東ネパールをはじめとする中部ヒマラヤの氷河群が拡大するためには、上昇するヒマラヤ地域の地形条件に打ち勝つように、夏のモンスーンが活発となり、降雪量を増大するようになる気候条件を考えねばならない。ところが、マハバラート山脈とヒマラヤ山脈が著しく上昇したため、そうした中部ヒマラヤの氷河群を拡大させるような気候条件は考えにくく、それとともに、カラコルム山脈や西部ヒマラヤや東部ヒマラヤの氷河群を発達させるような地形・気候条件に変化してきている、といえる。このようなヒマラヤ地域の自然環境の地域性とその歴史性は、過去から現在までの人間を含む生物に影響を与えてきたとともに、また将来のヒマラヤ地域の自然史の方向を示すと考えられるのである。
ヒマラヤ地域の自然について、われわれが見いだす多様な地域特性の中に、内陸アジア変動帯の一つであるヒマラヤの上昇とともに変化し続けてきた自然現象の歴史性を見ることができる、といえるであろう。
地球の歴史に登場した、かつての山岳地帯はすべてその高度を減じていった。ヒマラヤ山脈などの内陸アジア変動帯の山岳地域もその例外とはなり得ないであろう。
ヒマラヤ地域が上昇する過程で、自然現象の地域性が出現したといえるが、悠久とも思える地質学的将来において、内陸アジア変動帯とともにヒマラヤ地域が高度を減少させ、現在見られるような地域性を持った地形・気候特性が失われてゆき、やがては新たなるグローバルな気候条件と広域性を持ったヒマラヤ地域などの地形条件とが絡み合った自然史を作り出してゆくことであろう。だがそのときはもうこの地域をヒマラヤとは呼べないかもしれない。
ここでまとめたいと思っていたのは、ヒマラヤ地域が陸化し上昇を続けて、ついには世界最高の山岳地域となるに至る、その自然の歴史性と地域性についてであった。しかしながらなにぶんにも氷河中心の見方となってしまい、広大なヒマラヤ地域の自然史をまとめきれていない。ヒマラヤ地域を含む内陸アジア変動帯の自然史を編んでいく研究はまだ始まったばかりである。ヒマ・アラーヤの神々は依然として未知のベールを厚くまとっている。
冒頭で述べたヒマ・アラーヤ・バーワンは1977年10月1日テーチス研究所として発展し現在に至っている(『テーチス・リサーチ』第一号、1979年、テーチス協会)。ヒマラヤ地域をはじめとした内陸アジア変動帯は、新生代後期の一つの極を示すものであり、地域学としての総合性を持っていると思われる。しかし内陸アジア変動帯の研究は、それ自身で完結する地域学でありえない。グローバルな自然史との関連性を忘れてはならないであろう。
1979年6月30日の朝日新聞夕刊に「谷川岳に氷河遺跡の波紋」と題して次のような記事が見られた。記事の主旨は氷河遺跡が天然記念物に指定されれば、観光に利用したいのだが、観光開発にストップがかかるので地元で問題になっているとのことだ。だが興味を覚えたのは、日本人研究者はこの谷川岳の氷河遺跡が氷河時代の後期(約二万年前)のものと考えているのだが、「西ドイツなどの氷河学者に立ち合ってもらったうえ結論を出す」という点であった。これはなんとも気の弱い話ではなかろうか。私は今西錦司のいう「セオリーの奴隷になっている人ばかりなんや。わしは奴隷になるぐらいやったら死んだ方がよっぽどましや」(『今西錦司の世界』1975年、平凡社)という重みのある発言を思い出すばかりである。
このヒマラヤ地域の自然史をまとめるにあたりテーチス協会の多くのかたがたにコメントをいただいた。中でも木崎甲子郎、渡辺興亜、在田一則、名越昭夫、松田益義の諸氏からは行き届いた指摘をしていただいた。これらの諸氏に感謝する次第である。また、カトマンズにて独力で考古学調査を進めておられるカーナル、ディキシット両氏に、そして約四年半にわたるフィールド調査をともにしたヒマラヤの高地の人たちにも併せて感謝する次第である。なおC14の年代測定のための分析は学習院大学の木越研究室にて行われた。
最後に、これを書き終えた1979年9月6日の朝日新聞に再び雲南省で800万年前のほぼ完全な猿人の頭骨が三指馬、象、サイ、バクなどの新生代後期の動物とともに発見されたことが報道された。ヒマラヤの自然史と関連する新しい発見の報告を紹介して、筆をおきたいと思う。

ホング谷上流のホング・ヌップ氷河湖からチャムラン峰を望む。

〈注〉
1 Contributions from the Tethys Society, No.25
2 Troll,C.(1972): The three-dimensional zonation of the Himalayan sys- tem. Geoecology of the high-mountain regions of Eurasia, edited by Tr- oll C.,Franz Steiner Verlag GMBH, Wiesbaden,p.264-275.
