ソ連時代のバイカル湖と人々の情景をめぐる旅

1)はじめに

僕がバイカル湖をはじめて訪れたのは1990年5月下旬で、東西ドイツ再統一の半年ほど前、またソビエト連邦(ソ連)が崩壊し、冷戦の終わりを告げることになる1年ほど前である。その当時のソ連関連の政治情勢の変化をふりかえると、1989年2月にソ連軍はアフガニスタンから撤退、11月にベルリンの壁崩壊、ひき続く東欧諸国での連続革命とともに、ソ連のゴルバチョフ大統領が1991年12月に、ソ連最高会議の解散を決議し、共産主義ソ連が崩壊する直前だった。
そのような政治情勢の大変革が進みつつあった1990年5月上旬、琵琶湖研究所にいた僕はドイツ南部のコンスタンツにあるボーデン湖畔での湖沼環境会議に参加した後、フランクフルト→モスクワ→イルクーツクと飛行機を乗り継ぎ、バイカル湖畔のリストビアンカに4日間滞在した。当時はまだ観光開発による環境汚染もない「シベリアの真珠」と言われていた美しいバイカル湖の旅を楽しんだ後、この旅行の最後にハバロフスクを経由して帰国したが、帰国時のハバロフスクでも、人々の興味ある情景に接したのであった。

地図 モスクワ→オムスク→イルクーツク→ハバロフスクへの飛行ルート

地図 モスクワ→オムスク→イルクーツク→ハバロフスクへの飛行ルート

1990年5月下旬のソ連の旅では実に多様な人々の情景に接することができた。改めて、当時のゴルバチョフ大統領のご苦労が偲ばれるとともに、共産主義のソ連が変革し、資本主義のロシアが誕生しても、多くの異なる民族を抱え、東西の時差が10時間程度にもなる広大な国全体をまとめ上げていく困難さは相当なものになるであろうことは容易に推察されるのであった。この旅で経験した多様な人々の情景にはソ連が抱える課題がにじみ出ており、その1年後には冷戦の終わりを告げることになる共産主義ソ連が崩壊する予兆とともに、ポスト・ゴルバチョフ時代に現れる資本主義のロシア政府の政権がいずれも権威主義をとらざるをえない要因が示唆されているかのようだった。そこで、大変革が進みつつあったソ連を1990年5月17日から25日にかけて旅した忘れえぬバイカル湖と人々の情景を当時の日誌から紹介する。

2)モスクワ滞在(5月17日)

モスクワ滞在。インツーリストのホテル近くのボリショイ劇場やマルクス像を見てモスクワ川へでる。川は、いかにも泥の多そうな、灰色の川だ。遊覧船が通り、カモメが飛ぶ。モスクワ川沿いには化学薬品工場をはじめかなり大規模な工場があり、水質汚染が問題になっているが、規模が大きいのでなかなか移転もできないとの事だ。川岸では釣り人もいるが、釣った魚は大丈夫かな、と心配になった。
この時期のモスクワの天気は晴れたり、雨が降ったりと、目まぐるしく変わる。雨の降り方もどしゃ降りの感じで、しゅう雨に近い。通りには、頭には山伏が被るような回教徒の小さな帽子をかぶっているので、一見して中央アジアから出てきたことがわかる数人の子供達が物乞いをしていた。足は泥んこの素足のままだ。また、ある街角には老女と孫と思われる物乞いがうずくまっていた。
バス・ツアーでモスクワ見物に出かけた。トルストイ像のある公園やフルシチョフの墓もあるというロシア教会風墓地など、モスクワの町には緑が多い。白と紫のライラック、タンポポが満開だ。モスクワ大学の背の高い建物は、折れ線グラフの背の高いピークのようだ。このような高層建築は、スターリン式のスカイ・スクレーパー(摩天楼)と言われ、モスクワの町にはいくつか見られる。北京にも、モスクワ大学と同じ様なデザインの建物(たしか軍事博物館だったか)がある。共産党政権の好みの建造物なのかもしれぬ。
モスクワ最後の夜、ふたたびマルクス像から赤の広場方面へ散歩した。マルクス像は10mほどもある巨大な花崗岩の石像だ。赤いバラが2束ささげられていたが、付近には人影がない。暗い照明の中で、マルクス像はボリショイ劇場の方を眺めていた。マルクス像と赤の広場の中間ほどに位置する暗い街角で警察官2人と若者2人が口論していた。若者は、ジーパン姿に長髪、学生だろうか。ともに、大声で罵りあっている。若者の1人が警察官に組み倒された。1人の若者が止めに入る。倒されていた若者は立ち上がり、再び警察官に食らいつく。警察官の帽子がふっ飛ぶ。警官の攻撃はさらに激しくなり、若者は倒されたまま身動きしなくなった。すると警官は、呼び笛を吹きながら、その場を離れて行った。その場に残された1人の若者が倒された若者を介抱する。その場を離れた警察官は、再び戻ってこなかった。やがて、若者は立ち上がり、2人は肩を組んでゆっくりと歩きはじめた。何が彼らを闘わせたのだろうか。なぜ、警官は呼び笛を吹きながらも、途中で引き下がったのだろうか。暗い照明のなかで展開したこのような情景を、巨大な花崗岩のマルクスさんはますます混迷の度を深めているかのようだった。
マルクス像近くの赤の広場へ向かう地下道にはたくさんの人たちがいた。地下道の柱の影にはロシア語で話しかけて来る怪しげな夜の女がいる。赤の広場に近いインツーリストのホテル前はかなりの人通りだ。酔っぱらいもぶらつく。アイスクリーム屋やハンバーグ屋まえにはソ連恒例の行列。インツーリスト・ホテルの夜の部では、ヌードまがいの出し物があり、外人観光客が乗りにのる。これもペレストロイカなのか。受付付近には「What do you want?」(何をお望み?)と聞いてくる売春婦風の女性がいる。「May I use a telephone?」(電話を貸して?)と言って勝手に部屋に入ってきて、Eine Hundert(ドイツ語で100)と言うお嬢さんもいる。ドイツ語が幅を利かせているのだ。マルクかドルか知らないが、このような怪しげな女性が、まさか国営の旅行会社インツーリスト勤めの公務員と言うことではないだろう。ゴルバチョフさんもさぞかしご苦労なことだ。
モスクワのテレビ放送の1つは、常時、会議中の議会を写していた。グラスノスチなのだろう。議事が次々と投票にかけられ、その結果が刻々と投票版に数字で示される。立派な口髭をたくわえたラマ教徒が議場で発言をする場面もあった。広いソ連にはラマ教徒もいるのだろう。他のテレビ放送では家庭向きの番組を流している。ニュースなどは手話付きで、ニュースの画面よりも手話の人の方を大きく写している。なかなか考えたやり方だ。ニュースにはゴルバチョフさんがよく登場する。ゴルバチョフさんの宣伝臭が強く、人々との対談では、彼は1を聞いて10を話すかのように雄弁だ。ヨーロッパのニュースが多かった。ちょうど、アメリカのベーカー国務長官がきていたので、ソ連とアメリカ関係のものも多い。日本のニュースはみなかった。

3)モスクワからイルクーツクへ(5月18日)

