ボーデン湖・バイカル湖紀行(2)

 

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バイカル湖は透明度が高く、湖岸景観は素晴らしい。

 

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バイカル湖の研究者たちの調査船に同乗した。

(1990年5月15日)
   メアーズブルクから氷河急行の広告が掛かるスイス側のコンスタンツ駅まで、タクシー・フェリー・タクシーと乗り継いで行く。チューリッヒ行きの汽車は、拡声器などによる何の放送・通告もなく、静かに出発した。緩やかなモレーン状の起伏を登る汽車からボーデン湖が最後の姿を見せる。モレーン地域には川が少ないようだ。表流水は地下に潜り込んでいるのか。小さな駅では、通学の小学生が元気良く飛び込んでくる。犬や虎、ペンギンのおもちゃを大事そうに抱えた子供が母親と乗り込んでくる。  ヴィンタートゥール周辺の河川は、スイス風の近自然工法が行われているようだ。小さな川では、石畳風の3面張りも見られた。  チューリッヒ駅は、空港の地下にある。駅から荷車を押しながら、エスカレターで上がって行けば、空港に入って行ける。検査もスムースで、実に便利な空港だ。飛行場のとなりには広大な麦畑が続く。山国スイスだけあって、空港にはピラタス・ポーター機がさすがに多い。  期待していたアルプスの姿は、今回まだ見ていない。離陸すると、チューリッヒ湖が遠望できるが、アルプスは積雲に隠されていた。蛇行するライン川周辺の基本的土地利用パターンは、濃い緑の森と麦畑、黄色いカラシナ畑、淡い緑の牧草地、そしてこげ茶色の耕作地で、緩やかなドラムリン地形の起伏に沿って緑と黄色と茶色の長方形のモザイク模様が展開する。川岸近くに町や村が点在し、その廻りを麦、牧草、カラシナ畑が取り囲み、川から離れた高地に森林が残されている。  フランクフルト空港上空で10分間の着陸待。マイン川沿いには池が多い。空港周辺にはかなり広大な森がある。ボーデン湖の会議で偶然知り合ったラルフ氏と、ライン川とマイン川の合流点の森のレストランで、梢でさえずるナイチンゲールの声を聞きながら黒パンでワインを飲んでいる時、「すばらしい森があっていいね」と言うと、「これは森ではない、公園だ」とラルフは言う。空からみても、かなりの森が広がっているように見えるのだが。ドイツ人の「森」の概念はスケールが大きいようだ。ぼくらの森の概念は、彼らにとっては林なのかもしれぬ。 ライン川の河岸は50cm程の角礫を使った礫河岸だ。ひっきりなしに運搬船が通る。石炭を運んでいる船が多いようだ。下草の中からトゲのないイラクサのような草を見つけてきたラルフは「ビタミンが多いんだ」と言って、葉をもみながら食べはじめた。ネパールのトゲのあるイラクサの天ぷらもうまかったが、ドイツのイラクサもなかなかいける。麦畑が広がる。そして、「森」だ。自然に恵まれている。マインツはグーテンベルヒの町だ。市公会堂裏の駐車場の車の影へ隠れに行ったラルフのガールフレンド行為も自然なものにに違いない。そのときラルフは、(She needs a quiet place.)とこともなげに言う。そもそも、フランクフルトのホテルからラルフに電話すると、「フランクフルトはよく知らないから、僕の町マインツに来てくれ」と言って、高速道路を30分ほど飛ばして、彼と友達のクリスティーンは迎えにきてくれた。おかげで、マインツの「森」を体験することができたし、三越デパートの広告のあるフランクフルトの町は見ずにすんだ。彼はコニカの全自動小型カメラを持ち、彼女はホンダに乗る。

(5月16日)
ホテルから空港までの高速道路沿いには広大な松林がつづく。比較的まっすぐで、背の高い赤松だ。フランクフルト空港はさすがに大きい。ルフトハンザのカウンターの面積だけでも大阪空港の全カウンターに匹敵するのではないか。人がひっきりなしに出入りする。飛行機の発着もラッシュのようで、つぎつぎと発着便や到着便のアナウンスがある。場内の飛行機数もかなりのものだ。来るときにフランクフルト着陸前に,上空で長いこと待たされた訳が、これで分かった。

 モスクワまでの飛行時間は2時間45分、モスクワの天候は雷雨だという。離陸後1時間(ポーランドの上空に達しただろうか)、飛行機は発達する積雲や層積雲地帯の上を飛びつづける。雲間に見える東欧からソ連にかけての土地利用は、森の緑と茶色の耕地、芝生のように見える淡い緑の畑が大部分で、その中を直線的な道路が伸びている。茶色の耕地からはやがて麦が育つのか、ドイツで見られたような濃い緑の麦畑はまだなのだろう。また、ドイツなどのようなカラシナの黄色い花の咲く耕地も見あたらぬ。耕地の形は、ドイツでは直線で囲まれた長方形が多かったが、自然の地形に規制された不定形が多い。川も自然に任せて蛇行しているように見える。

 モスクワの飛行場のまわりには、湖や池が多い。ヨットや観光船のような船があるので、リゾート地なのだろう。モスクワ周辺の町には、工場の煙突が林立し、かなりの煙を吹き上げている。空港は節電のため暗い。床はラパキビ花崗岩のようだ。係官の入念な人物検査、頭上の鏡で、体の後面もチェックしている。1ルーブルで、荷車を貸してくれるが、外貨ではダメだという。銀行はないので、外人がルーブルをもっている可能性はまずないであろう。見ていると、ケントのタバコ1箱を渡す奴がいた。荷車の係は、さも当然と言った顔つきでそれを受け取った。

 通関が済むと、タクシーの呼び込みだ。インツーリストの手配してくれたドライバーはゴルバチョフ大統領を1廻り小さくしたような男だった。車はオンボロで、ボディーは泥で汚れている。なんだか、ネパールにもありそうな車だ。片側3車線のガタガタ舗装を、追い抜きの警笛を豪快に鳴らしながら、80ー100kmでとばす。白樺林の中の直線的な道を「そこのけそこのけ御馬が通る」のようにして走る。満開のタンポポにライラックの花。北海道の開拓部落のような村が点在する。ナシのような木に花が咲き始めている。

 インツーリストのホテルは赤の広場に近い。ホテル前はかなりの人通りだ。アイスクリーム屋やハンバーグ屋さんの行列。酔っぱらいがぶらつく。インツリスト・ホテルの夜の部では、NUDEまがいの出し物があり、外人観光客が乗りにのる。これもペレストロイカなのか。受付付近には(What do you want?)と聞いてくるProstituteがいる。May I use a telephone?と言って部屋に入ってきて、Eine Hundertと言うお嬢さんもいる。マルクかドルか知らないが、まさか連中が公務員と言うことはないだろう。ゴルバチョフもさぞかし大変なことだろう。空港近くの開拓農家的たたずまいとこことはなんと大きな違いがあることだろう。インツーリストは別世界だ。

