AACH備忘録(6)-カイラス飛行-

ヒマラヤは谷が深いため隣の谷にはどんな氷河あるのかさえ分からないほど、1970年代のネパールの氷河分布には未知の部分が多かった。そこで、私たちの氷河調査隊では11回のマウンテン・フライトによる合計30時間ほどの航空写真撮影調査を行った。前回のAACH備忘録(5)-World’s Highest Ice Core-のクンブ氷河の最上流域のサウス・コル近くへのフライトもその一つで、今回はその中で最も長時間かかった聖山カイラス山近くまでの2日間におよんだ1978年11月15日~16日のマウンテン・フライト、カイラス飛行の報告である。

写真1 カイラス飛行のルート図

写真2 ポカラ飛行場のキャプテンのウィックさん

 

カイラス山はガンジス川とインダス川の分水嶺地域にあり、ネパール北西地域よりさらに北に位置し、カトマンズからは遠すぎて無給油での往復ができないので、まず前日にポカラで一泊した。翌日はネパール南西のインド国境近くのネパールガンジへまず飛び、そこで給油してから、1963年の安藤久男隊長のナラカンカール調査隊のキャラバンルートであるカルナリ川沿いに北上。そして、念願のカイラス詣でを果たし、帰路は再び給油のためネパールガンジへ立ち寄り、カトマンズにもどるルートだった(写真1)。全長約7百キロ、実際の全飛行時間は約6時間、撮影した写真は白黒が425枚、カラースライドが315枚、カラープリント35枚。同行した氷河調査隊員は樋口明生・安成哲三両氏で、パイロットは今回もピラタス・ポーターの飛行機会社からきているベテランのスイス人ウィックさんだった(写真2)

写真3 グルラマンダータ峰と背後のカイラス峰

写真4 カイラス峰とマナサロワール湖

   カルナリ川上流のシミコットを過ぎ、高度を上げ酸素マスクを使用した。さらに北上すると、チベット的な広大な谷地形になり、乾燥した景観に変る。西側に緩やかな尾根を広げるグルラマンダータ(ナムナニ、7,694m)峰南西の谷には、安藤隊の宮地隆二隊員が越境したため収監されたタクラコットがあるはずである。ジェットストリームがかなり強いとみえ、なかなか進まない感じで気をもんだが、さらに北上すると、グルラマンダータ峰越しにカイラス山が現れた(写真3)。飛行高度7,985m、気温マイナス23度。そして、ついに、聖湖マナサロワールの北に、憧れのカイラス山を拝むことができたのである(写真4)。カイラス山の中腹に分布する礫岩層といわれる水平な堆積構造もはっきりと認めることができた。

写真5 タクプ氷河

写真6 チベット型の氷河群

緩やかな地形が発達するネパール北西部の氷河は、急峻なヒマラヤ山脈南面のクンブ地域の岩砕に覆われたネパール型の黒い氷河とは異なり、表面を覆う岩石がほとんどない、緩やかなチベット型の白い氷河である(写真5と6)。ナラカンカール隊の渡辺興亜さんはネパール北西地域のタクプ氷河の調査を行ったので、その氷河上空も飛行した(写真5)

写真7 ヒマラヤ山脈の河川系

写真8 カイラス峰とマナサロワール・ラカス両湖

       

8,848mのエベレストは世界一高い山だが、地形的にはガンジス川流域内に位置する山、エベレストの次に高い8,611mのK2はインダス川流域の山であるが、カイラス山の標高は6,656mで高度が低いとはいえ、ヒマラヤ山脈の二大河川、ガンジスとインダスの源流部、分水嶺に位置する山であるので、地形学的な重要性からみると、エベレストやK2よりもヒマラヤ山脈の盟主にふさわしい(写真7)といえると思う。ヒンズー教と仏教の聖山、カイラス山の麓には聖湖といわれるマナサロワール湖やラカス湖があり、カイラス山は当然なことに宗教的にも、ヒマラヤの数あるHoly Mountainのなかの最高の Holy Mountainなのである(写真8)。念願のカイラス山に高度8千mのこのフライトでお目にかかれたのは実に幸いなことであった。