バイカル湖を目指して早朝のイルクーツク便に乗るため、モスクワのインツーリスト・ホテルの食堂にそうそうに行くも、朝食の列がすでにできていた。ソ連では、どこに行っても行列だ。朝食はヴァイキング・スタイル。水が自由に飲めないモスクワでは、喉が乾くので、まずジュースを探す。パンとソーセージで腹ごなしをすばやくすませ、残りをいざという時の備えのサンドイッチにする。
インツーリストのおんぼろタクシーでモスクワの町を外れる。郊外には、白樺や赤松、タンネの広大な林がつづく。白樺の木が多い。赤松とタンネの取り合わせはドイツと似ているようだ。タクシーで約1時間、飛行場の待合室へ直行する。外人は受付で別扱いになるようで、僕のほかには、モンゴル人の夫婦とモンゴロイド系の若者がいたが、若者ははたして外人なのであろうか。
X線検査の係官はかなり入念だった。カメラと望遠レンズ、酒の入ったリックを、やり直せと言ったようだ。どうも危険物ととったらしい。もう1度はじめの位置にもどすと、検査官は入口の婦人に向かって無愛想に何か言っている。すると、婦人が近づいてきてリックを立ててくれた。彼は椅子に座ったきりで、自分でリックを立てることもしないようだ。ふたたび彼は、X線検査の画面を入念にチェック。横からのぞくと、酒瓶がまる見えで、何か言われるかも、と一瞬思ったが、やっと、OKがでる。
外人扱いの僕たち4人は女性係官に先導されて機内にはいると、すでに大方の席はソ連の人に占められてた。窓側の席で空いているのは、最前列左の席しかなかったが、それはイルクーツクの政治家のものだという。残念だが、通路側の席しか当たらなかった。ソ連では、外人扱いにされると、機内にはいるのが最後になるので、イルクーツクの政治家クラスでないと、窓側の席は取れない。外人には、窓から外を見せたくないのかと勘ぐりたくなる。隣の人に聞くと、写真はダメだと言う。彼は実に流暢なアメリカ英語を話す。30代なかばのヅィールゲ氏。最初、ゾルゲに聞こえたので、念のためそう言うと、彼は、とんでもないというような顔をし、「俺はスパイじゃないよ」と真顔で打ち消した。彼は、日本人のプロジェクトにも英語の通訳として加わったそうだ。片言の日本語も話す。その彼が僕のとなりにいるのは、単なる偶然だろうか。
最後の最後にイルクーツクの政治家が席に着いて、やっと、離陸した。隣のヅィールゲ氏はバイカル生態学博物館のあるリストビアンカ生まれとのこと。彼は何度もモスクワ・イルクーツク間を飛んでいるというので、イルクーツクまでの飛行ルートを彼に聞くと、オムスク経由だと言う。地図を渡すと、オムスクに丸印をつけてくれたが、飛行ルートの線は僕に引けと言う。ほぼ直線的に飛ぶのだから、モスクワ・オムスク・イルクーツクを線で結ぶのは簡単なはずなのだが。どうも、外人に飛行ルートを書いて教えるのをためらっているようだ。
ソ連の人たちは実によく新聞を読む。今のソ連の政治情勢がそうさせているのか、それとも昔からなのか。隣の彼は窓側の人から新聞を借りて読んでいる。前方のトイレがあまりきれいでないので、座席まで臭う。だが、その中で、前の座席の男はサケ科の魚の薫製を豪快に食べている。ソ連の人はトイレの臭いをあまり気にしていないようだ。ソ連の飛行機内では全席禁煙とのことで、トイレの臭いにタバコの煙がプラスされることはなかったが、ヅィールゲ氏にはタバコが吸えないことの方が辛いらしい。
モスクワから2時間48分でオムスクに着く。オビ川の支流イルケーシュ(イルティシュ?)の流域にはたくさんの煙突が林立する工場群が見えた。原発のような太い煙突も2本立っている。気温は22度。半砂漠的風景の中を暖かい風がペンペン草などの飛行場の草原を吹きわたる。われわれ外人組とヅィールゲ氏は、例のごとく女性係官に連れられてティールームへ。ヅィールゲ氏も臨時?係官になったようだ。彼は、やはりゾルゲ的な人物なのだろうか。
オムスクまでくると、待合室に中央アジア的な顔立ちが増える。回教徒らしい人も多い。オムスクからの搭乗はわれわれ外人組が1番最初だった。モスクワで最初にしてくれればよかったのに。ほぼ全員がイルクーツクへ行くようだ。1時間半休息し、黒色と緑色の耕地を後にする。黒色の耕地は耕したばかりの黒土で、緑の畑は小麦の色だ。所々に針葉樹的な林も見える。イルクーツクの政治家の席の上あたりの棚から水がしたたり落ちた。それを見たヅィールゲ氏「水は落ちるべきところを知っているようだ。中央から地方都市に派遣されて来る政治家にはよくない人もいるんだ。選挙で選ぶ必要がある」と言う。
イルクーツクの時間は日本時間と同じだという。地図でみると、1時間の時差の距離ほど、イルクーツクのほうが日本より西にあるが、夏時間を使っているため、日本時間と同じになるのだろう。モスクワ時間から5時間の時差がある。東西に長い国だ。飛行機上からみる日没はイルクーツク時間の午後10時35分と遅いのは、北緯50度より北にあるため、白夜圏内に近いからだ。日没の方向も、東に向かう飛行機の進行方向の左手、かなり北よりの北西方向だ。進行方向右手のバイカル湖南西に、サイヤネ連山がかすかに見えた。中腹から上が雪で白い。カール地形が残っている。日高的な山だ。飛行ルートの地図に3491mの高度が記されている。ヅィールゲ氏に聞くと、大きくはないが、氷河があるという。日没時に着陸体制に入った飛行機が高度を落とすので、外が急速に暗くなる。
オムスク離陸後2時間31分、日没から25分で、大きなダムに町の光がうつるイルクーツクに着く。ダムはバイカルから流出するアンガラ川の発電用ダムだと言う。気温8度、肌寒い。待合室にはスチームが通っていた。モンゴル人夫婦は明日の便で帰国すると言って、待合室を離れて行ったが、モンゴロイド系の若者はとみると、彼は出迎えの4人の女性に囲まれているではないか。みな同じ様なヤクート的な顔つきをしている。どうも地元の小数民族の人らしい。モスクワの飛行場の搭乗口で外人枠で同行した若者はれきっとした自国民のヤクート族ではないか。すると、ソ連では自国民の小数民族の人は外人並に気を使っているようだ。
イルクーツク空港の待合室でしばらく待っていると、バイカル生態学博物館のクロメシュキン・ヴァレリ博士と通訳のマリーナ・ファーマン女史が迎えにきてくれた。ここで、ヅィールゲ氏と分かれ、博物館のジープでホテルに向かう。ヴァレリ氏は電気伝導度を研究するというもの静かなタイプの人だ。マリーナ女史は10年前に船で日本旅行をしたという、背は高くないが横幅の広い典型的なロシア女性といった感じだ。飛行場から町への暗い道の両側には、白樺とポプラの並木が植えられている。道が泥っぽいのと白樺とポプラの並木を見ると、札幌の4月を思い出した。
ホテルに着くと、マリーナさんは「今日は金をもってきていないが、滞在費は持つ」と言う。アンガラ川沿いのホテルには、ドイツ人の旅行客が多かった。ソ連へのドイツ人の力のいれようは、ルフトハンザのモスクワ便1番乗りを始め、かなりのものだ。多くのソ連人はドイツ語を話すようだ。食堂はすでに閉まっていたので、パブに行くとドイツ人のグループが歓声を上げている。ビールもドイツ製のレーベン・ブラウだ。アメリカ・ドルで2ドル。買い物は外貨しか使えない。酒のつまみ用の小さなイクラの缶詰の値段を朝鮮系のバーテンに聞くと、15.5ドルだと言う。2300円ほどとは高いので、手が出ない。夕食にありつけなかったので、モスクワでの朝食の残りのサンドをつまみながら、ビールとウィスキーを飲む。8階のホテルの窓からは、アンガラ川周辺の夜景が見渡せる。点在する電球の光が川面に映える。裸電球の赤い光が波間に点滅する。まだ見ぬバイカル湖に想いをはせながら、夜の水面を見つめる。バイカル湖からの水だ。

4)イルクーツクからリストビアンカへ (5月19日)