(5月17日)
   モスクワ1日滞在。ホテルのすぐ近くのボリショイ劇場やマルクス像を通りモスクワ川へでる。モスクワ川は、いかにも泥の多そうな、灰色の川だ。遊覧船が通り、カモメが飛ぶ。モスクワ川沿いには化学薬品工場をはじめかなり大規模な工場があり、水質汚染が問題になっているが、規模が大きいのでなかなか移転もできないとの事だ。川岸では釣り人もいるが、大丈夫かな。

 この時期のモスクワの天気は晴れたり、雨が降ったりと、目まぐるしく変わる。雨の降り方もどしゃ降りの感じで、しゅう雨に近い。通りには、一見して中央アジアから出てきたことがわかる数人の子供達が物乞をしている。頭には山伏が被るような回教徒の小さな帽子をかぶり、足は泥んこの素足だ。また、ある街角には老女と孫と思われる物乞がうずくまっていた。

 バス・ツアーでモスクワ見物に出かける。トルストイ像のある公園やフルシチョフの墓もあるというロシア教会風墓地など、モスクワの町には緑が多い。白と紫のライラック、タンポポが満開だ。モスクワ大学の背の高い建物は、折れ線グラフの背の高いピークのようだ。このような高層建築は、スターリン式のスカイ・スクレーパー(摩天楼)と言われ、モスクワの町にはいくつか見られる。北京にも、モスクワ大学と同じ様なデザインの建物(たしか軍事博物館だったか)がある。

 モスクワ最後の夜、ふたたびマルクス像から赤の広場方面へ散歩する。マルクス像は10mほどもある巨大な花崗岩の石像である。赤いバラが2束ささげられていたが、付近には人影がない。暗い照明の中で、マルクスはボリショイ劇場の方を眺めていた。マルクス像と赤の広場の中間ほどに位置する暗い街角で警察官2人と若者2人が口論していた。若者は、ジーパン姿に長髪、学生だろうか。ともに、大声で罵りあっている。若者の1人が警察官に組み倒された。1人の若者が止めに入る。倒されていた若者は立ち上がり、再び警察官に食く。警察官の帽子がふっ飛ぶ。警官の攻撃はさらに激しくなり、若者は倒されたまま身じろぎしなくなった。すると警官は、呼び笛を吹きながら、他の警官を呼ぶかのように、その場を離れて行った。その場に残された1人の若者が倒された若者を介抱する。その場を離れた警察官は、再び戻ってこなかった。やがて、若者は立ち上がり、2人は肩を組んでゆっくりと歩きはじめた。何が彼らを闘わせたのだろうか。警官は、なぜ、呼び笛を吹きながらも、途中で引き下がったか。赤の広場へ向かう地下道にはたくさんの人たちがいた。地下道の柱の影にはロシア語で話しかけて来る夜の女もいた。このような現実を、巨大な花崗岩のマルクス像はどのように見ているのだろうか。暗い照明のなかで、マルクスの顔は混迷の度を深めているかのようだった。

 モスクワのテレビ放送の1つは、常時、会議中の議会を写していた。グラスノスチなのだろう。議事が次々と投票にかけられ、その結果が刻々と投票版に数字で示される。立派な口髭をたくわえたラマ教徒が議場で発言をする場面もあった。広いソ連にはラマ教徒もいるのか。他のテレビ放送では家庭向きの番組を流している。ニュースなどは手話付きで、ニュースの画面よりも手話の人の方を大きく写している。なかなか考えたやり方だ。ニュースにはゴルバチョフがよく登場する。ゴルバチョフの宣伝臭が強く、人々との対談では、彼は1を聞いて10話す。ヨーロッパのニュースが多い。ちょうど、アメリカのベーカー国務長官がきていたので、ソ連とアメリカ関係のものも多い。日本のニュースはみなかった。

(5月18日)
   早朝のイルクーツク便に乗るため、そうそうに食堂に行くも、朝食の列がすでにできていた。どこでも行列のようだ。モスクワのインツーリスト・ホテルの朝食はヴァイキング・スタイルだ。水が自由に飲めないモスクワでは、喉が乾くので、まずジュースを探す。パンとソーセージで腹ごなしをすばやくすませ、残りをいざという時の備えのサンドイッチにする。

 インツーリストのおんぼろタクシーでモスクワの町を外れる。郊外には、白樺や赤松、タンネのような木などの広大な林がつづく。白樺の木が多い。赤松とタンネの取り合わせはドイツと似ているようだ。タクシーで約1時間、飛行場の待合室へ直行する。外人の扱いなのだろう。外人扱いの人は僕の外に3人。モンゴル人の夫婦、モンゴロイド系の若者と僕だ。

 X線検査の係官はかなり入念だった。カメラと望遠レンズ、酒の入ったリックを、やり直せと言ったようだ。どうも危険物ととったらしい。もう1度はじめの位置にもどすと、検査官は入口の婦人に向かって無愛想に何か言っている。すると、婦人が近づいてきてリックを立ててくれた。ふたたび彼は、テレビ画面を入念にチェック。横からのぞくと、酒瓶がまる見えだ。やっと、OKがでる。

 外人扱いの4人は女性係官に先導されて機内にはいると、すでに大方の席はソ連の人に占められてた。窓側の席で空いているのは、最前列左の窓側の席しかなかったが、それはイルクーツクの政治家のものだという。残念だが、通路側の席しか当たらなかった。ソ連では、外人扱いにされると、機内にはいるのが最後になるので、イルクーツクの政治家クラスでないと、窓側の席は取れない。外人には、窓から外を見せたくないのかと勘ぐりたくなる。隣の人に聞くと、写真はダメだと言う。彼は実に流暢なアメリカ英語を話す。30代なかばのヅィールゲ氏。最初、ゾルゲに聞こえたので、念のためそう言うと、彼は、とんでもないというような顔をし、「俺はスパイじゃないよ」と真顔で打ち消した。彼は、日本人のプロジェクトにも英語の通訳として加わったそうだ。片言の日本語も話す。その彼が僕のとなりにいるのは、単なる偶然だろうか。

 最後の最後にイルクーツクの政治家が席に着いて、やっと、離陸した。隣の彼はバイカル生態学博物館のあるリストビアンカ生まれとのこと。彼は何度もモスクワ-イルクーツク間を飛んでいるというので、イルクツクまでの飛行ルートを彼に聞くと、オムスク経由だと言う。地図を渡すと、オムスクに丸印をつけてくれたが、飛行ルートの線は僕に引けと言う。ほぼ直線的に飛ぶのだから、モスクワ-オムスク-イルクーツクを線で結ぶのは簡単なはずなのだが。どうも、外人に飛行ルートを書いて教えるのをためらっているようだ。

