たかが1秒の違いと言うなかれ

スポーツは記録が勝負で、マラソンは1分1秒を争う。2月28日に行われた第76回びわ湖毎日マラソン大会で日本新記録を達成して見事優勝した鈴木健吾選手がゴールテープを切ったNHKテレビ画面の記録の表示は当初2時間4分55秒だったが、その記録表示の画面が2時間4分56秒に変わってしまったのである(NHKのTV画像の説明の右と中の写真参照)。たかが1秒の違いと言うなかれ。なぜ変わったのか、大いに不思議に感じたのに加えて、鈴木選手の大健闘に触発されて、今回の大会で好記録が続出した原因についてNHKのTV画像を見ながら考えた。

世界のマラソン界には2時間4分55秒の記録を出した人が1人、2時間4分56秒の選手は2人いる(注)。いずれもマラソン王国のケニアの選手だ。鈴木選手の日本新記録は前者の記録で世界57位の2人の内の1人になるのか、または後者の58位の3人の1人になるのかの違いになる。マラソンは1分1秒が勝負の過酷なレースだ。今回のレースでは、早くも15キロ地点でフィニッシュ予想として2時間4分55秒がTV画面に表示された(NHKのTV画像の説明の右の写真参照)が、その後はややペースが落ちて、30キロ周辺でのフィニッシュ予想が2時間5分台になっていた。ところが、36キロ地点の給水ポイントからスパートをかけて独走した鈴木選手は、ゴールまでさらにスピードを上げて日本新記録で優勝したのである。鈴木選手の、(一般参加で賞金なしでも)力強く走り切った、美しくもあり、かつ飄々とした雄姿が目に焼き付いて離れない。ゴールした鈴木選手の日本新記録は15キロ地点ですでに示唆されていたフィニッシュ予想タイムの2時間4分55秒と奇しくも同じであったのはマラソンの神様からのお告げがレース中盤ですでに開示されていたためなのであろうか。

NHKのTV画像の説明;(上)鈴木選手のゴールを示す黄色のLive時間は2時間4分55秒であった。 (中)Live時間は2時間4分55秒のままだが、赤字のFirstTimeが2時間4分56秒と表示された。(下)15キロ地点でフィニッシュ予想として2時間4分55秒がTV画面に表示された。

第76回びわ湖毎日マラソン大会の好記録と湖陸風

第76回びわ湖毎日マラソン大会でなぜ好記録が出たのかについてNHKのTV解説者の方々は「気温が低く、風が弱かったので、選手が走りやすかった」と言っていたが、なぜ「気温と風が幸いした」環境になったのか、そのそもそもの主因は、競技時間を日中から午前中に変えたことによる湖陸風(こりくふう)の影響であることを指摘した解説者はいなかったようだ。湖陸風とは、びわ湖のように大きな湖ならではの風で、気温が低い夜間や早朝はびわ湖より陸地が冷えるので、相対的に暖かい湖面からの上昇気流によって陸から湖へ、逆に昼間は陸地面が暖められるので、陸地や山地の上昇気流によって、湖から陸へ風が吹く局地的な大気循環による気象現象である。

今大会当日は比良山や比叡山から吹き降ろしてくる冬の季節風がなく、マラソンを応援する身にとっては楽なほど風が弱い状況で、びわ湖特有の湖陸風が発達しやすかった、と思われる。また、曇天で日射が少なかったので、気温上昇が抑えられたことも選手にとっては好条件になったようだ。NHKのTV中継でも繰り返しリポートしていたように、瀬田川沿いの当日の風は弱い南風で、陸から湖に向かって吹く湖陸風だったことを示している。びわ湖毎日マラソン大会の瀬田川沿いからびわ湖岸を経てゴールの皇子山陸上競技場への北に向かう復路のルートでは、湖陸風のため、午前中は追い風になるが、午後は向かい風になる可能性が高い。従って、一昨年までのびわ湖毎日マラソン大会は12時台にスタートしていたので、季節風がなくても、選手は気温の高い午後の復路で湖陸風の向かい風に苦しめられたが、今回は午前9時15分スタートで午前中のレースだったので、疲れがたまる復路の向かい風に苦しめられることがないとともに、逆に湖陸風による南からの追い風で選手を助けたといえる。長く続いた午後のスタート時間から午前中へのスタート時間の変更は昨年からであったが、昨年の気象は雨のため湖陸風は発生しないとともに、北からの向かい風2.4m/sで、選手にとっては過酷な条件だった。そのため、今回優勝した鈴木健吾選手は昨年のびわ湖毎日マラソン大会のコンディションには大いに苦しめられたと語っていた。