アンガラ川沿いの散歩がてら、水草採集をする。カナダモ、フサモ、エビモ的な水草が打ち上げられていた。5mmほどの甲殻類もいる。午前中は博物館を見学する。ブリヤートなどの先住民族からバイカル湖の生態学博物館長のガラジィー氏などの現在の活動までが陳列されているので、歴史博物館のようだ。写真を取ってもよいかと館員に聞くと、3.5ルーブルだという。ガラジィーさんたちのコーナーだけだというと、見過ごしてくれた。おまけに、大きなバイカル湖の衛星写真の前でポーズまで取ってくれた。案外、堅くないな。博物館の後は、ロシア料理のフル・コース。もちろん、ウォットカつき。いよいよ夕方になって、バイカル湖に向かう。
以下は、時間とイルクーツクからの距離(km)および景観変化などの記録だ。
20:35 出発、ポプラ並木に唐松まじり。クロス・リービンスカヤ教会に乞食数名。無名戦死の墓での若者の整列行進(全国的行事か)あり。
20:45(イルクーツクからの距離、11km)アンガラ・ダム発電所、アパート群あり。
20:50 白樺の純林地帯が続く。
20:52(18km)赤松(タンネ的)が白樺よりも多くなる。河床付近には小さな白樺が生え、松へ移行するのか?
20:59(27km)ダムの一部の沼地に白樺林あり。
21:02 白樺と赤松にわずかに唐松が混じる。対向車多し。煙の凄い車あり。
21:09(38km)村と湖(ラストビアンカまで33km)あり。
21:15(48km)白樺的なオード色のはだの木(葉はまだでていない)あり。
21:18(50km)川と湖、部落。白樺や松、柳の新芽を見る。
21:22(57km)大きな村(町)と湖。川で魚釣りをする人あり。
21:30(68km)バイカル湖と対面す。大湖だ。湖岸に村が点在。対岸は岩山だ。
21:32(70km)博物館・研究所を一瞥し、
21:35(71km)近くのインツーリスト・ホテルに到着した。
今晩も晩飯にありつけず。しかし、何はなくても、水がうまい。バイカルの水道水は、コップに入れると、はじめは白濁した小さな泡が多くでるが、1分半ほどすると泡が消え、澄んだ水になる。チューリッヒ湖以来の旨い水だ。バイカル湖生態学博物館のガラジー館長の息子のセルゲー氏が会いに来てくれた。ジープに興味を持つ彼は大人風で、英語がつまると、「カカター」を連発する。彼は1980年12月に、冬期間に夏の体験をする冬・夏クルーズでフィリピンまで行ったとのこと。

5)リストビアンカ滞在(5月20日)

7時半起床。快晴、3.5℃、かなり冷え込んでいる。食事まで付近を散歩する。白樺と松の森の下ばえのツツジが満開に近い。アネモネ的な草花やチングルマのような高山植物的な花も咲いている。松の木が何本も北に向かって倒れている。松の木の根の深さは50cm程度しかない。風に対して、白樺よりも弱いようだ。松の木を倒した大風は5月16日に吹いたそうだ。その原因は山火事らしい。その時、空が日食のように暗くなり、突風が起こったとのことだ。

倒れた松の木の根元を歩くセルゲー氏

倒れた松の木の根元を歩くセルゲー氏

バイカル湖岸に出る。透明感のある湖水だ。湖岸から10m以上もはなれた湖底がはっきりと見える。湖岸には漂流物などのゴミがほとんど打ち上げられていない。花崗岩や片麻岩、堆積岩のきれいな礫浜だ。例外は、ロープの切れ端にフサモ的な水草が着いている。バイカル湖の水があまりにも澄んでいるので、アザラシを初めとする豊富な生物が住んでいるとは信じがたい感じがする。湖がきれいなだけに、ただ1箇所、(朽ち果てた)工場が残されており、(今は使っていないと思われるが)排水管が湖に通じている光景は、心が痛む。湖岸沿いの芝生の段丘上には、地面からの背の高さが2ー3cmしかないタンポポが一面に咲いている。バイカル湖のタンポポは年に春・夏・秋の3回咲き、季節が進むほど背が高くなるのだそうだ。

バイカル湖の湖岸風景(左はセルゲー氏)

バイカル湖の湖岸風景(左はセルゲー氏)

インツーリストのホテルの近くに「バイカル東京レストラン」がある。ヴァレリ・セルゲ・マリーナさんたちがそこでご馳走してくれるという。玄関には鯉のぼりが泳いでいた。料理は鳥の唐揚げにハンバーグ、ニンジンとダイコンの千切り、マッシュポテトにキャベツの漬物が漆塗の重箱に入っている。和服をきたソ連の女性がウェイトレスだ。ソ連人のお客さんは、コンブの味噌汁を飲みながら、重箱料理を、フォークとナイフで切りながら食べている。
リストビアンカの裏山の展望台に行く。この展望台への簡易舗装の車道は、61年のフルシチョフ時代、アメリカのアイゼンハワー大統領が来るというので小屋とともに作ったとのことだ。小屋は、サナトリウムとして使われており、現在はアフガニスタンからの帰還兵の療養所になっているとのことだ。展望台からは、アンガラ川対岸のバイカルや遠くに悪名高きパルプ工場の煙がうっすらと見える。このあたりもツツジの満開で、おみくじを木にしばるようなやり方で、たくさんの白い布切れが木にしばりつけられている。それぞれにバイカルへの願いごとがこめられているのだろうか。頂上には、カリ長石の班晶をふくむ花崗岩の露頭があり、夕焼けの中で、その岩の上には2組の人々が座り、じっとバイカル湖を眺めていた。リストビアンカの村の方から、犬の鳴き声が風にのって聞こえてくる。

リストビアンカの裏山の展望台からのバイカル湖

リストビアンカの裏山の展望台からのバイカル湖

日没後のほの暗い中をホテルに戻る。ホテルの食堂はすでに終了していた。ソ連のホテルは商売っけがないから、はやく店終いをする。イルクーツク到着以来、夕食にありついていないので、ヴァレリ・セルゲ両氏が夕食をもってきてくれた。黒パンと魚の缶づめ、赤かぶ、にら。それに、なつかしい、アイヌネギだ。にらもアイヌネギも生でそのまま食べる。かなり強烈だが、ビタミンCを取るにはもってこいに違いない。最後のシーバス・リーガルを空けると、彼ら持参のシベリア・ウォットカを飲む。実験用アルコールの1/2水割りだ。日本の人種問題(アイヌ・朝鮮人)やアメリカとの経済問題、ソ連との領土問題、ソ連のアゼルバイジャン・アルメニア・バルト3国の問題などかたい話題を肴に、夜半まで飲む。人種問題は、ソ連でも重要な課題になっているのが窺えた。ホテルはとっくに閉まっていたが、彼らは門番を起こすこともせずに、窓のベランダから飛び降り、帰って行った。

6)リストビアンカ滞在(5月21日)

8時に目覚しで起きるが、昨夜のお茶が効きすぎて、あまり眠れなかったようだ。外に出て、ひんやりとした北風で頭を冷やす。曇天だが、視程は悪くない。対岸の山々が見える。双眼鏡でみると、2段のカール群が見える。日高的な山だ。バイカル湖周辺の最高峰は、湖南西のモンコー・サルディック峰(3491m)で、万年雪があるという。屋上の風陰になる片隅で、少女が1人、バイカル湖をじっと眺めている。今日は、バイカル北方への船旅だ。
8時半からという朝食に、8時50分に行くも、まだ誰もきていない。お茶の用意もまだだ。店の人もそうだが、お客も、どっちものんびりしている。パン、バター、ジュース、ソーセージで簡単に済まし、博物館下の波止場に向かう。水が澄んでいる。バイカル湖の透明度は、プランクトンの少ない寒気だと40m程もあるという。波止場周辺には、片麻岩や礫岩、ピンク色をした長石の多い花崗岩などの礫がみられる。バイカル造山運動を示す岩石なのだろう。
小雨が降り出す中を、出航する。日本のより1廻り大きいカモメがゆっくりと飛んでいる。口はしが黄色で、体は白、羽の先が黒いが、体に近い部分は灰色だ。はるか南方のバイカルスキーのパルプ工場の煙が今日も見える。リストビヤンカ北方の山々の植生分布を見ていると、松と白樺が住み分けているようだ。松は尾根と南面に多く、白樺は谷や山腹、北面に多い。松は比較的乾いた土地を好むのだろう。かなり大きな船がすれちがって行く。生物学用の調査船で、カジョフ(Kojov) 教授の名前を船名にしているとのこと。
バイカル湖の漁場は主に北部で、そのなかで西岸のコティルニコルスキーや東岸のハクスイ、ダフシェ、ヅィマィイーナヤーでは温泉があるとのこと。なお、ヅィマィイーナヤーにはチョウザメをはじめ魚が多く、漁師が住んでおり、ここには5ー60cmの蛇もいるとのことだ。
1時間ほどで、ボルシェーユェ・コティに着く。ここには、生物学の実験施設があり、学生が夏休みに実習に来るとのこと。墓地には、セルゲさんの同級生で、調査中になくなったマキスマフさんも葬られているという。しだいに空が明るくなる中を帰路に着く。

