モンゴル国フブスグル湖調査の考え方-水位変動について-
琵琶湖水位は,ひところ-1mちかくまで低下していたが,その後の台風・秋雨前線の影響で彦根でも100mm以上の雨がふり,かなりの回復をみせた.しかし,これからどこまで低下するのか.はたして,1994年の大渇水のようになるのか,気になるところである.ところで,琵琶湖水位は明治からの南郷の堰建設と瀬田川を流れやすくする河川の浚渫で,平均水位はすでに1mほど人為的に低下させてきたのである.最近の琵琶湖はといえば,水位上昇よりも,水位低下が大きな問題である.
ところが,モンゴルのフブスグル湖の大きな問題は,水位上昇なのである.この20年ほどで60cm,上昇したという.1年平均で30mmにもなる.そこで,私たちの調査テーマ「フブスグル湖の経年的水位上昇」の要因として,琵琶湖研究所の熊谷さんたちは永久凍土の融解による水量増大を仮説的に考え,その原因を地球温暖化にしている.なにしろ,フブスグル湖の面積は琵琶湖の4倍もあるので,60cmの水位上昇は琵琶湖水位に換算すると240cmにもなるのである.
フブスグル湖のように,明治前半までの琵琶湖は水位上昇が大きな問題であった.洪水にみまわれていたからである.琵琶湖のビワはアイヌ語の湿地に由来するという説があったと記憶しているが,それがもっともらしく思えるほどであった(今回水害をこうむった愛知県の西枇杷島町のビワもその可能性がないだろうか).琵琶湖の継続的な水位上昇の主な原因は人為的な山地の破壊で,多量の土砂が流出し,琵琶湖からの出口の瀬田川を堰きとめるようになったからとみなせる.それでは,かつての琵琶湖の水位上昇速度はどのくらいになるのか.現在よりも1mほど高い明治前期の水位にまで上昇してきた平均速度を概算してみる.まず,5千年ほどまえの縄文遺跡が,最近の平均水位0cmを基準にして,-2mに広く分布する(粟津遺跡など)ことから推定すると,明治前期までの1m高かった分をくわえると,縄文時代から水位は3mほど上昇したことになる(ただし,地震による局地的な地盤変動の影響はおいておく).すると,平均水位の上昇速度は1年で0.6mmだ.しかし,縄文時代は,その後の新しい時代よりも,より自然と共存する生活だから,山地破壊などは少なかったと考えると,この値は過小評価の可能性が高い.では,山地などの自然破壊がいつから急速に進行したのか.農業革命を助長する鉄の生産(タタラ製鉄など)が行なわれた2千年ほど前なのか,それとも1千年ほど前の平城・平安時代の巨大建築(東大寺など)の木材切りだしによって自然破壊がすすんだのだろうか.前者とすると1年平均の上昇速度は1.5mm,後者で3mmになる.さらに時代がさかのぼるとどうか.戦国時代の長浜の太閤井戸や明智光秀の坂本城の城壁が,水位が-1mちかくになると,今回も現れたのである.そのことから見積もると,水位上昇速度は5百年ほど前からは1年で4mmだ.どうやら,戦国時代からの上昇速度が大きいようだ.
以上のように,いろいろの見積もりができようが,平均上昇速度は0.4~4mmの範囲になり,時代が新しくなるにつれて,上昇速度が大きくなっている.これらの値と比較してみても,フブスグル湖の値は琵琶湖より1桁以上も大きいのである.このような大きな上昇速度のため,フブスグル湖岸周辺の牧草地や森林が水没している.また,北部の町ハンクでは水没の危険にさらされ,町の移転が進められているという.深刻な事態だ.なんとか,この課題解決のための知恵をだしたい.
そのような視点から,ことしのモンゴル調査は熊谷さんたちの仮説検証の目的もあり,永久凍土に焦点をあて,地温を集中的に調査することになった.そして,いくつかの興味ある現象を観察することができたのである.まず,カラマツの森林地域ではところにより地下1.5mで地温が0℃,つまり凍土層の存在を確信することができた.また、大部分のカラマツ林では地下2m周辺の地温が0℃になることが予想された.ところが,牧草地や山火事で焼けた林では地温が高く,地下の凍土層の融解がすすんでいることをうかがわせる.牧草地は当然人為的だが,山火事もその要因が大きいといわれる.というのは,薬などに利用する目的で,狩猟の後にシカの角やジャコウを見つけ安くするため下草を燃やすので,そのとき森林も焼けてしまうのだという.南面に広がる牧草地や広大な山火事などによる森林破壊の大きさを見るにつけ,人為的な影響の大きさを感じざるをえなかった.さらに,地温の場所による違いには,斜面向きの影響もある.これらの土地利用や地形による地温の地域的特徴には,熊谷さんたちの仮説である地球温暖化の影響がくわわるのである.
