海外調査と国際協力-ヒマラヤとモンゴルの経験から-

1)はじめに

 アジアの大河はヒマラヤやチベット・モンゴル高原などの内陸アジアにその源を発する.黄河・長江・メコン川・ガンジス川・インダス川・オビ川・エニセイ川・レナ川・アムール川などである(図1).人工衛星から眺めれば,内陸アジアにはたくさんの湖沼が分布するのを見てとれる.たとえばチベットはあたかも湖の高原の感がする.目を閉じて広大なアジアを思いうかべると,内陸アジアのチベットやモンゴル高原およびヒマラヤなどから黄河やガンジス川などのアジアの大河が沿岸部の大都市へと流れ下っているのを想像することができる.急激な人口増加が見こまれるアジアの大河下流域の大都市周辺にも多くの湖沼があり,それぞれ湖沼は大河川とともに,住民の生活と深くかかわっている.
モンスーン地域の冬の乾季にもアジアの大河の水量が維持されているのは,内陸アジアの山岳や高原に分布する氷河と永久凍土からの溶け水があることが大きな要因である.そのため,現在のような地球温暖化の初期には氷河と永久凍土が急速に融けることによって,内陸アジアの河川水量および湖水量は急速に増加する.しかし,温暖化がさらに進行すると予測される21世紀後半には,氷河と永久凍土層が縮小してしまうので,水資源が乏しくなっていくと解釈できる.従って,今世紀中にはモンスーン地域の乾季の水資源量は少なくなり,アジア全域に深刻な水資源・環境問題をひきおこすことが危惧される.アジアの水資源動向の重要な鍵の1つが水源となる氷河や永久凍土現象にあるのである.
さらに,温暖化によって海水準が上昇すると,海岸低地部の地下水層中に塩水楔(Salt Wedge)現象が起こるであろう.なぜならば,河川水位の減少に対して,海水位の上昇で,海水が河川の河口部に浸入するとともに,地下水層にも貫入するからである.すると,人口増加が世界的にも著しいアジア各大河の河口部大都市では,河川水量の減少にくわえて地下水の塩水化で淡水資源の欠乏問題が深刻になるであろう.水資源の枯渇問題は,さまざまな大都市化に起因する環境諸問題ともからみ,早かれ遅かれ,緊急なEnvironmental Issueを投げかけてくるのは必定と言わねばなるまい.
もとより内陸アジアは広大であるので,現地研究者との共同体制を組まねばならないが,さらに地元住民との連携も重要である.そこで,今号の特集テーマに関連する環境・文化に関る国際協力の視点から,21世紀の水資源問題について大きな影響をあたえる内陸アジアの氷河と永久凍土現象の共同研究の歴史を,ヒマラヤとモンゴルの経験からふり返ってみたい.

図 1 東アジアの河川系

2)ヒマラヤの経験

 1973年から1978年まで続いたネパール・ヒマラヤ氷河学術調査隊の正式名称は Glaciological Expedition of Nepal であった.直訳すると,ネパールの氷河調査隊,英語の略称は,GEN.Expedition (遠征)の名称には前時代的な響きもあるが,当時の調査隊はおしなべて,アレキサンダー大王の感もするExpeditionの名称を使っていた.とにかく,略称のGENはゲンと読めるので,験(げん)が良くなることを調査隊の誕生にあたり期待したのである.
しかし,GENの略称だけでは見えないが,GEとNのあいだに”of”が入っている.メンバーが日本からきている隊なので,GE”to”N(ネパールへの氷河調査隊)であって,GE”of”Nでは英語の表現としておかしいという意見も当初はあった.と言うのは,当時の日本から出て行く調査隊の英文名は,通常(・・・Expedition to・・・)だったからである.
先遣隊メンバーとしてネパールの首都カトマズ入りしたぼくは,ネパール外務省と調査許可を得るための交渉をすることになった.そこで,従来方式でGE”to”Nの計画書を作ったのであるが,その計画書ではネパール外務省への2カ月ちかい交渉でも調査許可がもらえなかったのである.外国(日本)からやってきたネパールへの氷河調査隊というニュアンスが強すぎたのだろうか.調査許可の交渉のためネパール外務省に日参しているうちに,ネパール人とのつきあいも深くなり,それにつれてネパール語もいけるようになると,ぼくたちの考えかたもだんだん変わってきた.時は1973年春,ぼくは大学院の学生だった.
(よし,できるだけ現地主義でいこう.)
ぼくたち貧乏学生調査隊は,食料や薪などの衣食住をはじめとして,現地のひとびとの協力なしにはやっていけないのだから,好むと好まざるとにかかわらず,かなりの部分を現地主義でいかざるをえなかった.たとえば薪についても地元の理解が必要で,シェルパの人たちが住むヒマラヤでは,モンスーンの雨期の期間は「宗教上の理由で煙をだしてはいけない」との申
し出があったときも,それでは生活ができなくなるので,地元の村の人びとと何回にもおよぶ協議をおこなったうえで,やっとわたしたちが火をたくことを許可してくれたのである