生態学博物館のガラジィー館長

生態学博物館のガラジィー館長

午後はガラジィー館長との面談である。館長は「オーチン・ハラショウ」(大変よろしい)を連発する大声の、いかにもソ連の官僚といった感じの人だ。体挌がどっしりとしていて、故ブレジネフ書記長に似ている。横顔はアメリカのかつての外交官キッシンジャー氏にも似る。背景にレーニンの写真を飾るガラジィー館長の話は以下のような内容であった。

1) 生態学博物館の主な研究内容はバイカル湖周辺の地史、動植物(2/3は固有種)、浄化作用、生物への日射の影響、化学成分(300の流入河川は成分が異なっているという)、鉱物分析である。
2) パルプ工場からの排水は日量約40万トン。水深200ー250mまで風による混合(年4回、場所により風向が違う、長期観測が必要とのこと)。7ー8月は表層の水温高く、成層する。東岸のセレンゲ川が流入している部分は、農業排水とモンゴリアからの負荷で、富栄養化している。
3) バイカルの気象、植生分布、森林・雨の河川水質への影響、2000ー2500万年の堆積物(5ー6000mの厚さ、表層10ー12mの調査しかない)の調査を行っている。
4)測器開発のための情報交換をしたい。ヴァレリ氏が開発した粒度、種類、水質の自動測器と琵琶湖研究所で開発した酸素、水温、有機物等の測器の共同開発をしたい。ILEC(国際湖沼環境委員会)の計画にする可能性はあるかが問題だが、当面は測器の改良をしていきたい。
結局、共同研究については、ガラジィー館長が強調していた測器の共同開発の可能性はあるが、富栄養化が進む琵琶湖と「シベリアの真珠」と言われていた清麗なバイカル湖とでは湖の性格がかなり違うので、その点に関する研究者相互の認識を深めることがまず重要だと感じた。

リストビアンカの生態学博物館

リストビアンカの生態学博物館

ガラジィー館長室のとなり1階の半分ほどのスペースが博物館になっている。30m×50mほどの大きさだから、こじんまりした博物館だ。大きな横エビ標本があった。7cmほどもある。湖底に住む種類で、1410mの湖底写真にも写っている。バイカル・アザラシや約1mほどのチョウザメもいる。アザラシは7ー10万匹いるとのこと。湖氷は中央部東岸が110cmと厚く、南部が70cmと薄い。岩石氷河の写真も飾ってある。
ガラジィー館長との面談の最後に、文献のコピーを依頼すると、館長さんはブザーで係の人を呼ぼうとするが、休みのため後日とのことにされたが、このようなことはたまたま運悪くそうなったのか、それとも恒常的なのだろうか。ソ連の観光局のインツーリストも頑固なカスト的な縦型の各係に細分されているようだ。例えば、鍵、パスポート、配車、両替、案内、キャッシャーなど同じカウンターに座っていながら相互の連絡が悪い。やはり、ソ連では悪名高い官僚主義的縦割り行政組織の弊害を改善することは難しいようだ。

7)リストビアンカ滞在(5月22日)

春がすみの中に、対岸の山ハマールダバンがうっすらとみえる。今日も良い天気だ。9時に出発と言うので、博物館の下の波止場に行くと、チャーターしている船はすでに出発の準備ができているようだが、ヴァレリとセルゲ両氏がまだ来ない。小さな船がバイカル方面からやってきた。ウィンチを積んでいる。観測船のようだ。波止場の2漕の船が澄みきったバイカルの湖水に影を落としている。波のないバイカル湖ののどかさに、観光客の楽しげな声が吸い込まれていく。

リストビアンカのバイカル湖の波止場

リストビアンカのバイカル湖の波止場

今日の船旅はリストビアンカ南部のエクスカーションだ。出発直前に3人の若者が乗り込んできた。カザンとノーボシビリスクの大学の化学者でイルクーツクの研修の余暇にバイカル湖見物にきたという。単なる見物ではなく、みなさんサンプル・ビン持参で、バイカルの湖水採集にきたそうだ。とは言う僕も、湖水採集用にウィスキーの大瓶を空にしてもってきたのだが。リストビアンカから1時間半南下すると、北斜面に林が分布するケスタ地形が卓越するようになる。南斜面は急な崖である。南斜面が急な崖で植生が乏しいのは、融解再凍結のため土壌条件が不安定のためか。ケスタ地形と植生分布が湖面に映ると、「く」の字形の像ができる。

セルゲさん(右)たちとの船旅

セルゲさん(右)たちとの船旅

湖岸に沿っては、バイカルからの鉄道が伸びる。日露戦争当時にできた古い鉄道だ。礫浜が発達する湖岸に船を乗り上げ、少し歩いて林を見ることになった。白樺を主とする林の林床には、日本の高山植物のような花に混ざって、エビネのような葉の植物もある。赤茶色に黒い斑点のテントウムシ、モンシロチョウやクジャクチョウ、日高でみまわれたようなダニもいる。これは、北海道の生態系に似ている。バイカル湖の東岸の山々には残雪がかかり、礫湖岸に腰をかけ、カール地形の残る雪の山々を見ていると、日高の春景色のようだ。
湖岸には、ゴミひとつ落ちていない。琵琶湖とは大違いだ。湖岸には、花崗岩や堆積岩の円礫が多い。真っ白い大理石の円礫もある。20cmほどの大きめの礫をひっくり返してみると、驚いたことに、ピンクのヨコエビが飛び出てきた。大きい。6cmほどもある。博物館で見た標本に似ている。普通は深いところにいるというのに、セルゲさんも首をかしげている。1cmほどの黒い小さいのもいる。

湖岸礫の下から6cmほどのヨコエビが出現

湖岸礫の下から6cmほどのヨコエビが出現

水はきれいで、貧栄養に見えるが、ヨコエビが示すように生物はかなり豊富なようだ。こうでなければ、アザラシを頂点とする生態系は成り立たないだろう。飛び入りの女性科学者がピクニック・ランチを作ってくれた。歌がでる。「豊かなるザ・バイカル」の歌は、日本ではゆっくりとしみじみと唱うものだが、彼らはかなり元気そうに、快適なテンポで、ほがらかに唱うのだった。リストビアンカへの帰りには、船を沖合いに止めてもらい、バイカルの湖水を皆で記念に採集する。

8)リストビアンカ→イルクーツク→ハバロフスク(5月23日)