3 石井博(1977)「民族の分布」『朝日小事典ヒマラヤ』川喜田二郎編、朝日新 聞社、43-44ページ。
4 インド測量局が再測した時には、頂上に測量用ボールを立てていないので、 詳しい高度を出す場合には頂上の位置などの誤差が問題となる。また中国は青 島の海水準を基点としていると報告しているのに対し、インド測量局の基準点 はベンガル湾またはアラビア海にあると考えられ、これら両基点の平均海水準 の値は異なっていることと、またヒマラヤ地域周辺でのジオイドの形の算定方 法や大気の密度差による角度の修正方法も両者で異なってくると思われるが、 それらが互いにうち消し合って両者ともほぼ近い値となったと考えられる。
5 テーチス海が次第に縮小してゆき中生代後期に貨幣石が堆積したのをもって 陸化したことを1860年代に西チベットを探検したストリックザ(StolicKza,Me mo.Geol.Survey of India,1864)が報告した。
6 内陸アジア変動帯の地震の分布を見ると、深さ100キロ以浅、マグニチュード 四以上の地震は、ヒマラヤ山脈やパミールから天山山脈などの山岳地帯に広く 分布する。しかしその深さ100キロ以深、マグニチュード四以上の地震は、この 対曲構造が発達するヒマラヤ地域の西端と東端にしかあらわれていない。深発 地震と対曲構造とが、どのように関係するかについてはうまい説明がなされて いないようだ。
7 ストラッチィは南北方向の運動を重要視していないようだ。またこの花こう 岩は、第三紀のものと考えられているが、彼はその時代を古生代前期より古い ものとしていた。彼は、ヘディンよりも前にカイラス、マナサロワール湖周辺 を調査しており、サトレジ河の源はラカス湖であることをすでに報告している。8 スウェン・ヘディン(1925)『探検家としてのわが生涯』山口四郎訳、白水 社、1966年。
9 1956年のスイスのエベレスト・ローツェ隊隊員のミューラーは、遠征隊終了 後もクンブ氷河に残り、氷河流動測定や質量収支の観察を続け、ヒマラヤ山脈 のふもとに当たるクンブ氷河の一年間の降水量が300~400ミリしかないことを 見いだした(文献41)。一方、上田はクンブ地域内の降水量分布について「ヒ マラヤ山脈の主稜に近づくにつれて降水量は減少するが、氷河の分布する稜線 付近の降水量は谷の中の降水量よりも多い」[Ageta,Y.(1976): Characteris- tics of Precipitation during Monsoon Season in Khumbu Himal. Seppyo, Special Issue,38,84-88]ことを述べ、地形的な対流活動によって形成される 積雲が氷河の涵養にとって重要であることを報告している。また樋口は、ネパ ール・ヒマラヤでは夏期の降水量の60%が夜間雪として降ることの効果につい て、「もしも夜間の降雪が昼間に雨として降ったら、ヒドン・バレー地域のリ ッカ・サンバ氷河の末端は後退し、現在よりも70メートル高くなる」[Higuc- hi,K. (1977): Effect of the Noctural Precipitation on the Mass Balance of the Rikha Samba Glacier, Hidden Valley, Nepal. Seppyo, Special Iss- ue,39, 43-49]と述べネパール・ヒマラヤの氷河の形成にとって夜間の降水量 の多いことの重要性を指摘している。
10 1979年の雪氷学会にて講演した施雅風[Shi Yafeng (1979): Some achieve- ments on mountain glacier researches in China]は、東部ヒマラヤの氷河は 長さが33キロあり、末端高度が2 530メートルであることを報告した。
11 チベット高原を中心とする内陸アジア変動帯の上昇地域は、冬期の放射によ って冷やされたシベリア地域の大気が南へ流れ出すのを防ぎ、この変動帯の北 側に大気を蓄えるダムの役目を果たしているといわれている。中村一は、大気 大循環の数値実験から、チベット高原などの地形条件が東西風を減速させ、高 圧帯を北上させたことによってユーラシア大陸では乾燥地帯がチベット付近で は高原の北側にあり、アフリカやアメリカなどと比べて北上していることを論 じている。中村一(1978)「数値実験から見た大気大循環に対する山岳の力学 効果」『天気』第25巻第9号、1-26ページ。
12 このような大規模な氷河拡大があったとする考え方に対して、ハイムとガン サーはクマウン・ヒマラヤの調査から〔アーノルド・ハイム、アウグスト・ガ ンサー(1938)『神々の御座』尾崎賢治訳、あかね書房、1967年〕、そして今 西はネパール・ヒマラヤのマルシャンディ川流域の調査から(文献38)、とも にヒマラヤの氷河が大規模に拡大したことに疑問を投げかけている。