 ソ連の人たちは実によく新聞を読む。今のソ連の政治情勢がそうさせているのか、それとも昔からなのか。隣の彼は窓側の人から新聞を借りて読んでいる。前方のトイレがあまりきれいでないので、座席まで臭う。だが、その中で、前の座席の男はサケ科の魚の薫製を豪快に食べている。ソ連の人はトイレの臭いをあまり気にしていないようだ。ソ連の飛行機内では全席禁煙とのことで、トイレの臭いにタバコの煙がプラスされることはなかったが、ヅィールゲ氏にはタバコが吸えないことの方が辛いらしい。

 モスクワから2時間48分でオムスクに着く。オビ川の支流イルケーシュ(イルティシュ?)の流域にはたくさんの煙突が林立する工場群が見えた。原発のような太い煙突も2本立っている。気温は22度。半砂漠的風景の中を暖かい風がペンペン草などの飛行場の草原を吹きわたる。われわれ外人組とヅィールゲ氏は、例のごとく女性係官に連れられてティールームへ。ヅィールゲ氏も臨時?係官になったようだ。ここまでくると、待合室に中央アジア的な顔立ちが増える。回教徒らしい人も多い。

 オムスクからの搭乗はわれわれ外人組が1番最初だった。モスクワで最初にしてくれればよかったのに。ほぼ全員がイルクーツクへ行くようだ。1時間半休息し、黒色と緑色の耕地を後にする。黒色の耕地は耕したばかりの黒土で、緑の畑は小麦の色だ。所々に針葉樹的な林も見える。

 イルクーツクの政治家の上あたりの棚から水がしたたり出した。それを見たヅィールゲ氏「水は落ちるべきところを知っているようだ。中央から地方都市に派遣されて来る政治家にはよくない人もいるんだ。選挙で選ぶ必要がある」と言う。

 イルクーツクの時間は日本時間と同じだという。地図でみると、1時間の時差の距離ほど、イルクーツクのほうが日本より西にあるが、夏時間を使っているため、日本時間と同じになるのだろう。モスクワ時間から5時間の時差がある。東西に長い国だ。飛行機上からみる日没はイルクーツク時間の午後10時35分と遅いのは、北緯50度より北にあるため、白夜圏内に近いからだ。日没の方向も、東に向かう飛行機の進行方向の左手、かなり北よりの北西方向だ。進行方向右手のバイカル湖南西に、サイヤネ連山がかすかに見えた。中腹から上が雪で白い。カール地形が残っている。日高的な山だ。飛行ルートの地図に3491mの高度が記されている。ヅィールゲ氏に聞くと、大きくはないが、氷河があるという。日没と着陸体制に入った飛行機が高度を落とすので、外が急速に暗くなる。

 日没から25分、オムスク離陸後2時間31分で、大きなダムに町の光がうつるイルクーツクに着く。ダムはバイカルから流出するアンガラ川の発電用ダムだと言う。気温8度、肌寒い。待合室にはスチームが通っていた。モンゴル人夫婦は明日の便で帰国すると言って、待合室を離れて行ったが、モンゴロイド系の若者はとみると、彼は出迎えの4人の女性に囲まれているではないか。みな同じ様なヤクート的な顔つきをしている。どうも地元の小数民族の人らしい。とすると、小数民族の人には外人並に気を使っているのかもしれない。

 空港の待合室でしばらく待っていると、バイカル生態学博物館のクロメシュキン・ヴァレリ博士と通訳のマリーナ・ファーマン女史が迎えにきてくれた。ここで、ヅィールゲ氏と分かれ、博物館のジープでホテルに向かう。ヴァレリ氏は電気伝導度を研究するもの静かなタイプの人だ。マリーナ女史は10年前に船で日本旅行をしたという、背は高くないが横幅の広い典型的なロシア女性といった感じだ。飛行場から町への暗い道の両側には、白樺とポプラの並木が植えられている。道が泥っぽいのと白樺とポプラの並木を見ると、札幌の4月を思い出した。

 ホテルに着くと、マリーナさんは「今日は金をもってきていないが、滞在費は持つ」と言う。アンガラ川沿いのホテルには、ドイツ人の旅行客が多かった。ソ連へのドイツ人の力のいれようは、ルフトハンザのモスクワ便1番乗りを始め、かなりのものだ。かなりのソ連人はドイツ語を話すようだ。食堂はすでに閉まっていたので、パブに行くとドイツ人のグループが歓声を上げている。ビールもドイツ製のレーベン・ブラウだ。アメリカ・ドルで2ドル。金は外貨しか使えない。酒のつまみ用の小さなイクラの缶詰の値段を朝鮮系のバーテンに聞くと、15.5ドルだと言う。2300円ほどとは高いので、手が出ない。夕食にありつけなかったので、モスクワでの朝食の残りのサンドをつまみながら、ビールとウィスキーを飲む。8階のホテルの窓からは、アンガラ川周辺の夜景が見渡せる。点在する電球の光が川面に映える。裸電球の赤い光が波間に点滅する。まだ見ぬバイカル湖に想いをはせながら、夜の水面を見つめる。バイカル湖からの水だから、きっと、きれいなことだろう。

(5月19日)
アンガラ川沿いの散歩がてら、水草採集をする。カナダモ、フサモ、エビモ的な水草が打ち上げられていた。5mmほどの甲殻類もいる。午前中は博物館を見学する。ブリヤートなどの先住民族からガラジィー・ラスプーチン両氏などの活動にふれている現代までが陳列されているので、歴史博物館のようだ。写真を取ってもよいかと館員に聞くと、3.5ルーブルだという。ガラジィーさんたちのコーナーだけだというと、見過ごしてくれた。おまけに、大きなバイカル湖の衛星写真の前でポーズまで取ってくれた。案外、堅くないな。博物館の後は、ロシア料理のフル・コース。もちろん、ウォットカつき。いよいよ夕方になって、バイカルに向かう。

20:35 出発、ポプラ並木にまじり唐松あり。クロス・リービンスカヤ教会に乞食数名。無名戦死の墓での若者の整列行進(全国的行事)
20:45(イルクーツクからの距離、11km)アンガラ・ダム発電所、アパート群
20:50 白樺の純林地帯
20:52(18km)赤松(タンネ的)が白樺よりも多くなる。河床付近には小さな白樺が生え、松へ移行するのか?
20:59(27km)ダムの一部のマーシュに白樺林
21:02 白樺と赤松にわずかに唐松が混じる。対向車多し。煙の凄い車あり
21:04(33km)
21:09(38km)村と湖(ラストビアンカまで33km)
21:15(48km)+白樺的なオード色のはだの木(葉はまだでていない)
21:18(50km)川と湖、部落。白樺や松、柳の新芽
21:22(57km)大きな村(町)と湖。川の魚釣り
21:30(68km)大湖、バイカル湖。湖岸に村が点在。対岸の岩山、シャーマン・ストーム?。
21:32(70km)博物館・研究所
21:35(71km)インツーリスト・ホテル