昨夜は遅かったのに、朝の5時、ヴァレリ、セルゲ、マリーナが「You must come back.(戻ってきて)」と言って、見送りにきてくれた。イルクーツクの町には、赤レンガのアパートが多い。早朝の町をだいだい色のチョッキを着た人々が竹箒で通りを掃除している。チョッキがなければ、中国のようだ。この人海戦術とも思える清掃作戦は、もともと、ソ連式なのか、中国式なのか。レーニン広場なのだろうか、大きなレーニンの銅像が建っているが、イルクーツクではこの像の撤去について、現在議論中との事だ。飛行場で、ヒマラヤのシェルパが作るような白チーズをごちそうになり、白樺の容器に入った松の実(シーダーと言っていたが)をいただく。
飛行機はいったん動きだしたが、数分でエンジンが止まってしまった。大丈夫かいな。数分後、再び動き出し、離陸すると、バイカル湖が見えてきた。窓側のソ連の人が「バイカル」と言うなり、あかず眺めている。リストビァンカの北を飛んでいるようだ。バイカル湖西岸の山々はゆるい地形で、野焼きでもしているのだろうか、煙が西にたなびく。ゆるい山々の東側の稜線沿いに雪屁がわずかに残る。バイカル湖の東側もゆるやかな山並がつづくが、西側よりも雪が多い。バイカル湖からの蒸発が効いているのだろう。バイカル湖周辺では、暖候期のほうが寒候期よりも気流が不安定のため飛行機事故が多いという。寒候期の冬は凍るからバイカル湖水の影響はなくなるが、広大な水面が出る暖候期にはバイカル湖の気象に与える影響が大きくなるのだろう。
離陸1時間後、おおきく右旋回する。進行方向右側の大興安嶺辺りは雲海に覆われていた。ゆるやかな谷の中に隣接した2つの湖が見える。左側の窓に見える山には雪が見えなくなる。山が低くなってきたのだろう。川の蛇行が著しくなる。山間部の川の所々が白いのは凍結した氷か。離陸2時間半後、泥色の大きな黒い河が見えた。あれがアムール河か。橋が掛かっている。ゆるく蛇行する本流周辺には三日月湖や湿地が分布する。ところどころに耕作地も見える。耕した畑の土や麦と思われる緑の畑が展開するようになると、やがて町があらわれる。河はますます大きくなり、中州が発達する。離陸後3時間4分、着陸体制に入り、川岸の塔や墓地のあるハバロフスクの町を左手にみて、着陸。機外に出ると、女性の係官がきて、一人だけバスに乗り、待合室に連れていかれる。「誰かが迎えにきているか」→「No]、「バウチャーはもっているか」→「Yes」などと、愛想のない会話が続いた。
待合室には英語のモスコー・ニュース(5/27~6/23)やドイツのニュース新聞(Neue Zeit;5/7~13)が置いてある。そんなに古くない。英語やドイツ語の影響が強い。特にドイツ語がソ連でハバを効かせているのには感心する。ドイツ統合を目指すドイツ人の関心の高さが関係しているに違いない。飛行場で聞く英語のアナウンスはフランクフルト以来だ。空港から町への道路沿いには片側づつ2列のポプラがびっしりと植えられている。中国のポプラ並木のようだ。4~5階建てのアパート1階部分のベランダには鉄格子がはめられている。安全対策にぬかりないといったところか。
アムール河には行きかう船が実に多い。水上輸送が重要なのだろう。魚釣りの大人は太い糸を使っているところを見ると、かなりの大物を狙っているのだろう。しかし、子供達は細い糸で、8cmほどのボテジャコやスズキ的な魚、ナマズを釣っていた。雄大なアムール河の水平線に夕日が沈む。大陸的な眺めだ。

9)ハバロフスク滞在(5月24日)

朝食のとき、隣のテーブルに座った中国人男女の頭のてっぺんからぬける様な金属的な発音で2日酔いの頭がますますいたくなってしまった。食後、頭を冷やすため、アムール川沿いの公園を散歩する。ここでも、だいだい色のチョッキを着たひとが、竹ぼうきで道路を掃除している。散水車が通る。太い糸で釣りをする人々がいる。ジョギングをする元気そうな子供が通る。カラスガイのように細長い黒い貝が打ち上げられているが、流れ藻はないようだ。船着場近くの河岸では、先生といっしょに漂流物を探す小学生達がいた。たくさんの煙を出す遠くの建物は発電所らしい。花瓶のような太い3本の煙突を見ると、原発だろうか。
ソ連の建物は、何の建物か、中に何があるのか、外人には分かりにくい。ショーウィンドーがあれば別だが、一般に、ソ連の店屋は何の店屋かよく分からない。二重ドアーは寒さと雪やほこりよけか。アウト・ドアーの専門店があり、大人から子供までが魚釣り道具に集まっている。エアロフロートの事務所もアパートのような建物で、目を凝らさないと、飛行機のマークが見えてこない。空軍の大きな建物も、玄関の飛行機の彫物と軍人がいなければ、それとは分からないだろう。町にも軍人の姿をよく見かける。ハバロフスクはソ連極東空軍の中心のようだ。
ポプラ並木におおわれた住宅地では、ツバメや胸が黄色と尾のまん中が黒いセキレイが飛んでいる。ポプラの綿毛のような種も飛びかう。木造の建物や植生に北海道を感じる。みやげ物屋のアイヌ的な飾り模様にも共通性を覚える。冬物のオーバーを着ている人と軽装の人が共存する。季節の変わり目なのだろう。上り下りの多い住宅地の一角では、下水工事が行われていた。下水管用の溝堀には、日立の重機が活躍している。その重機には、日本語で「作業半径内立入禁止」という注意が書かれている。5人の労働者がレンガを運んでいたが、彼らが日本語を読めるとは思えない。中古品の重機を日本から輸入したのだろう。
ホテル近くの住宅地の一角に、井戸のポンプのような形をした水道がある。そこで手を洗っていると、1人の青年がきて、水をだしてくれという。栓を押さえつづけないと、水がでないのだ。そうしてやると、彼は両手で水をすくい、飲んでから、気持ち良さそうに顔を洗った。「うまいぞ」とアメリカなまりの英語で言うので、彼の後から飲んでみた。カナケがする。鉄分の多そうな水だ。アラスカのジュノーの水を思い出す。
彼の名前はユージンさん。日本語では友人だというと、ユージンさんは嬉しそうな顔をする。その彼が、やおら商人に変身し、まず時計を売りつけにきた。ソ連軍のもので外国で評判のものだという。大きくてハデな色の時計だ。外人とみると、すぐに何か売りつけようとする。そういう若者が多い。彼らは単独にぶつかって来るときもあるが、どこかの国の会社のように組織的にやる場合もある。僕が、彼の時計商売の相手ではないとみると、彼は話題を変えてきた。「どこに行くのか」と聞くから、「散歩に行く」というと、「案内しよう」と言って、ハバロフスクの街案内をしてくれた。ユージンさんは経済学の学生だという。法律を学ぶガールフレンドが試験を控えているので、一人で時間をつぶしている、と言うので、僕は信用した。彼は喫茶店に連れて行き、コーヒーとアイスクリームを注文する。金を払おうとすると、10ルーブル札のぎっしりと詰まった財布を見せ、まかしておけと言う。ずいぶんと景気がいい若者じゃないか。アイスクリームはなかなかのものだった。喫茶店の後は、ソ連の町ではおきまりの、レーニン広場に向かった。
通りはポプラの並木で、緑が多いが、広場は緑が少ない。人の集合、行進・行軍のためなのだろう。夕方の斜めの日差しの中で、三々五々散歩する人がいる。と、ユージンさんは1人の若者に近づき、タバコをもらい、火をつけてもらっている。ソ連では、タバコは譲り合うもののようだ。レーニン広場からアムール河沿いの公園に向かう途中には、高層アパートがいくつか建っている。その中でもきわだって高く、新しいのが共産党員用のものだという。「共産党員は立派なアパート住いだ。共産党員は嫌いだね」とユージンさんは言う。
3kmほどの河幅のアムール河のかなたに夕日が沈む。河風が心地よい。アムールは大河だ。その長さは、日本列島よりも長い。バイカル湖に近いモンゴルに源を発し、大興安嶺を横切り、小興安嶺沿いに流れ下る。ハバロフスク周辺では、アムール河は複雑に蛇行している。西方の低い山並が中国領だという。そこまでわずか5ー60kmだ。
「今日最後の遊覧船にのろう」とユージンさんがすすめるので、もちろん賛成する。遊覧船の1階はディスコ、2階の半分はビディオ映画で、若者の男女で盛況だった。まず上流の発電所方面に行き、そして下流の鉄橋までの2時間程の周遊コースであった。右岸のハバロフスク側はアパートや道路などに赤みをおびた電灯の光が点滅している。ネオンサインや蛍光灯などの光はほとんどないが、油田の火だろうか、1個所で大きな光がゆらいでいた。左岸側はほとんどが湿原なのだろう、電気の光がなく、漆黒の闇だ。ユージンさんが「ソ連の土産物を見てもらいたい」と言うので、翌朝9時にインツーリストのホテル近くの井戸で会う約束をして別れた。