13 The Late Cenozoic Glacial Ages, edited by K.K. Turekian(1971), Yale Univ. Press, PP. 606.
14 I.D. Hooker (1875~97): Flora of British India.フッカーの生物地理学的 研究はその後の研究者に強い影響を与えたが、当時鎖国状態となっていたネパ ールの資料が次第に集まってくると、フッカーの西部ヒマラヤと東部ヒマラヤ 区分の中間に、中部ヒマラヤ植物区を分ける考え方がチャタルジー(1940)に よって出された。また地理学者のシュペート〔Spate, O.H.K.(1954): India and Pakistan.London.〕も、ヒマラヤを東西に三区分している。
15 北村四郎(1956)『砂漠と氷河の探検』木原均編、朝日新聞社。北村は、日 華区系の植物分布がヒマラヤ山脈の南を通り、アフガニスタン東部のヌーリス タンまで続いていることを示し、ヒマラヤ地域は植物分布の連続した通路でヒ マラヤ地域を生物地理学的に区分できな い、と報告している。
16 施、その他(文献56)は1966年5月にヒマラヤ山脈北側のロンブック氷河で氷 温測定を行い、表面から3メートル以下で摂氏零下四度を、またヒマラヤ山脈 の南側の氷河の氷温については、前(1976)が1974年8月にクンブ氷河表面2メ ートルで摂氏零下二度を、そして田中(1980)はクンブ地域の南に当たるショ ロン・ヒマールの氷河の氷温が1978年6~9月に、表面から10メートル下で摂氏 零下三度~零下五度となっていることを報告している。Academica Sinica (19 75): Basicfeatures of the glaciers of Mt. Jolmo Lungma region, southe- rn part of the Tibet Autonomous region China Scientia Sinica, Vol.18, 106~130. Mae,S.(1976): Ice temperature of Khumbu Glacier.Seppyo, Vol. 38 Special0 Issue,37~38. Tanaka,Ageta, Y.and Y.,Higuchi K.(1980): Ice Temperature measurement in the surface layer of Glacier AX 010,Shorong Himal, East Nepal. Seppyo. Vol.41,Special Issue,55-61.
17 この発見とともに同時代の氷河の堆積物も報告され、この氷期が竜川氷河と 命名された、とのことである。
18 ストラッチィ(文献25)やハーゲン(文献30)も述べているように、水蒸気 の供給地として古ガンジス海(ガンジス平原が海であった時代)とともに、西 方からの水蒸気輸送経路に当たるカスピ海、ベルシャ湾などの地史的変化など も、ヒマラヤ地域の降水量パターンに大きな影響を与える、と考えられる。
19 東ネパール、クンブ地域のロブチェ氷河などでは、現在の氷河末端とは離れ、 かつて氷河末端付近に多量の岩屑をかぶった化石氷体が見られる。このことは 現在の岩屑量の少ない氷河がかつては岩屑量の多い氷河(ロッキー氷河と呼ん でおく)であったことを示しており、いわゆる氷河とロッキー氷河とが互いに 移行することを示している〔Fushimi,H. (1977): Structural studies of gl- aciers in the Khumbu Himal. Seppyo, 39, Special Issue,30-39〕。また、さ らに氷河の涵養における降雪の寄与が減少し、逆に岩屑量が増加すれば、ロッ キー氷河は岩石氷河へと移行することが考えられる。クンブ地域には、これら の岩石氷河やロッキー氷河やいわゆる氷河が分布しており、各氷河がいかに変 化してきたかという氷河群の歴史と、質的に異なる各氷河の分布の特性とから、 氷河群の歴史性と地域性を作ってきた支配要因を明らかにすることによって、 将来の氷河像をを描くこともできるだろう。
20 藤井によって、氷河表面を覆う岩屑が2センチ以上になると融解が抑制され、 0.5センチで最も融解が進むことがヒマラヤの氷河で確かめられている。〔Fu- jii,Y.(1977): Field Experiment on Glacier Ablation under a Layer of D- ebris Cover.Seppyo,Special Issue, 39, 20-21〕。下流域よりも上流域の方が 岩屑量が薄く、薄い岩屑は太陽の輻射熱をよく氷体に伝えるために、ロブチェ 氷河などでかつての氷河の中流域が解けさったと考えられる。
21 カトマンズ盆地の天然ガス調査のためにボーリングがおこなわれ、湖成堆積 物は数百メートルから1000メートルもの厚さがあるともいわれていたが、森林 成生と丸尾祐治による重力調査の結果、最大650メートルであること(Person- al Communication)が明かとなった。
22 Fushimi, H. and Ohata, T.(1980): Fluctuations of glaciers from 1970 to 1978 in the Khumbu Himal, East Nepal.Seppyo, Vol.41 Special Issue,p. 71-81.