自然のダム
今回は,最初の2日間の船による湖周辺およびその後の3日間のジープによる陸上の調査でも,毎日夜8時(といってもまだ明るいのであるが)の夕食時ぎりぎりまで,長時間動きまわった.このため,毎日の資料整理や日誌を記載する時間が十分ないほどだった.現地調査最後の日も同様で,飛行機の出発直前までにしておきたかった懸案の調査がのこっていた.それは.フブスグル湖南端部の湖から川に変わるところの地形調査である.懸案といったのは,今回の調査に出かける前に,滋賀大学の板倉さんにぼくの仮説を伝えていたのである.「かつての琵琶湖のように,瀬田川が埋まり,流れにくくなったら,水位が上昇するのではないか」と.ところが、これまでの2年間の調査では,このフブスグル湖南端部の調査はしていなかったとのことだったので,なんとしても見ておきたかった.ぼくの心には,瀬田川を埋める大戸川のようなイメージがうかんでいた.大戸川が瀬田川に流入する南郷周辺の黒津の河床を明治前期まで埋めていた「黒津八島」のことである.
さて,鴻池組の武田さんと現地に行き,右岸の礫塚から見下ろして,とにかくびっくりした.なんと,フブスグル湖からの流出河川はせせらぎになっているのである.かつての「黒津八島」もかくありなんという地形が展開している.とにかく,まず,足のくるぶしほどの深さしかない右岸の浅瀬に長靴で入った.川幅は30mほどで,右岸側の半分ほどが深さ10~20cmのせせらぎになっているほど川床が礫で埋まっている.左岸側の水深もそれほど深くはなく,60~70cmと見た.とにかく,飛行機の出発までの時間がないのと,ガンバさんの家のさよならパーティに参加しなければならないので,周辺に落ちていた木片や牛糞・ガラス瓶・ポリ瓶などを利用して表面流速などを2時間ほどで測定した.明治前期までの人々が「黒津八島」を渡り歩いていたことを想像しながら,河床を歩きまわったのである.ところで,そもそもこの河川地形を見下ろした礫塚のことに考えがおよぶと,さらに驚かざるをえなかった.フブスグル湖南端の湖から川に変わる右岸側だけに不自然な形で分布している.その大きさは,高さ2m,幅7m,長さ70mほどの礫塚である.これはまぎれもない人工的な構築物である.ということは,住民の人たちが水位上昇対策として,フブスグル湖のいわゆる「黒津八島」をすでに浚渫・除去していたことを示す.驚いたと言ったのは,フブスグル湖の水位上昇問題の解決策をすでに住民が実践していたからである.このことは,ぼくら自身のみならず被害にみまわれているハンクの町の人々なども知る必要がある重要な情報である.なぜなら,フブスグル湖の水位上昇の原因と対策に直接関係するからである.
そこで,ガンバさんの家で地元の人に聞くと,1985年に浚渫をしたのだという.また,モンゴル国立大学のジャムサランさんに聞くと,1970年代に数回浚渫した可能性があるとのことである.だが,フブスグル湖の水位変化図を見ると,1985年にも,また1970年代にも水位減少は現れていないのである.しかし,フブスグル湖の水位は全体として右あがりに上昇しているとはいえ,常に連続的に上昇しているのではなく,30cmほどの大きな水位低下をしめした年があるではないか.1980年である.この1980年の水位低下をひきおこした原因が,地元の人たちによる浚渫による可能性がある.それが確認できれば,礫塚の体積は5百m3ほどになるので,密度3としても,重量は1千5百トン程度の浚渫で水位を30cm下げることができるのだ.この手法で,フブスグル湖北部の町,ハンクの人たちの心配を和らげることができるのではなかろうか.
さて,飛行機の出発前のあわただしい時間をなんとかやりくりし,フブスグル湖南端部の調査を終えると,地元の夫妻とおぼしき男女が馬に乗ってやってきた.土産の骨のサイコロを売るためであった.そこでぼくは,最後の調査で不要になったゴム長靴をさしだして,身振り手振りで,サイコロとの交換とともに,ガンバさんのパーティ会場まで馬に乗せてくれるよう頼んだ.今回の調査行ではモンゴル語がさっぱり上達しなかったが,どうやら商談成立と相成ったのである.そこで,思いでの最後のフィールドを後にしながら,自然のダムである「黒津八島」をつくる礫が,ハトガルの飛行場のある川原の上流から大水で運ばれてくることに思いをはせながら馬にまたがったのである.いつもは,水の流れていない飛行場周辺の川原ではあるが,しばしば降るようになったという豪雨時には多量の土砂が運ばれてきて,左岸側の岸壁にまで到達し,フブスグル湖からの流れを妨げるのであろう.降雨強度の増大も,また,地球温暖化と関連するのではないか.とにかく,ガンバさんが言うには「豪雨時には,飛行場方面からの濁水がフブスグル湖の南端部から北方に遡ってきて,港との中間にある家の周辺までの湖面が茶色になる」そうだ.ゆったりとした馬の背に揺られながら,つぎの調査には,ぜひとも馬にまたがり,北部の町,ハンクまで行ってみたい,と思った.