10)ハバロフスク→日本(5月25日)

朝9時にユージンさんと再会するためインツーリストのホテルをでると、家の陰に1人、茂みには他の2人が隠れているのが見えた。直感的に、あやしげな気配を感じ、一瞬、躊躇する。家の陰の1人を凝視すると、彼は茂みの2人に合図をするようなそぶりをし、200m程離れた指定場所の方へ動き出した。これはヤバイことになるかもしれないと一瞬思い、誘拐されるかもしれない危険を感じたので、引き返すことを考えた。だが、少なくとも指定場所の井戸が見えるところまでは行かないと、約束が果たせない。通りには、竹箒で掃除をしている男がいる。ホテルの従業員らしい女も歩いている。もし、何事かが起こっても、彼らがいれば大丈夫だろう。そこで、指定場所の見えるところまで、ゆっくりと100m程進んだ。だが、指定場所にはユージンさんの姿がなかった。そして、(やはり)内心想像していたように、あの家の陰にいた1人が立っているではないか。あやしげな3人は何か関係があるような気がした。映画の「第3の男」を思いだす。もう、約束の9時を15分過ぎているので、ユージンさんはもう返ってしまったのか。急いで体の向きを変え、引き返そうとしたとき、井戸とは反対方向のアムール河沿いの公園の入口に、ユージンさんが立っているのが見えた。(彼は、どうして約束の井戸にいないのか、僕の一部始終を公園の入口から見ていたのではないか。)彼を手招きすると同時に、僕は、ホテル方向に足早に歩きはじめる。すると、彼は駆け足でついてきた。「琥珀を持った友人がまだ来ないので、探していた」と言う。それには答えず、ホテルの見える近くのベンチまでくる。ここなら安全だ。僕は、おもむろに腰をかけ、彼にも座るように目でうながす。「飛行場行きのバスが出るので、君の友人を待ってはいられない」。気まずい会話が続く。彼の別れぎわの言葉は、「手紙を書くよ」であった。
ハバロフスク空港に着き、バスから下りると、驚いたことに、ユージンさんが待っているではないか。「友達が土産物を持ってきた」と言う。今はそれどころではない。まず、搭乗手続きを済ませなくてはならぬ。余ったルーブルも替えなくてはならない。天井の高い、クラシックな空港待合室は荷物でびっしりだった。乗客は日本人の男が大部分で、ロシア人は少ない。話言葉から、中国人もわずかにいることがわかる。ソ連の搭乗手続きでは、禁煙・喫煙の座席を問われない。国内便だと、外人は”特別の待合室”に連れて行かれ(隔離されて?)、後から搭乗するので、窓側の席はすでにたくさんの荷物を持ったロシア人に占められているのが通例だ。そのため、期待していた外の景色があまり見られない。新潟行きの国際便の搭乗手続きでも、禁煙・喫煙の問いはなく、また座席も用意されている搭乗券を上から順番に渡すだけで、忠実に仕事をしている蒙古系の婦人に窓側の席をくれるよう頼むのがはばかれた。空港の銀行では、モスクワでの換金証明をみせると、残りのルーブルを、意外なことに、手際良く変えてくれた(ルーブルの持ち出しを警戒しているとのことだ)。2万円をルーブルに変えていたが、8千円ほど戻った。短期間の滞在では、ルーブルをあまり使う機会がない。なにせ、外人には外貨を使わせようとするのだから。これらの手続きに、ざっと1時間ほどはかかった。
この間もユージンさんは、待合室入口近くの柱の陰にいた。「ここは危険なので、駐車場隅の車に乗ってくれ」という。駐車場の方を見ると、白いライラックの陰に彼の友人がいた。彼の友人とは、遠くから見ると、どうも、あの家陰にいた1人のようだ。駐車場の隅まで行くと、僕の方が危険になるかも知れない。「通関の荷物が置きっぱなしだから、遠くまで行けない」。何回かのやり取りの後、ユージンさんが彼の友人に手で連絡をすると、ライラックの陰から窺っていた彼の友人は駐車場の方へ小走りにかけて行き、やがて車を回してきた。そして、運転席から琥珀をつかんで、さしだして見せた。オード色の丸い玉のネックレスだ。ホテルのみやげ物屋で見てきたものは、こげ茶色が混じる濃い茶色のものか白の混じる淡い茶色のものだったので、両方の中間の色に見えるオード色の丸い玉のネックレスが本物かどうかチェックする。丸い玉の中には、オード色に混じってこげ茶色のクラゲ雲状の模様が不規則に入っている。重さもこんなものだろう。地質屋の僕は本物だと判断した。琥珀のネックレス、5千円の言い値を千円に値切る。すると、50グラムほどのキャビアの缶詰を出してきた。3千円だという。これも千円に値切る。彼は日本円をほしがった。ハバロフスクでは使えないので、ナホトカの店で買物をするという。5千円札より千円札が良いという。5分間ほどの忙しい商談は終った。気まずい感じが残る。ユージンさんはこのやり取りをするかたわら、たえず目は、空港待合室入口付近の警官の姿を追っていた。支払いがすむと、彼は一安心と言った顔をした。これで、僕との約束を果たした事になるのだろう。ユージンさんは、車の助手席に乗り込み、分かれ際に、もう一度「手紙を書くよ」といって去った。
ソ連の通関は軍人風である。係官の肩には軍章らしきものが光る。ハバロフスクの係官は軍人にしては、割と愛そうがよかった。「こんにちは。ツーリスト?」と日本語で言ってくれる。だがここにも、頭上後方に横長の大きな鏡があり、彼は時々、鋭い目を僕の顔に向けるとともに、頭上の鏡を見て、後ろからも監視しているようだ。旅行カバンの検査はなかった。手荷物のレントゲン検査も簡単だったが、ハバロフスクには「フィルムに注意」の看板がある。レントゲンのX線出力が強力なのだろう。天井の高い待合室は、日本人の男達で一杯だった。日本語の商談にまつわる話が耳に入ってくる。樺太に行ってきた旅行会社の人もいた。樺太では雪に見まわれたという。これから、樺太からの残留日本人の訪日旅行が増えるらしい。待合室の中だけを見ていると、日本のローカル空港にきているようだ。数人のソ連人女性は待合室でもゆうゆうと立っている。いかにも、買物の順番待ちで慣れているとはいえ、あの大きな体を支えるのはさぞかし大変なことであろう。
離陸は、めずらしく時間通りであった。貨物輸送の交渉のため日本へ行く中国人は、「ソ連人はのんびりしているので、普通、30分は遅れるのだが」と意外な顔つきだ。飛行機はアムール河の遊覧船発着場付近上空をとび、鉄橋やアムール河を行きかうたくさんの船、蛇行する河、三日月湖と広大な湿地を見渡しながら南下する。春霞に覆われた日本海に佐渡島が浮かんでいた。イルクーツクで出会ったイギリス人が「5年間の日本滞在で佐渡島が一番印象的だった」といった事が思い出される。そこで彼は、自然に近い生活ができたそうだ。
朝日連峰の稜線は、雲に隠れていたが、中腹以下の新緑の谷間にはかなりの雪渓が残っているのがわかる。これまた、時間どうりに新潟空港着。ノーチェック。ソ連の空港内にくらべると明るい。待合所に置かれた4つのテレビはそれぞれ別々の番組を流している。みやげ物屋は万屋的で、フィルムから食物まで取り揃えている。どの店屋も似たりよったりだから、とにかくどれかの店屋に入り、品物を見ながらニーズを決められる。ヨーロッパなどでは、どちらかというと、専門店的だ。店ごとに特色がある。だから、何か買うときには、自分のニーズに見合った特定の店屋を最初に決めることになる。
日本に着くと、まず、水が飲みたくなる。アイスクリームと一緒に水をコップに3杯。さらに、ジュースを飲む。自動販売機のビオタミンも。自動販売機にはウーロン茶も売っていたが、あれはほとんど水ではないのかと言っていた中国人の中国人一行を思いだす。しかも、ミネラルウォーター2リットル220円は、ガソリン代より高いのだ。ガソリンがとれず、水が豊富な日本で、ガソリンが水より安いとは、信じられないことだ。
大阪便への搭乗手続きで、ナイフがみつかる。ヨーロッパやソ連では問題なかったのだが。同乗の外人も規則だからしょうがないとしっかりした日本語でしたがっている。彼らは、新潟に着くなり、子供と一緒にうどんを食べるほどの、日本通のようだ。ただし、コーラを飲みながら、というのが国際色を出していて面白かった。4分遅れで離陸。信濃川河口の濁水と導水路のコンクリート護岸が日本海に突き出している。松林のつづく海岸に沿って、侵食防止用と思われる直線的な建造物が長く延びる。新潟平野には田植のすんだ緑の水田が広がる。オード色に見える畑は麦畑か。
再び、佐渡島の上空に出て、頚城山地付近から本州にはいる。頚城山地には段々畑が発達し、山の高いところまで水田が分布する。ネパールなどのモンスーン地帯的な眺めだ。長野付近までくると、圃場整備が完了した広大な水田郡が広がっている。ゴルフ場や砂利採りによる森林破壊が目につく。松本付近にもスキー場のガレが痛々しい。スキー場はせめて緑にすべきだと思う。飛騨川上流域には段々畑の小水田群、長いダム、砂利採りによるハゲ山が目につく。濃尾平野に近い山地には眼下に7つものゴルフ場があるではないか。森林破壊のゴルフコースはタニシが田圃の土を這い回ったような傷跡に見えた。
濃尾平野の東端から知多半島のつけ根をかすめて飛んだ。知多半島の中央部を延びる高速道路と愛知用水。津付近は広大な麦畑が分布している。かっては広大な水田が広がっていたはずだ。布引山地周辺の杉林には、植林の時代差によるパッチ場の構造が見える。このような山の手入れ模様を見ていると、山も畑のように耕してきたのではないかと思われる。奈良盆地にはいると、水田地帯に宅地が食い込んでいる。ビニールハウスが水田と宅地の境界地帯に分布する。大和川沿いに宅地造成の進む生駒山を飛び越え、水田と住宅地、工場、オフィスビルの混在する大阪平野へ入り、大阪城を左手にみて予定時刻3分前に着陸した。