23 Muller,F.(1970):Inventory of glaciers in the Mount Everest region.
“Perennial ice and snow masses”(UNESCOIASH),p.47-59.
Higuchi,K.,Fushimi,H.,Ohata,T.,Takenaka,Iwata,S.,S,Yokoyama,K., Hig- uchi,H., Nagoshi,A. and Iozawa,T.(1979): Glacier inventory in the Dudh Kosi region, East Nepal. Riederalp Workshop, Sept. 1978, IASH publica- tion No. 126.

 マナスル峰南西のツラギ氷河湖とフンギ・ピークを望む。

〈参考文献〉
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5 渡辺興亜、遠藤八十一、石田隆雄(1967)「ヒマラヤの氷河について(Ⅰ)  -ネパール・ヒマラヤの二つの氷河-」『低温科学物理篇』第25輯、197-218ペ ージ。
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9 深田久弥(1973)『ヒマラヤの高峰』白水社。
10 Gansser, A.(1964):Geology of the Himalayas, Interscience Publishers, London, pp.289.
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15 中国科学院蘭州冰川凍土砂漠研究所中国科学院西蔵科学考察隊(1977)「珠 穆朗瑪峰地区図」縮尺五万分の一、上海中 印刷。
16 Schneider,E.(1963): Khumbu Himal (Nepal),1:50,000, Forschungsuntern- ehmen Nepal Himalaya,Munchen.
17 Fushimi,H. (1977): Glaciations in the Khumbu Himal I,Journal of the Japanese Society of snow and Ice, Vol.39, Special Issue,p.60-67.
18 Nakata,T.(1972): Geomorphic History and Crustal Movements of Foot-
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19 Bordet,P.(1961): Recherches geologiques dans l’Himalaya du Nepal,re- gion du Makalu,Paris,pp.275.
20 在田一則(1972)「ネパール・ヒマラヤ自然史研究における地質学部門の将 来の問題」『たんけん』北大探検協会、第四号8-9ページ。
21 郭旭東(1974)「中国西蔵南部珠穆朗瑪峰地区第四紀気候的変迂」『地質科 学』1974年2月、第一期、59-80ページ。
22 樋口敬二(1976)「エベレストはなぜ8848メートルか」『朝日新聞』1976年 1月14日夕刊。
23 Valdiya, K.S.(1975): Himalaya, the Restless Giant, Science Today New Delhi.
24 Holmes, A.(1944): Principles of Physical Geology, London. ELBS Edit- ion 1975,pp.1288.
25 Strachey, R.(1851): On the Geology of Part of the Himalaya Mountains and Tibet. Quaterly Journal of the Geological Society London, Vol.7,p. 292-310.
26 Strachey, R.(1847): A Description of the Glaciers of the Pindar and Kuphinee River in the Kumaon Himalaya. Journal Asiat. Soc. Bengal,Vol. 16,Part 2,No.181,p.794-812.
27 Strachey, R.(1848): Note on the Motion of the Glacier of the Pindar in Kumaon. Journal Asiat. Soc. Bengal,Vol.17,Part 2,p.203-205.
28 Loczy, L.(1907): Beobachtungen im Ostlichen Himalaya(vom 8-28,Feb.18 78),Foldrajzi Kozlemenyek, Bd.35, Heft 9,p.1-24.
29 Hagen, T.(1961): Nepal, the Kingdom in the Himalayas. Kummerly and Frey, Geographical Publishers, Berne, pp.180.
30 Hagen, T.(1963): The Evolution of the Highest Mountain in the World. Mount Everest, Oxford University Press, London, p.1-96.