 今晩も晩飯にありつけず。しかし、何はなくても、水がうまい。バイカルの水道水は、コップに入れると、はじめは白濁した小さな泡が多いが、1分半ほどすると泡が消え、澄んだ水になる。チューリッヒ湖以来の旨い水だ。

 ヴァレリ氏とともにガラジー館長の息子のセルゲー氏も残ってくれるという。ジープに興味を持つ彼は大人風で、英語がつまると、「カカター」を連発する。彼は1980年12月に、冬に夏の体験をする冬ー夏クルーズでフィリピンまで行ったとのこと。

(5月20日)
7時半起床。快晴、3.5℃、かなり冷え込んでいる。食事まで付近を散歩する。白樺と松の森の下ばえのツツジが満開に近い。アネモネ的な草花やチングルマのような高山植物的な花も咲いている。松の木が何本も北に向かって倒れている。松の木の根の深さは50cm程度しかない。風に対して、白樺よりも弱いようだ。松の木を倒した大風は5月16日に吹いたそうだ。その原因は山火事らしい。その時、空が日食のように暗くなり、突風が起こったとのことだ。

 ポプラ Populus traemula asp.
  唐松  リストビアンカ・リーストビニツァー
 五葉松 Pinus daurica
 ツツジ ローランド・ロン・ダウリカ(ボーグルニック)

 湖岸に出る。透明感のある湖水だ。湖岸から10m以上もはなれた湖底がはっきりと見える。湖岸には漂流物がほとんど打ち上げられていない。花崗岩や片麻岩、堆積岩のきれいな礫浜だ。例外は、ロープの切れ端にフサモ的な水草が着いている。バイカル湖の水があまりにも澄んでいるので、アザラシを初めとする豊富な生物が住んでいるとは信じがたい感じがする。湖がきれいなだけに、ただ1箇所、(朽ち果てた)工場が残されており、(今は使っていないと思われるが、)排水管が湖に通じている光景は、心が痛む。湖岸沿いの芝生の段丘上には、地面からの背の高さが2ー3cmしかないタンポポが一面に咲いている。バイカル湖のタンポポは年に春・夏・秋の3回咲き、季節が進むほど背が高くなるのだそうだ。

 インツーリストのホテルの近くに「バイカル東京レストラン」がある。ヴァレリ・セルゲ・マリーナさんたちがそこでご馳走してくれるという。玄関には鯉のぼりが泳いでいた。料理は鳥の唐揚げにハンバーグ、ニンジンとダイコンの千切り、マッシュポテトにキャベツの漬物が漆塗の重箱に入っている。和服をきたソ連の女性がウェイトレスだ。ソ連人のお客さんは、コンブの味噌汁を飲みながら、重箱料理を、フォークとナイフで切りながら食べている。

 リストビアンカの裏山の展望台にいく。この展望台への簡易舗装の車道は、61年のフルシチョフ時代、アイゼンハワーが来るというので小屋とともに作ったとのことだ。小屋は、サナトリウムとして使われており、現在はアフガニスタンからの帰還兵の療養所になっているとのことだ。展望台からは、アンガラ川対岸のバイカルや遠くに悪名高きパルプ工場の煙がうっすらと見える。このあたりもツツジの満開で、おみくじを木にしばるようなやり方で、たくさんの白い布切れが木にしばりつけられている。それぞれにバイカルへの願いごとがこめられているのだろう。頂上には、カリ長石の班晶をふくむ露頭があり、夕焼けの中で、その岩の上には2組の人々が座り、じっとバイカル湖を眺めていた。リストビアンカの村の方から、犬の鳴き声が風にのって聞こえてくる。

 日没後のほの暗い中をホテルに戻る。ホテルの食堂はすでに終了していた。ソ連のホテルは商売っきがないから、はやく店終いをする。イルクーツク到着以来、夕食にありついていないので、ヴァレリ・セルゲ両氏が夕食をもってきてくれた。黒パンと魚の缶づめ、赤かぶ、にら。それに、なつかしい、アイヌネギだ。にらもアイヌネギも生でそのまま食べる。かなり強烈だが、ビタミンCを取るにはもってこいに違いない。最後のシーバス・リーガルを空けると、彼ら持参のシベリア・ウォットカを飲む。実験用アルコールの1/2水割りだ。日本の人種問題(アイヌ・朝鮮人)やアメリカとの経済問題、ソ連との領土問題、ソ連のアゼルバイジャン・アルメニア・バルト3国の問題などかたい話題を肴に、夜半まで飲む。ホテルはとっくに閉まっていたが、彼らは門番を起こすこともせずに、窓のベランダから飛び降り、帰って行った。

(5月21日)

8時に目覚しで起きるが、昨夜のお茶が効きすぎて、あまり眠れなかったようだ。外に出て、ひんやりとした北風で頭を冷やす。曇天だが、視程は悪くない。対岸の山々が見える。双眼鏡でみると、2段のカール群が見える。日高的な山だ。バイカル湖周辺の最高峰は、湖南西のモンコー・サルディック峰(3491m)で、万年雪があるという。屋上の風陰になる片隅で、少女が1人、バイカル湖をじっと眺めている。今日は、バイカル北方への船旅だ。

 8時半からという朝食に、8時50分に行くも、まだ誰もきていない。お茶の用意もまだだ。店の人もそうだが、お客も、どっちものんびりしている。パン、バター、ジュース、ソーセージで簡単に済まし、博物館下の波止場に向かう。水が澄んでいる。バイカル湖の透明度は、プランクトンの少ない寒気だと40m程もあるという。波止場周辺には、片麻岩や礫岩、ピンク色をした長石の多い花崗岩などの礫がみられる。バイカル造山運動を示す岩石なのだろう。

 小雨が降り出す中を、出航する。日本のより1廻り大きいカモメがゆっくりと飛んでいる。口はしが黄色で、体は白、羽の先が黒いが、体に近い部分は灰色だ。はるか南方のバイカルスキーのパルプ工場の煙がかすかに見える。リストビヤンカ北方の山々の植生分布を見ていると、松と白樺が住み分けているようだ。松は尾根と南面に多く、白樺は谷や山腹、北面に多い。松は比較的乾いた土地を好むのだろう。かなり大きな船がすれちがって行く。生物学用の調査船で、カジョフ(Kojov) 教授の名前を船名にしているとのこと。