11)むすび

ソ連時代のバイカル湖とソ連の人々の情景をめぐる1990年5月17日から25日までの旅を終え、強く心に残った印象的なトピックスは次の通りである。

A)バイカル湖の環境変化と共同研究

バイカル湖畔のリストビアンカ滞在の最後の日に、バイカル湖南部の船旅エクスカーションを行った。出発直前に3人の若者が乗り込んできた。カザンとノーボシビリスクの大学の化学者でイルクーツクの研修の余暇にバイカル湖見物にきたという。単なる見物ではなく、みなさんサンプル・ビン持参で、バイカルの湖水採集にきたそうだ。とは言う僕も、ウィスキーの大瓶を空にしてもってきたのだが。女性科学者がピクニック・ランチを作ってくれた。歌がでる。「豊かなるザ・バイカル」の歌は、日本ではゆっくりとしみじみと唱うものだが、彼らはかなり元気そうに、快適なテンポで、ほがらかに歌うのだった。リストビアンカへの帰りには、船を沖合いに止めてもらい、「シベリアの真珠」であるバイカルの綺麗な湖水をみなで記念に採集した。
バイカル湖はかつて「シベリアの真珠」と言われていたように、その美しさが多くの人を魅了していた。面積は琵琶湖の約50倍、1700mほどの深さがあるので水量は世界最大の湖だ。湖には、サケ科のオームリをはじめバイカル・アザラシなどの貴重な生物が生息する多様性がある。そのため、その美しい景観や生物多様性が評価され、バイカル湖は1996年、世界遺産に登録された。しかし、その美しいバイカル湖の現在はと言えば、残念ながら、水質汚染の環境問題に悩まされているのは、観光開発によるリゾート施設からの排水によってバイカル湖の汚染が進行している(資料1)といわれる。
資料1
バイカル湖の汚染が深刻!シベリアの真珠が悩まされる環境問題
ecotopia編集部 2019年9月16日
https://ecotopia.earth/article-2545/
2001年と2002年にはモンゴル調査の際にバイカル湖を再訪した時は、悪名高かった製紙工場は閉鎖されていたが、バイカル湖への流入河川であるモンゴルからのセレンゲ川からの汚染物質はすでに1990年当時も問題になっていたが、ウランバートル周辺の開発によってさらに増大するとともに、バイカル湖周辺では観光開発がすすみ、リゾート施設からの排水でバイカル湖の汚染が進行し、“シベリアの真珠”と言われていたバイカル湖は琵琶湖と同様な富栄養化問題を抱えるようになった。
バイカル湖における1990年段階での共同研究については、生態学博物館のガラジィー館長が強調していた測器の共同開発の可能性はあるが、富栄養化が進む琵琶湖と「シベリアの真珠」と言われていた清麗なバイカル湖とでは湖の性格がかなり違うので、その点に関する研究者相互の認識を深めることが重要だ、と思っていた。しかし、30年後の現在になってみれば両湖とも富栄養化問題をかかえているので、共通課題の解決のための共同研究の目がようやくできてきたように思われる。

B)ドイツ人のソ連への進出情景と日本との違い

1990年のシベリアを旅して、ソ連のシベリア方面へのドイツ人の進出情景は相当なものだと実感した。ルフトハンザの航空路網の拡張政策で、ドイツ人のおじいさんやおばあさんグループさえもがシベリア地域に進出している。ホテルのビールはドイツ製のレーベン・ブラウだ。ドイツとソ連は東西ドイツの再統一などの政治問題も抱えており、ドイツはそこをうまく立ち回っているように感じた。一方、戦後のシベリア抑留や北方領土の返還問題をかかえる日本はどうか。バイカル湖には東京レストランが、金沢の姉妹都市であるイルクーツクには金沢通りがあり、日本人のビジネスマンがハバロフスクに来てはいるが、日本の影響力はドイツに比べるとはるかに小さかった。ハバロフスクで会った日本人の旅行グループはタシュケントへの旅行許可が下りないので4日も待ちくたびれ、疲れ切っているように見えたが、レーベン・ブラウを飲みながらドイツ語の歌謡曲を元気いっぱいに歌うドイツ人旅行者との違いは歴然だった。ドイツが行っていた民間人までもふくむしたたかな外交力が東西ドイツの統合を成し遂げた基盤になっていただろうことが推察されたのである。それに反して、北方領土の返還問題をかかえた日本の外交力はどうであったであろうか。安倍晋三元首相がプーチン大統領と27回もの会合を重ね、彼のことを「ウラジーミル」とファーストネームで呼びかけ、出身地の山口にまで招待し、しかも4島返還から2島返還にまでハードルを下げた交渉をしでさえも、北方領土の課題が解決しなかったのは、日本とドイツの外交力の違いがあったのではなかろうか。1900年前後といえば日本はバブル景気の絶頂期でGDPは世界のトップクラスでドイツより大きかったはずだが、むしろそのマイナスの面が出て、日本的手法は従来通りの経済中心で(一時的なビザなし交流などの試みもあったが)、ドイツのような民間人までふくむしたたかな外交を展開する政治力が乏しかったと思わざるをえない。