31 Hashimoto, S., Ohta, T.and Akiba, C.ed.(1973): Geology of the Nepal Himalayas, Sapporo.pp.286
32 Argand, E.(1924): La Tectonique de l’Asie, Compte Rendu ⅩⅢe Congr. Geol.Intern.1922,p.171-372.
33 河野長(1975)「エベレストは高すぎる-重力から見たヒマラヤの地殻構造 -」『自然』1975年1月号、92-101ページ
34 Wadia, D.N.(1957): Geology of India, Macmillan, London, 3rd Edn.,pp. 536.
35 D.フレッシュフィールド(1903)『カンチェンジュンガ一周(Round Kangc- henjunga)』薬師義美訳、1968年、あかね書房。
36 Wissmann, H.V.(1959): Die heutige Vergletscherung und Schneegrenze in Hochasian. Akad d. Wiss. u.d. Lit., Abhdl.d. Math.-Naturw.Kl.Jg. 19 59,14(Wiesbaden),p.1101-1407.
37 Shih Ya-feng, Hsieh Tsu-chu, Cheng Penhsing and LiC.(1978): Distrib- utions, features and variations of glaciers in China. World Glacier I- nventory, edited by F.Muller and K. Scherler, Zurich,p.51-56.
38 今西錦司(1954)『ヒマラヤを語る』白水社。
39 田崎允一、平沼洋司、倉嶋厚(1973)「沖縄の梅雨について」『モンスーンア ジアの水資源』吉野正敏編、古今書院、143-160ページ
40 Fushimi, H.(1978): Glaciations in the Khumbu Himal Ⅱ,Journal of the Japanese Society of Snow and Ice, Vol. 40, Special Issue,p.17-20.
41 Muller, F.(1958): Eight months of glacier and soil research in the Everest region, The Mountain World, 1958/59,p.191-208.
42 F.ミュラー。1978年スイスで催された氷河台帳についてのシンポジウムで、 樋口敬二名大教授が聞いた Personal Communication による。
43 Denton, G.H.and Karlen, W.(1973): Holocene Climatic Variations-Their Pattern and Possible Cause, Quaternary Research, Vol.3,No.2,p.155-205.
44 Wadia, D.N.(1951): The transitional passage of Pliocene into the Pl- eistocene in the North-Western Sub-Himalayas. Proc.18th Int. Geol. Co- ngr.,1948,Vol.11,p.43-48.
45 Coulson, C.A.(1938): Pleistocene glaciation in northwestern India, with special reference to the erratics of the Punjab.Rec.Geol.Surv.In- dia,VOL.72,No.4,p.422-439
46 De Terra, H.and Paterson, T.T.(1939): Studies on the Ice Age in Ind- ia and associated human calture, Calture, Carnegie Inst.,No.493,pp.354.
47 De Terra, H.(1939): The Quaternary terrace syatem of southern India and the age of man. Geogr.Rev.,p.101-118.
48 Iwata, S.(1976): Late Pleistocene and Holocene Moraines in Sagarmat- ha (Everest) Region, Khumbu Himal. Seppyo, Vol.38, Special Issue,p.109 -114.
49 和田一雄。1978年3月30日、犬山の京大霊長類研究所で開かれた「第一回ヒマ ラヤの自然史を語る集い」で「サルの分布と地史」の題で話された内容による。50 阿部永。1978年3月31日、犬山の京大霊長類研究所で開かれた「第一回ヒマラ ヤの自然史を語る集い」で「ネパールにおける小哺乳類の生態的分布」の題で 話された内容による。
51 Fleming R.(1975): Birds of Nepal, Calcutta.
52 堀勝彦(1977)「動物」『朝日小辞典ヒマラヤ』川喜田二郎編、朝日新聞社、 158-164ページ。
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54 松田雄一(1975)「ヒマラヤを越える渡り鳥」『シンポジウム・ネパール、 第四回ネパール研究学会報告』63-76ページ。
55 Hahn, D.G. and Shukla, J.(1976): An Apparent Relationship between E- urasian Snow Cover and Indian Monsoon Rainfall, Journal of Atmospheric Science, Vol.33,p.2461-2462.