 バイカル湖の漁場は主に北部で、そのなかで西岸のコティルニコルスキーや東岸のハクスイ、ダフシェ、ヅィマィイーナヤーでは温泉があるとのこと。なお、ヅィマィイーナヤーにはチョウザメをはじめ魚が多く、漁師が住んでおり、ここには5ー60cmの蛇もいるとのことだ。

 1時間ほどで、ボルシェーユェ・コティに着く。ここには、生物学の実験施設があり、学生が夏休みに実習に来るとのこと。墓地には、セルゲさんの同級生で、調査中になくなった人(マキスマフさん)も葬られている。しだいに空が明るくなる中を帰路に着く。

 午後はガラジィー館長との面談である。館長は「オーチン・ハラショウ」(大変よろしい)を連発する大声の、いかにもソ連の官僚といった感じの人だ。体挌がどっしりとしていて、故ブレジネフ書記長に似ている。横顔はアメリカのかっての外交官キッシンジャーにも似る。ガラジィー館長の話は以下のような内容であった。

 「生態学博物館の主な研究内容はバイカル湖周辺の地史、動植物(2/3は固有種)、浄化作用、生物への日射の影響、化学成分(300の流入河川は成分が異なっている)、鉱物。パルプ工場からの排水は日量約40万トン。200ー250mまでの風による混合(年4回、場所により風向が違う、長期観測が必要)。7ー8月は表層の水温高く、成層する。東岸のセレンガー川が流入している部分は、農業排水とモンゴリアからの負荷で、富栄養化している。氷の構造、バイカルの気象、植生分布、森林・雨の河川水質への影響、2000ー2500万年の堆積物(5ー6000mの厚さ、表層10ー12mの調査しかない)」

 「測器開発のための情報交換をしたい。ヴァレリ氏が開発した粒度、種類、水質の自動測器と前田さんが使っていた酸素、水温、有機物等の測器と結合したい。ILECの計画にする可能性はあるか。前田さんなどと情報交換をしながら、当面は、測器の改良をしていきたい。」

 文献のコピーを依頼すると、ブザーで係の人を呼ぼうとするが、休みのため後日とのこと、カスト制か。インツーリストもカスト的な係に分かれている。例えば、鍵、パスポート、配車、両替、案内、キャッシャーなど同じカウンターに座っていながら相互の連絡が悪い。民主集中?縦割り官僚主義的。

 結局、共同研究の話はでなかった。共同研究については、1桁規模の大きい陸水研究所との情報交換が必要になろうが、琵琶湖とバイカル湖とでは湖の性格がかなり違うので、研究者相互の認識を深めることが重要だ。ガラジィーさんは測器の共同開発を強調し、前田さんとの情報交換を希望した。また彼は、バイカル運動(ラスプーチンさんたちとの月刊新聞が数日前にできたとのこと、「運動」のことを通訳は「Funds]と言ったが)については言及したが、国際研究センターについては述べなかった。

 ガラジィー館長室のとなり1階の半分ほどのスペースが博物館になっている。琵琶湖研究所の研究室ぐらいの大きさだから、こじんまりした博物館だ。大きな横エビ標本があった。7cmほどもある。湖底に住む種類で、1410mの湖底写真にも写っている。バイカル・アザラシや約1mほどのチョウザメもいる。アザラシは7ー10万匹いるとのこと。湖氷は中央部東岸が110cmと厚く、南部が70cmと薄い。岩石氷河の写真も飾ってある。

(5月22日)

春がすみの中に、対岸の山ハマールダバンがうっすらとみえる。今日も良い天気だ。9時に出発と言うので、博物館の下の波止場に行くと、チャーターしている船はすでに出発の準備ができているようだが、ヴァレリとセルゲがまだ来ない。小さな船がバイカル方面からやってきた。ウィンチを積んでいる。観測船のようだ。波止場の2そうの船が澄みきったバイカルの湖水に影を落としている。波のないバイカル湖ののどかさに、観光客の楽しげな声が吸い込まれていく。

 今日の船旅はリストビアンカ南部のエクスカーションだ。出発直前に3人の若者が乗り込んできた。カザンとノーボシビリスクの大学の化学者でイルクーツクの研修の余暇にバイカル湖見物にきたという。単なる見物ではなく、みなさんサンプル・ビン持参で、バイカルの湖水採集にきたそうだ。とは言う僕も、ウィスキーの大瓶を空にしてもってきたのだが。

 リストビアンカから1時間半南下すると、北斜面に林が分布するケスタ地形が卓越するようになる。南斜面は急な崖である。南斜面が急な崖で植生が乏しいのは、融解再凍結のため土壌条件が不安定のためか。ケスタ地形と植生分布が湖面に映ると、「く」の字形の像ができる。湖岸に沿っては、バイカルからの鉄道が伸びる。日露戦争当時にできた古い鉄道だ。礫浜が発達する湖岸に船を乗り上げ、少し歩いて林を見ることになった。白樺を主とする林の林床には、日本の高山植物のような花に混ざって、エビネのような葉の植物もある。赤茶色に黒い斑点のテントウムシ、モンシロチョウやクジャクチョウ、日高でみまわれたようなダニもいる。これは、北海道の生態系ににている。バイカル湖の東岸の山々には残雪がかかり、礫湖岸に腰をかけ、カール地形の残る雪の山々を見ていると、日高の春景色のようだ。湖岸には、ゴミひとつ落ちていない。湖岸には、花崗岩や堆積岩の円礫が多い。真っ白い大理石の円礫もある。20cmほどの大きめの礫をひっくり返してみると、驚いたことに、ピンクの横エビがとびでてきた。大きい。6cmほどもある。博物館で見た標本ににている。普通は深いところにいるというのに、セルゲさんも首をかしげている。1cmほどの黒い小さいのもいる。水はきれいで、貧栄養に見えるが、生物はかなり豊富なようだ。こうでなければ、アザラシを頂点とする生態系は成り立たないだろう。飛び入りの女性科学者がピクニック・ランチを作ってくれた。歌がでる。「豊かなるザ・バイカル」の歌は、日本ではゆっくりとしみじみと唱うものだが、彼らはかなり元気そうに、快適なテンポで、ほがらかに唱うのだった。リストビアンカへの帰りには、船を沖合いに止めてもらい、バイカルの湖水をみなで記念に採集する。

(5月23日)
   昨夜は遅かったのに、朝の5時、ヴァレリ、セルゲ、マリーナが見送りにきてくれる。イルクーツクの町には、赤レンガのアパートが多い。早朝の町をだいだい色のチョッキを着た人々が竹箒で通りを掃除している。チョッキがなければ、中国のようだ。この人海戦術とも思える清掃作戦は、もともと、ソ連式なのか、中国式なのか。レーニン広場なのだろうか、大きなレーニンの銅像が建っているが、イルクーツクではこの像の撤去について、現在議論中との事だ。飛行場で、ヒマラヤのシェルパが作るような白チーズをごちそうになり、白樺の容器に入った松の実(シーダーと言っていたが)いただく。「 You  must  come back.」

