巨椋池などを干拓し、農地・住宅・工業団地を開発してきた歴史の延長線上で、水量・水質の維持機能を琵琶湖に一極集中させたのが「琵総」であったとも解釈できるのである。
ポスト「琵総」時代の琵琶湖およびその集水域の課題についても、琵琶湖水質や生態系の環境変動に関する的確な将来予測と早急な対策が求められてはいるが、残念ながら、そのための情報はまだまだ不十分である。琵琶湖の水位変動ひとつとっても、異常気象による雨や雪の自然変動にくわえて、ヒトの社会的活動(南郷洗堰での放流量・水位操作)が琵琶湖水位を大きく変動させ、とくに湖岸地域の生態系に致命的な影響をおよぼす可能性が高い。そうなると、自然科学的な情報だけでは不十分で、社会科学分野との連携・情報交換が不可欠となる。そこにこそ、自然科学から社会科学分野をもふくむ環境科学部の存在意義がでてくるというものだ。自然科学と社会科学分野の相互協力がなければ、ヒトと自然の共存の道を探ることはとうていできない。
最近の国際シンポジウムなどで、開発時代の反省をこめて、先進国側が「持続的開発の時代から持続的管理の時代へ」などと発言すると、開発途上国側は「依然として持続的開発の時代である」ことを強く主張して、会議は平行線をたどることがある。いわゆる南北問題の1つである。しかし、いわば企業的発想の「持続的開発」や行政的な「持続的管理」というトップダウンになりがちな観点それ自体は目的にはならず、ヒト中心主義を脱却した「持続的社会」を創ることが重要であると考える。持続的開発・管理は、生態系保全を念頭においた「持続的社会」をつくるための手段とみなせるからである。ヒトだけでなく自然を構成するすべての生物をふくむ生態学的「社会」が持続的であることを目指すこと、そこにこそヒトと自然の共存の道がひらけてくるのではなかろうか。
琵琶湖総合開発は、下流と上流という1種の南北問題に端を発し、下流の水利用のために琵琶湖をさらにダム化していくという「一極集中」的な性格をもっているが、その琵琶湖自体の生態学的論理にも耳を傾けねばなるまい。冒頭に書いた通り「ヒト(われわれ)の生存にとって自然(琵琶湖)が不可欠である以上、両者の共存の道を探るほかはないのである」。だが、大津などの滋賀県南部地域の最近の大型建造物に代表される開発ぶりは、自称?「環境先進・優良・熱心県」にあるまじきエコノミック・アニマルぶりを示しているように見える。河川改修やごみ問題などの現実的課題をかかえる滋賀県立大学地元の犬上川流域などの自然環境の改変を見るにつけ、ヒトと自然の共存の道、いまだ遠し、だ。エコノミック・アニマルぶりに染まったヒトは、自業自得といってしまえばそれまでだが、いわゆる環境ホルモンなどに象徴的に現れているように、便利さを追求した近代化の毒に打ちのめされることをわきまえているのであろうか。されば、近代化の毒にそまっていないヒトを探しだし、彼らにこそ将来をたくすことも考えねばなるまい。
以上のように、環境生態学科にとって、課題山積の地元の現状は、(研究対象がたくさんあるからといって)、喜んでばかりもいられない。きたるべき21世紀には、タイタニック・クラスの地球温暖化などの地球的規模の大変動が待ち構えているのである。ただ手をこまねいて、いられようか。(2000年4月)