56 中国科学院蘭州冰川凍土砂漠研究所冰川研究室(1974)「我国西蔵南部珠穆 朗瑪峰地区冰川的基本特性」『中国科学』1974年第四期383-400ページ、牛木久 雄訳、『雪氷』(1976年)38巻1号、32-51ページ。
57 横山宏太郎(1978)「カラコルムの氷河の形態的特徴(序)」『日本雪氷学 会秋季大会講演予稿集』124ページ。
58 水津重雄、西村寛、西村浩一(1978)「カラコルム氷河調査(Ⅲ)-ビアフォ 氷河の流動と質量収支-」『日本雪氷学会秋季大会講演予稿集』128ページ。
59 Department of Hydrology and Meteorology (1977): Climatological Reco- rds of Nepal, Ministry Food, Agriculture and Irrigation, Nepal,pp.366.60 古川宇一(1974)「グルンの人々の由来について」『シンポジウム・ネパー ル、第三回ネパール研究学会報告』77-82ページ。
61 黒田信一郎。1979年9月に「第八回ネパール研究学会」で開いた Personal Communication による。
62 Haimendorf, F.(1964): The Sherpas of Nepal. Oxford Book Co.,London, pp.298.
63 Oppitz, M.(1974): Myths and Facts, Reconsidering some data concerni- ng the clan history of the Sherpas. Kailash, Journal of Himalayan Stu- dies, Vol.Ⅱ,No.1 and 2,p.121-131.
64 保柳睦美(1976)『シルクロード地帯の自然変遷』古今書院。
65 M・M・ディキシット、M・カーナル。1976年12月にカトマンズで開いた Per- sonal Communication による。
66 神原達(1977)「古代・中世のネパール」『朝日小辞典ヒマラヤ』川喜多二 郎編、朝日新聞社、74ページ。

ポカラから望むマチャプチャリ峰。

補遺
本文の原稿を五年ほど前に書いてから、出版に至る間に、ヒマラヤ研究は大きく前進した。
まず、1980年には北京で、青蔵高原科学討論会が開かれ、約240名の中国人と18ケ国から約80名の外国人研究者が集まった。なかでも、中国人研究者によるヒマラヤを含むチベット高原周辺の広範囲にわたる調査が急速に進み、今後中国人研究者の成果を抜きにしてはヒマラヤを語ることができなくなった、との感を深くした。この討論会終了後には、長いこと禁断の国であったチベットへの旅行が許可され、私たちは、トランス・ヒマラヤからヒマラヤ山脈までのチベット高原を横断し、カトマンズに達したのだった。
また、日本人研究者による1970年代から80年代にかけてのヒマラヤ研究も見逃すことはできない。名古屋大学水圏科学研究所の樋口敬二教授を隊長とするネパール・ヒマラヤ氷河学術調査隊やヒマラヤ山脈のダイナミックスに関する研究(琉球大学、木崎甲子郎教授隊長)、言語学を中心とする社会人文学調査(東京外国語大学、北村甫教授隊長)などの組織立った研究が進んだ。これらの計画的な研究班とは別に、個人レベルでの広範囲にわたる調査や登山隊に加わった隊員による研究成果は、例えば、日本ネパール協会のシンポジウム・ネパール(理事、筑波大学、川喜田二郎教授)やテーチス海地域自然史研究会(代表、名古屋大学、渡辺興亜氏)、ヒマラヤの自然氏を語る集い(代表、京都大学霊長類研究所、和田一雄氏)によって集積されつつある。このような日本人研究者の活動は、ネパール・ヒマラヤに集中している傾向が見られるとはいえ、80年代に入ってからもますます活発となってきている。 そして、国際的にもMAB(国際生物学事業計画)や国連大学の活動と関連したネパール・ヒマラヤの植生分布図やハザード・マップ(Hazard Map)などがまとめられつつある。 以上のような1970年代中ごろから80年代にかけてのヒマラヤ研究の目覚ましい進展があるので、新しい成果を書き加えたいところであるが、ページ数の都合でできなかった。
最近のヒマラヤ研究に関しては、
「内陸アジアの氷河群-氷河現象の地域性と歴史性について-」地球、2巻、3号、201~210ページ、1980年。
「内陸アジアの自然-青蔵高原科学討論会の報告とチベット高原の見学旅行-」地球、2巻、10号、707726ページ、1980年。
「ヒマラヤの自然史概説」シンポジウム・ネパール、第7回・第8回ネパール研究学会発表論文集、日本ネパール協会、47~61ページ、1980年。
にまとめ、私の考えを述べているので、興味のある方々はぜひ参照いただきたい。
なお、本文は「ヒマラヤの自然史. ヒマラヤ研究, 原真・渡辺興亜編, 山と渓谷社, 1983, 179-230.」 で発表したものを改編した。