 飛行機はいったん動きだしたが、数分でエンジンが止まってしまった。大丈夫かな。が、数分後、再び動き出し、離陸すると、バイカル湖が見えてきた。窓側のソ連の人が「バイカル」と言うなり、あかず眺めている。リストビァンカの北を飛んでいるようだ。バイカル湖西岸の山々はゆるい地形で、野焼きでもしているのだろうか、煙が西にたなびいている。ゆるい山々の東側の稜線沿いに雪屁がわずかに残る。バイカル湖の東側もゆるやかな山並がつづくが、西側よりも雪が多い。バイカル湖からの蒸発が効いているのだろうか。バイカル湖周辺では、暖候期のほうが寒候期よりも気流が不安定のため飛行機事故が多いという。寒候期の冬は凍るからバイカル湖水の影響はなくなるが、広大な水面が出る暖候期にはバイカル湖の気象に与える影響が大きくなるのだろう。

 離陸1時間後、おおきく右旋回する。進行方向右側の大興安嶺辺りは雲海に覆われている。ゆるやかな谷の中に隣接した2つの湖が見える。左側の窓に見える山には雪が見えなくなる。山が低くなってきたのだろう。川の蛇行が著しくなる。山間部の川の所々が白いのは凍結した氷か。離陸2時間半後、泥色の大きな黒い河が見えた。あれがアムール河か。橋が掛かっている。ゆるく蛇行する本流周辺には三日月湖や湿地が分布する。ところどころに耕作地が見える。耕した畑の土や麦と思われる緑の畑が展開するようになると、やがて町があrわれる。河はますます大きくなり、中州が発達する。離陸後3時間4分、着陸体制に入り、川岸の塔や墓地のあるハバロフスクの町を左手にみて、着陸。機外に出ると、女性の係官がきて、一人だけバスに乗り、待合室に連れていかれる。「誰かが迎えにきているか。」「No]「バウチャーはもっているか。」「Yes」愛想のない会話。後は、インツーリストの車で送ってくれるだろう。

 待合室には英語のモスコー・ニュース(5/27-6/23)やNeue Zeit(5/7-13)が置いてある。そんなに古くない。英語やドイツ語の影響が強い。特にドイツ語がソ連でハバを効かせているのには感心する。ドイツ統合を目指すドイツ人の関心の高さが関係しているに違いない。飛行場で聞く英語のアナウンスはフランクフルト以来だ。空港から町への道路沿いには片側づつ2列のポプラがびっしりと植えられている。中国のポプラ並木のようだ。4ー5階建てのアパート1階部分のベランダには鉄格子がはめられている。安全対策にぬかりないといったところか。

 アムール河には行きかう船が実に多い。水上輸送が重要なのだろう。魚釣りの大人は太い糸を使っているところを見ると、かなりの大物を狙っているのだろう。しかし、子供達は細い糸で、8cmほどのボテジャコやスズキ的な魚、ナマズを釣っていた。雄大なアムール河の水平線に夕日が沈む。大陸的な眺めだ。

 (ドイツ人のロシア進出は相当なものだ。ルフトハンザの航空路網拡張に乗って、ドイツ人のおじいさん・おばあさんグループさえがシベリアまでも進出している。ホテルのビールはレーベン・ブラウだ。ドイツ・ロシア関係は経済関係だけでなく、東ドイツ併合などの政治問題も抱えており、ドイツはそこをうまく立ち回っているようだ。いっぽう、日本はどうか。イルクーツクには金沢通りがある。日本人のビジネスマンがハバロフスクにはたくさんいる。バイカル湖に東京レストランがあるとはいえ、日本の影響力はまだまだ小さい。ハバロフスクで会った日本人の旅行グループはタシュケントへの旅行許可が下りないので4日も待ちくたびれているとのこと。レーベン・ブラウを飲みながらドイチェン・リードを歌うドイツ旅行者とは大違いだ。)

(5月24日)
(ハバロフスクの上流でウスリー川が合流する。)

 朝食のとき、隣のテーブルに座った中国人男女の頭のてっぺんからぬける様な金属的な発音で2日酔いの頭がますますいたくなってしまった。食後、頭を冷やすため、アムール川沿いの公園を散歩する。ここでも、だいだい色のチョッキを着たひとが、竹ぼうきで道路を掃除している。散水車が通る。太い糸で釣りをする人々がいる。かなり大きな魚が掛かるのか。ジョギングをする元気そうな子供が通る。船着場近くの河岸では、漂流物を先生といっしょに探す小学生達がいた。カラスガイのように細長い黒い貝が打ち上げられている。流れ藻はないようだ。たくさんの煙を出す遠くの建物は発電所らしい。花瓶のような太い3本の煙突を見ると、原発くさい。

 ソ連の建物は、何の建物か、中に何があるのか、外人には分かりにくい。ショーウィンドーがあれば別だが、一般に、ソ連の店屋は何の店屋かよく分からない。二重ドアーは寒さと雪やほこりよけか。アウト・ドアーの専門店があり、大人から子供までが魚釣り道具に集まっている。エアロフロートの事務所もアパートのような建物で、目を凝らさないと、飛行機のマークが見えてこない。空軍の大きな建物も、玄関の飛行機の彫物と軍人がいなければ、それとは分からないだろう。町にも軍人の姿をよく見かける。ハバロフスクはソ連極東空軍の中心のようだ。

 ポプラ並木のおおわれた住宅地では、胸が黄色と尾のまん中が黒いセキレイやツバメが飛んでいる。ポプラの綿毛のような種も飛びかう。木造の建物や植生に北海道を感じる。みやげ物屋のアイヌ的な飾り模様にも共通性を覚える。冬物のオーバーを着ている人と軽装の人が共存する。季節の変わり目なのだろう。上り下りの多い住宅地の一角では、下水工事が行われていた。下水管用の溝堀には、日立の重機が活躍している。その重機には、日本語で「作業半径内立入禁止」という注意が書かれている。5人の労働者がレンガを運んでいたが、彼らが日本語を読めるとは思えない。中古品の重機を日本から輸入したのだろう。

 ホテル近くの住宅地の一角に、井戸のポンプのような形をした水道がある。そこで手を洗っていると、1人の青年がきて、水をだしてくれという。栓を押さえつづけないと、水がでないのだ。そうしてやると、彼は両手で水をすくい、飲んでから、気持ち良さそうに顔を洗った。「うまいぞ」とアメリカなまりの英語で言うので、彼の後から飲んでみた。カナケがする。鉄分の多そうな水だ。アラスカのジュノーの水を思い出す。