写真9 宮地家のお墓

写真10 亡き友人たちを悼むケルン

  1963年の調査時に越境して捕らえられた前述の宮地隆二さんはその後カイラス巡礼をはたし、2005年6月3日に亡くなられたが、7回忌のお参りに行った彼のお墓には神聖なカイラス山の姿が彫られていた(写真9)。法名は翠雲院長安大道居士。シルクロードを彷彿とさせる法名だ、と感じ入る。宮地先輩をはじめ同期の亡き瀬戸純、米道裕彌さんたちを悼むために、ネパールのポカラでお世話になっているネパール人の施設に、ケルンを建てさせてもらい(写真10)、機会をみては訪れている。(このケルンは、当初、2009年にマナスル峰西のツラギ氷河湖調査に参加した高橋昭好先輩と同期の石本恵生さんたちと共にマルシャンディ川上流のマナスル峰の近くに建てたが、遠隔地のため、訪れやすいポカラに移設したものである。)さらに、5年前の中央ネパール地質・氷河調査隊50周年で再会した同期の益田稔さんは車椅子姿だったが、口だけは達者で一安心していたが、その彼が2020年8月13日に亡くなったので、まずは哀悼の意をささげるとともに、彼の石碑も機会をみてこのケルンに加えねばならないだろう、と考えている。なお、そこには生存中の同期の石本恵生さんの石碑もあるが、生前供養のつもりで石碑を設置したいというのが彼の希望であったためであったが、そろそろ彼に見習って、先が近づいてきたぼく自身も生前に石碑を備えておくことにしたいと考え始めている今日この頃である。

とに角そのケルンからの眺めは実に素晴らしい。真正面にマチャプチャリ峰が鎮座し(写真10)、その東に目を向けるとマナスル三山までが、また西方ではダウラギリ峰までが見渡せるのである。

追記

石本惠生さんから5年前のカイラス周辺情報が寄せられましたので、追記1に添付するとともに、追記2は2020年8月18日に行われた益田稔さんの告別式の報告です。

(1)カイラス付近

2020/08/16 (日) 22:51
伏見さん
カイラス飛行の紹介ありがとう御座います。貴兄らがこのヒマラヤ山脈を撮影に行った話は私も名古屋にいたので聞いていましたが、私は既に当時豊橋でウナギの池の管理に携わっていたので何か遠いところの話と聞き流していました。その飛行機からの写真に関しては見る機会もありませんでした。
その後2015年9月にダンチャン、住吉さん、浜名くん、佐藤和秀くん、ガイドの貫田宗男氏らとチベット漫遊旅行に行った時、マナサロワール、カイラス周辺を周り、シミコットで1泊、そして宮地さんが越境した谷とか、彼を逮捕した村とか、身柄を拘束された国境警備隊やその監禁された牢獄がどの辺なのか嗅ぎ回利ましたがこの辺りというだけで特定は困難でした。事件のあった1963年頃から較べるとこの地域も相当近代化し、高級ホテルも完備し、市街も綺麗な中華風の店が立ち並び、街路樹が整備された街並みが広がり、中国本土と何ら変わらぬ近代的な国境の街になっていました。インドからの工業製品などの物資がたくさん並んでいて商業活動が活発に行われている感じでしたよ。アピやナンパ、サイパルが近くにあるので綺麗でしたね。できれば春の雪解けと新緑の頃に行きたいところですね。
石本惠生
ishimoto@oafic.co.jp

(2)益田稔さんの告別式 

 

写真11 法名は釋岳稔。

写真12 棺に向かって合唱。

益田稔さんが2020年8月13日に亡くなったことはすでにお伝えしましたが、8月18日に告別式が大阪であり参加してきましたので、報告します。彼の法名は釋岳稔(写真11)、喪主は長男の健太郎さんが務められました。式場には、山の会と関西支部の花輪がしつらえられ、参加者の焼香後の弔電の紹介では、石田隆雄さんが彼と共同事業を長年してきたことやヒマラヤでの調査活動などに感謝を述べていることが報告されました。AACHからは窪田開拓・川道武男・岡島伸浩さんたちが出席し、出棺にあたり、彼の棺に向かって「山の四季」と「Der gute Kamerad」を彼の奥さんや吉田勝さんの娘さんたちと一緒に合唱しました(写真12)。合掌!