以上のように、従来の午後のレースを午前中に変え、湖陸風の気象条件を活かしたことが、「気温と風が幸いした」環境を作り出し、鈴木選手の日本新記録の2時間4分台の記録をはじめ日本歴代ベスト6に3人も入るとともに、2時間6分台が4人、2時間7分台が10人、2時間8分台が13人も出現するなど、瀬古利彦・日本陸連マラソン強化戦略プロジェクトリーダーが述べていたように「日本のマラソン界のレベルアップをもたらした」好結果に結びついた、と解釈できる。さらに付け加えると、NHKの富阪和男アナウンサーが紹介していたように、パラリンピック出場の永田務選手や18回出場の46歳の地元の下村悟選手たちが好記録を出したことに加えて、一般参加の選手が1位から3位までを占めるとともに、10位以内に6選手が入る中で、10位に入った川内優輝選手をはじめとした一般参加の選手たちの健闘も大いに称えたい。

夏場のマラソンになる東京オリンピックでは早朝のスタートが考慮されているように、「気温と風が幸いした」状況を作るには、地球温暖化が進行するこれからの各地の気象条件を考えると、従来の日中のマラソンは選手にとっては過酷すぎるので、今回のびわ湖毎日マラソン大会の午前中の競技によって好結果を生みだしたことを教訓として、日本でも一般的に行われている日中のマラソン競技の実施はすでに再考すべき時代になった、と考える。

 

最後とは残念

最後に、びわ湖毎日マラソン大会は、瀬田川沿いの自宅前の道路で応援できる毎春の楽しみな行事で、かつてはエチオピアのアベベ選手はじめ日本の宇佐美・宗兄弟・瀬古各有名選手などが参加してきたといわれる日本で一番歴史が長い由緒ある大会であるとともに、1973年の第28回大会のエピソードとしては、レース途中にびわ湖岸の畑で用を足したアメリカのショーター選手が優勝したこともあるなどのびわ湖らしい牧歌的で懐かしいマラソン・レースでもあった。NHKのTV解説者の高岡寿成・カネボウ陸上競技部監督が「これだけの記録を出したびわ湖毎日マラソンは継続してほしい」と述べていたのに強く賛同するとともに、由緒あるびわ湖毎日マラソン大会の歴史を消すことには納得ができないので、最後とは実に残念極まりない。来年からは、大気汚染の大阪大会になってしまう、というのだ。はたして、選手ファーストの変更だったのか、改めて疑う。日本の為政者たちは口では地方再生を唱えながら、びわ湖毎日マラソン大会という由緒ある地方のスポーツ資源を大都市が取り上げるとはなんとしたことか。今回の記録ラッシュでびわ湖毎日マラソン大会はこれからも日本のマラソン界の記憶に残ることであろう。さすれば、東京オリンピックの次のパリ大会を目指すという第76回びわ湖毎日マラソン大会の覇者となった鈴木健吾選手をはじめとして、今大会で活躍した多くの選手たちの今後に期待することしか地元の我々には残されていないのであろうか。

(注)

男子マラソン世界歴代記録 ※2020年12月6日日現在

(https://genkimanman.com/rekidaikiroku/menmarathon100.html)

順位 記録 名前 国名 大会名 大会日
57 2時間04分55秒 Paul TERGAT ケニア ベルリン 2003/09/28
58 2時間04分56秒 Sammy Kipchoge KORIR ケニア ベルリン 2003/09/28
58 2時間04分56秒 Jonathan Kiplimo MAIYO ケニア ドバイ 2012/02/27