 彼の名前はユージン。日本語では友人だというと、嬉しそうな顔をする。その彼が、やおら商人に変身。まず時計を売りつけにきた。ソ連軍のもので外国で評判のものだという。大きくてハデな色の時計だ。外人とみると、すぐに何か売りつけようとする。そういう若者が多い。彼らは単独にぶつかって来るときもあるが、どこかの国の会社のように組織的にやる場合もある。僕が、彼の時計商売の相手ではないとみると、彼は話題を変えてきた。「どこに行くのか」「散歩に行く」「案内しよう。経済学の学生だ。法律を学ぶガールフレンドが試験を控えているので、一人で時間をつぶしてんだ」と言う。僕は信用した。彼は喫茶店に連れて行き、コーヒーとアイスクリームを注文する。金を払おうとすると、10ルーブル札のぎっしりと詰まった財布を見せ、まかしておけと言う。ずいぶんと景気がいい若者じゃないか。アイスクリームはなかなかのものだった。喫茶店の後は、ソ連の町ではおきまりの、レーニン広場に向かった。

 通りはポプラの並木で、緑が多いが、広場は緑が少ない。人の集合、行進・行軍のためなのだろう。夕方の斜めの日差しの中で、三々五々散歩する人がいる。と、ユージンは1人の若者に近づき、タバコをもらい、火をつけてもらっている。ソ連では、タバコは譲り合うもののようだ。レーニン広場からアムール河沿いの公園に向かう途中には、高層のアパートがいくつか建っている。その中でもきわだって高く、新しいのが共産党員用のものだという。「共産党員は立派なアパート住いだ。共産党員は嫌いだね。」

 アムール河の3kmほどの河幅のかなたに夕日が沈む。河風が心地よい。アムールは大河だ。その長さは、日本列島よりも長い。バイカル湖に近いモンゴルに源を発し、大興安嶺を横切り、小興安嶺沿いに流れ下る。ハバロフスク周辺では、アムール河は複雑に蛇行している。西方の低い山並が中国領だという。そこまでわずか5ー60kmとのこと。

 「今日最後の遊覧船にのろう」とユージンがすすめるので、もちろん賛成する。遊覧船の1階はディスコ、2階の半分はビディオ映画で、若者の男女で盛況だった。まず上流の発電所方面に行き、そして下流の鉄橋までの2時間程の周遊コースであった。右岸のハバロフスク側はアパートや道路などに赤みをおびた電灯の光が点滅している。ネオンサインや蛍光灯などの光はほとんどないが、油田の火だろうか、1個所で大きな光がゆらいでいた。左岸側はほとんどが湿原なのだろう、電気の光がなく、漆黒の闇だ。

(5月25日)
  ユージンと会うためインツーリストのホテルをでると、1人が家の陰に、2人が茂みに隠れているのが見えた。直感的に、あやしげな気配を感じ、一瞬、躊躇する。家の陰の1人を凝視すると、彼は茂みの2人に合図をするようなそぶりをし、200m程離れた指定場所の方へ動き出した。これはヤバイことになるかもしれないと思い、引き返すことを考えた。だが、少なくとも指定場所の井戸が見えるところまでは行かないと、約束が果たせない。通りには、竹ぼうきで掃除をしている男がいる。ホテルの従業員らしい女も歩いている。もし、何事かが起こっても、彼らがいれば大丈夫だろう。で、指定場所の見えるところまで、ゆっくりと100m程進んだ。だが、指定場所にはユージンの姿がなかった。そして、(やはり)内心想像していたように、あの家の陰にいた1人が立っているではないか。あやしげな3人は何か関係があるような気がする。映画の「第3の男」を思いだす。もう、約束の9時を15分過ぎているので、ユージンはもう返ったのか。急いで体の向きを変え、引き返そうとしたとき、井戸とは反対方向のアムール河沿いの公園入口に、ユージンが立っているのが見えた。(彼は、どうして約束の井戸にいないのか、僕の一部始終を見ていたのではないか。)彼を手招きすると同時に、僕は、ホテル方向に足早に歩きはじめる。すると、彼は駆け足でついてきた。「琥珀を持った友人がまだ来ない」と言う。それには答えず、ホテルの見える近くのベンチまでくる。ここなら安全だ。僕は、おもむろに腰をかけ、彼にも座るように目でうながす。「飛行場行きのバスが出るので、君の友人を待ってはいられない。」---[気まずい会話が続く。]--- 彼の最後の言葉は、「手紙を書くよ」であった。彼は何のためにぼくに近づき、目的を果たしたのだろうか。

 ハバロフスク空港に着き、バスから下りると、驚いたことに、ユージンが待っていた。「友達が持ってきている」と言う。今はそれどころではない。まず、搭乗手続きを済ませなくてはならぬ。余ったルーブルも替えなくてはならない。天井の高い、クラシックな空港待合室は荷物でびっしりだった。乗客は日本人の男が大部分で、ロシア人は少ない。話言葉から、中国人もわずかにいることがわかる。ソ連の搭乗手続きでは、禁煙・喫煙の座席を問われない。国内便だと、外人は”特別の待合室”に連れて行かれ(隔離されて?)、後から搭乗するので、窓側の席はすでにたくさんの荷物を持ったロシア人に占められているのが普通だ。おかげで、期待していた外の景色があまり見られない。新潟行きの国際便の搭乗手続きでも、禁煙・喫煙の問いはなく、また座席も用意されている搭乗券を上から順番に渡すだけで、忠実に仕事をしている蒙古系の婦人に窓側の席をくれるよう頼むのがはばかれた。空港の銀行では、モスクワでの換金証明をみせると、残りのルーブルを、意外なことに、手際良く変えてくれた(ルーブルの持ち出しを警戒しているとのことだ)。2万円をルーブルに変えていたが、8千円ほど戻った。短期間の滞在では、ルーブルをあまり使う機会がない。なにせ、外人には外貨を使わせようとするのだから。これらの手続きに、ざっと4ー50分はかかったろうか。