C)懐かしき人々の情景とソ連の変革

モスクワの赤の広場近くの通りには、足は泥んこの素足の子供達が物乞をしていた。頭には山伏が被るような回教徒の小さな帽子をかぶっているので、一見して中央アジアから出てきたことがわかる。また、ある街角には老女と孫と思われる物乞いがうずくまっていた。モスクワのインツーリスト・ホテルの夜の部では、ヌードまがいの出し物があり、外人観光客が乗りにのっていた。受付周辺には「何が欲しいの?」と聞いてくる売春婦風の女性がいるかと思えば、「電話使わして?」と言って部屋に勝手に入ってきて、Eine Hundert(ドイツ語で100)と言うお嬢さんもいた。ドイツ貨幣のマルクのことだろうか。とにかく、ドイツ語が幅を利かせている。ソビエト時代のインツーリストは国営の交通公社だが、怪しげな彼女たちも公務員なのだろうか、と茶化してみたくなる。赤の広場へ向かう地下道にはたくさんの人たちに交じって、柱の影からロシア語で話しかけてくる怪しげな夜の女もいた。
モスクワのテレビ放送の1つは、常時、会議中の議会を写していた。グラスノスチなのだろう。議事が次々と投票にかけられ、その結果が刻々と投票版に数字で示される。立派な口髭をたくわえたラマ教徒が議場で発言をする場面もあった。広いソ連にはラマ教徒もいるのだろう。他のテレビ放送では家庭向きの番組を流している。ニュースなどは手話付きで、ニュースの画面よりも手話の人の方を大きく写している。なかなか考えたやり方だが、ヨーロッパのニュースが多く、日本のニュースはみなかった。ニュースにはゴルバチョフさんがよく登場する。ゴルバチョフさんの宣伝臭が強く、人々との対談では、彼は1を聞いて10を話すかのように雄弁だ。これもゴルバチョフ大統領のペレストロイカなのだろう。ゴルバチョフ大統領もさぞかし大変なことが察しられた。
モスクワ最後の夜、マルクス像から赤の広場方面へ散歩した。マルクス像と赤の広場の中間ほどに位置する暗い街角で警察官2人と若者2人が口論していた。若者は、ジーパン姿に長髪、学生だろうか。ともに、大声で罵りあっている。若者の1人が警察官に組み倒された。1人の若者が止めに入る。倒されていた若者は立ち上がり、再び警察官に食らいつく。警察官の帽子がふっ飛ぶ。警官の攻撃はさらに激しくなり、若者は倒されたまま身じろぎしなくなった。すると警官は、呼び笛を吹きながら、他の警官を呼ぶかのように、その場を離れて行った。その場に残された1人の若者が倒された若者を介抱する。その場を離れた警察官は、再び戻ってこなかった。やがて、若者は立ち上がり、2人は肩を組んでゆっくりと歩きはじめた。何が彼らを闘わせたのだろうか。警官は、なぜ、呼び笛を吹きながらも、途中で引き下がったか。このような人々の情景を、花崗岩のマルクス像はどのように見ているのだろうか。暗い照明のなかで、巨大なマルクス像は混迷の度を深めて眉をひそめているかのように感じた。
ソ連の空港では外人扱いにされると、機内にはいるのが最後になるので、窓側の席はすでに占められており、通路側の席しか取れない。だが、最後に来たイルクーツクの政治家クラスの人物は例外で、彼には最前列の窓側の席が用意されていたのであった。外人には、窓から外を見せたくないのかと勘ぐりたくなる。隣の人に聞くと、写真はダメだと言う。彼は実に流暢なアメリカ英語を話す。ヅィールゲ氏だった。最初、ゾルゲに聞こえたので、念のためそう言うと、彼は、とんでもないというような顔をし、「俺はスパイじゃないよ」と真顔で打ち消した。彼は、日本人のプロジェクトにも英語の通訳として加わったそうだ。片言の日本語も話す。その彼が僕のとなりにいるのは、単なる偶然だろうか、気になった。彼はバイカル生態学博物館のあるリストビアンカ生まれとのことで、何度もモスクワ-イルクーツク間を飛んでいるというので、イルクツクまでの飛行ルートを彼に聞くと、オムスク経由だと言う。地図を渡すと、オムスクに丸印をつけてくれたが、飛行ルートの線は僕に引けと言う。ほぼ直線的に飛ぶのだから、モスクワ-オムスク-イルクーツクを線で結ぶのは簡単なはずなのだが、どうも、外人に飛行ルートを書いて教えるのをためらっているかのようだった。
オムスクで1時間半休息し、黒色と緑色の耕地を後にする。そして、オムスク空港を離陸してすぐに、興味ある出来事が起こった。モスクワの空港で最後の最後にイルクーツクの政治家が最前列左の窓側の席に着いて、やっと、離陸したのだったが、そのイルクーツクの政治家が座っていた座席の上あたりの棚から水がしたたり落ちたのだ。それを見たヅィールゲ氏は「水は落ちるべきところを知っているようだ。中央から地方都市に派遣されて来る政治家にはよくない人がいる。選挙で選ぶ必要がある」と言う。イルクーツク空港に着いて、モンゴロイド系の若者はとみると、彼は出迎えの4人の女性に囲まれているではないか。みな同じ様なヤクート的な顔つきをしている。どうも地元の小数民族の人らしい。モスクワの空港では彼は僕たち同様に外人扱いだったので、ソ連では小数民族の人には外人並に気を使っていることが窺えた。
ソ連の店屋は商売っけがないから、はやく店終いをする。イルクーツク到着以来、夕食にありついていないので、生態学博物館館長の息子であるセルゲさんたちが夕食をもってきてくれた。黒パンと魚の缶づめ、赤かぶ、にら。それに、なつかしいアイヌネギだ。にらもアイヌネギも生でそのまま食べる。かなり強烈だが、ビタミンCを取るにはもってこいに違いない。最後のシーバス・リーガルを空けると、彼ら持参のシベリア・ウォットカを飲む。実験用アルコールの1/2水割りだ。日本の人種問題(アイヌ・朝鮮人)やアメリカとの経済問題、ソ連との領土問題、ソ連のアゼルバイジャン・アルメニア・バルト3国の問題などかたい話題を肴に、夜半まで飲む。人種問題は、ソ連でも重要な課題になっているのが窺えた。ホテルはとっくに閉まっていたが、セルゲさんたちは門番を起こすこともせずに、窓のベランダから飛び降り、帰って行った。時間外の門番が仕事をしないことは了解済みなのだろう。
最後に、ハバロフスクで出会ったユージンさんのことが気にかかる。彼は最初に会うなり、大きくてハデな色のソ連軍の時計を売りつけようとした。僕が彼の時計商売の相手ではないとみると、彼は話題を変えてきた。「どこに行くのか」と聞くから、「散歩に行く」というと、「案内しよう」と言って、ハバロフスクの町の案内とともに、アムール河の船旅にも誘ってもくれた。帰国日の早朝には早くからホテル近くで彼の友人たちと待ち構え、僕を誘拐するかもしれないという気にさせるほど怪しげなふるまいをした。その後、出発前の空港では彼は2時間もねばったあげく、最後の5分間に土産物の商談になり、琥珀のネックレスとキャビアをしめて彼の言い値の8千円を2千円に値引きしてくれたのであった。僕は、値引きし過ぎたのではなかろうかと、一抹の後悔があるが、はたして彼はこの商談に満足したのだろうか。ただ、僕にとって興味深かったのは、ユージンさんが大変革直前のソ連の人々の怪しげな情景を垣間見せてくれたことであった。ユージンさんは2回も「手紙を書くよ」とくりかえし言っていたのであるが、彼からの手紙は未だに来てはいない。彼に初めて会ったときに、名前のユージンは日本語では友人だというと、彼は嬉しそうな顔をしたのであった。しかしながら、やはりというべきか、彼と僕は本来の友人(ユージン)関係にはなりえるはずではなかったのかもしれない。
以上のように、1990年5月のソ連の旅では実に多様な人々の情景に接することができた。改めて、当時のゴルバチョフ大統領のご苦労が偲ばれるとともに、共産主義のソ連が変革し、資本主義のロシアが誕生しても、多くの異なる民族を抱え、東西の時差が10時間程度にもなる広大な国全体をまとめ上げていく困難さは相当なものになるであろうことは容易に推察されるのであった。この旅で経験した多様な人々の情景にはソ連が抱える課題がにじみ出ており、その1年後には冷戦の終わりを告げることになる共産主義ソ連が崩壊する予兆とともに、ポスト・ゴルバチョフ時代に現れる資本主義のロシア政府の政権がいずれも権威主義をとらざるをえない要因が示唆されているかのようだった。