 この間もユージンは、待合室入口近くの柱の陰にいた。「ここは危険なので、駐車場隅の車に乗ってくれ」という。駐車場の方を見ると、白いライラックの陰に彼の友人がいた。彼の友人とは、遠くから見ると、どうも、あの家陰の1人のようだ。駐車場の隅まで行くと、こっちが危険になるかも知れない。「通関の荷物が置きっぱなしだから、遠くまで行けない。車を入口近くに着けろ。」何回かのやり取りの後、ユージンが彼の友人に手で連絡をすると、ライラックの陰からみていた彼の友人は駐車場の方へ小走りにかけて行き、やがて車を回してきた。まず、運転席から琥珀をつかんで、さしだして見せた。オード色の丸い玉のネックレスだ。ホテルのみやげ物屋で見てきたものは、こげ茶色が混じる濃い茶色のものか白の混じる淡い茶色のものだったので、両方の中間の色に見えるオード色の丸い玉のネックレスが本物かどうか。丸い玉の中には、オード色に混じってこげ茶色のクラゲ雲状の模様が不規則に入っている。本物らしい。重さもこんなものだろう。とにかく、この際は彼らを信用する以外にない。琥珀のネックレス、5千円の言い値を千円に値切る。すると、キャビアの缶づめを出してきた。3千円だという。これも2千円に値切る。彼は日本円をほしがった。ハバロフスクでは使えないので、ナホトカの店で買物をするという。5千円札より千円札が良いという。5分間ほどの忙しい商談は終った。気まずい感じが残る。ユージンはこのやり取りをするかたわら、たえず目は、空港待合室入口付近の警官の姿を追っていた。支払いがすむと、ユージンは一安心と言った顔をした。これで、僕との約束を果たした事になるのだろう。ユージンは、車の助手席に乗り込み、分かれ際に、もう一度「手紙を書くよ」といって去った。僕は彼らの車を見送りながら、ユージンが昨日の夕方から夜にかけてハバロフスクの町とアムール河を案内してくれたこと、今朝は早くからホテル近くで網をはっていたこと、空港では2時間も待って5分間の商売をし、5千円の売上があったことなどの彼らにとっての意味を考えようとした。僕にとって有意義だったのは、ラルフがマインツを紹介してくれたように、ユージンは別の面で、ハバロフスクの現実を見せてくれたのである。だが、彼からの手紙はまだこない。

 ソ連の通関は軍人風である。係官の肩には軍章らしきものが光る。ハバロフスクの係官は軍人にしては、割と愛そうがよかった。「こんにちは。ツーリスト?」と日本語で言ってくれる。だがここにも、頭上後方に横長の大きな鏡があり、彼は時々、鋭い目を僕の顔に向けるとともに、頭上の鏡を見て、後ろからも監視しているようだ。旅行カバンの検査はなかった。手荷物のレントゲン検査も簡単だったが、ハバロフスクには「フィルムに注意」の看板がある。レントゲンが強力なのだろう。

 天井の高い待合室は、日本人の男達で一杯だった。日本語の商談にまつわる話が耳に入ってくる。樺太に行ってきた旅行会社の人もいた。樺太では雪に見まわれたという。これから、樺太からの残留日本人の訪日旅行が増えるらしい。待合室の中だけを見ていると、日本のローカル空港にきているようだ。数人のソ連人女性は待合室でもゆうゆうと立っている。いかにも、買物の順番待ちで慣れているとはいえ、あの大きな体を支えるのはさぞかし大変なことであろう。

 離陸は、めずらしく時間どうりであった。貨物輸送の交渉のため日本へ行く中国人は、「ソ連人はのんびりしているので、普通、30分は遅れるのだが」と意外な顔つきだ。飛行機はアムール河の遊覧船発着場付近上空をとび、鉄橋やアムール河を行きかうたくさんの船、蛇行する河、三日月湖と広大な湿地を見渡しながら南下する。

 春霞に覆われた日本海に佐渡島が浮かんでいた。イルクーツクで出会ったイギリス人が「5年間の日本滞在で佐渡島が一番印象的だった」といった事が思い出される。そこで彼は、自然に近い生活ができたそうだ。

 朝日連峰の稜線は、雲に隠れていたが、中腹以下の新緑の谷間にはかなりの雪渓が残っているのがわかる。これまた、時間どうりに新潟空港着。ノーチェック。ソ連の空港内にくらべると明るい。待合所に置かれた4つのテレビはそれぞれ別々の番組を流している。みやげ物屋は万屋的で、フィルムから食い物まで取り揃えている。どの店屋も似たりよったりだから、とにかくどれかの店屋に入り、品物を見ながらニーズを決められる。。ヨーロッパなどでは、どちらかというと、専門店的だ。店ごとに特色がある。だから、何か買うときには、自分のニーズに見合った特定の店屋を最初に決めることになる。

 日本に着くと、まず、水が飲みたくなる。アイスクリームと一緒に水をコップに3杯。さらに、ジュースを飲む。自動販売機のビオタミンも。自動販売機にはウーロン茶も売っていたが、あれはほとんど水ではないのかと言っていた中国人の中国人一行を思いだす。しかも、ミネラルウォーター2リットル220円は、ガソリン代より高いのだ。ガソリンがとれず、水が豊富な日本で、ガソリンが水より安いとは、信じられないことだ。

 大阪便への搭乗手続きで、ナイフがみつかる。ヨーロッパやソ連では問題なかったのだが。同乗の外人も規則だからしょうがないとしっかりした日本語でしたがっている。彼らは、新潟に着くなり、子供と一緒にうどんを食べるほどの、日本通のようだ。ただし、コーラを飲みながら、というのが国際色を出していて面白かったが。はたして、アンカレッジ空港でものれんが出ていたうどんも、コーラほどの国際性を獲得できるか。

 4分遅れで離陸。信濃川河口の濁水と導水路のコンクリート護岸が日本海に突き出している。松林のつづく海岸に沿って、侵食防止用と思われる直線的な建造物が長く延びる。新潟平野には田植のすんだ緑の水田が広がる。オード色に見える畑は麦畑か。

 再び、佐渡島の上空に出て、くびき山地付近から本州にはいる。くびき山地には段々畑が発達し、山の高いところまで水田が分布する。ネパールなどのモンスーン地帯的な眺めだ。長野付近までくると、ほじょう整備が完了した広大な水田郡が広がっている。ゴルフ場や砂利採りによる森林破壊が目につく。松本付近にもスキー場のガレが痛々しい。スキー場はせめて緑にすべきだ。飛騨川上流域には段々畑の小水田群、長いダム、砂利採りによるハゲ山が目につく。濃尾平野に近い山地には眼下に7つものゴルフ場があるではないか。ゴルフコースはタニシが田圃の土を這い回ったような痕に見えた。

 濃尾平野の東端から知多半島のつけ根をかすめる。知多半島の中央部を延びる高速道路と愛知用水。津付近は広大な麦畑が分布している。かっては広大な水田が広がっていたはずだ。布引山地周辺の杉林には、植林の時代差によるパッチ場の構造が見える。このような山の手入れ模様を見ていると、山も畑のように耕してきたのではないかと思われるのである。奈良盆地にはいると、水田地帯に宅地が食い込んでいる。ビニールハウスが水田と宅地の境界地帯に分布する。学校のグランドもかなり目につくようになる。大和川沿いに宅地造成の進む生駒山を飛び越え、水田と住宅地、工場、オフィスビルの混在する大阪平野へ入り、大阪城を左手にみて予定時刻3分前に着陸。人のこまめな動き、交通渋滞、大きな横断歩道、大きな広告、電柱のポスター。人・車・広告などの情報、すべて高密度感たっぷりだ。