写真1 ヒマラヤのハージュン観測所

  だから,英語の表現が少しくらいおかしくとも,GE”of”Nだと,現地主義の感じがでているではないか.GE”to”Nでは,いかにも,よそ者がやっている感じがする.(それなら,さらにすすめてGE”for”Nのほうがよかったかな,と考えないでもなかったが).ところで,GE”of”Nの計画書にしてしばらくすると,ネパール外務省は調査許可証をついに発行してくれたのである.そこで,地元の人たちの協力を得ながら,世界最高峰チョモランマ(8850m)のふもとのハージュンと呼ばれる牧草地に観測基地(写真1)を建設した.地元の人によると,地名のハージュンとはシェルパ語で,幸福をもたらす神のすむ平らな土地という意味があるとのことであるので,ますます(験,GEN)がよくなりますようにと願ったのである.こうして,1973年春,学生たちだけの1年間のネパール・ヒマラヤ氷河調査隊(GEN)はスタートした.
ネパール・ヒマラヤ氷河調査隊の目的はヒマラヤの氷河の実態を明らかにすることで,そのため氷河形成にかかわる気象や地形・地質調査を行った.わたしたちは学生であるから,当然のごとく1年間の調査をする金がなかった.そのため,1960年代半ばに滞在したことのある北極海の氷島へでかけ,1973年の沖縄海洋博用に長さ30m,直径30cmの氷柱を展示するというある企業のアルバイトをするはめになった.お陰で,数百万円ほどの軍資金をかせぎ,通算10人ほどの学生たちが通年調査をすることができた.この年のぼくは,半年のヒマラヤの調査で15キロの減量に成功したものの,その直後の北極海の贅沢なアルバイト生活でふたたび体重が元に戻るという大変化を経験したのも今となっては懐かしい思い出である.この学生隊が発端となって,翌年からはネパールのトリブバン大学の研究者との共同研究体制を組み,1978年までつづいた旧文部省の長期海外学術調査へと発展していったのである.

写真2 氷河湖決壊による洪水被害の村

 1960年代までのネパール・ヒマラヤの氷河調査隊は,GE”to”Nの時代であった.山登りなどの外国隊と同様,いわゆるよそ者の調査時代といえよう.そして1970年代になると,ぼくたちのGE”of”Nの観点がめばえたが,1977年,ぼくたちが現地に滞在していた時に発生した氷河湖の決壊による洪水災害(写真2)を契機として(この調査はブータンでも現在行われている),1980年代からは自然災害対策を目的としたGE”for”N(ネパールのための氷河調査隊)の段階に変化し,ネパールの気象・水文や水資源部局の行政担当者たちとの共同研究体制も組まれるようになっている.また.GE”for”Nの時代になるのと併行して,調査を手伝ってくれていた現地の若者の奨学金募集を行い,大学卒業後に地元の学校教師なった彼をさらに援助するとともに,現地の大学や研究機関との共同研究によって,ネパール人研究者をも育ててきているのである.

写真3 ヒマラヤの県大第1期生

1997年の夏,ぼくは県立大学の第1期の学生たちとネパール・ヒマラヤのフィ-ルドワークを行い(写真3),全員で標高4500mの氷河地域にまで行くことができた.その内容は,その年の湖風祭のとき,各学生がそれぞれのテーマをまとめて発表したのである.できれば将来は,このような学生たちの外国のフィ-ルド・ワークが一種の「特別実習」になれば良いのだが,と考えている.外国での新しい経験は必ずや学生たちの将来の糧となり,学生たち自身が育っていくことであろう.これはいわゆる総合学習である.国際教育到達度評価学会の学力試験で,理数系の暗記教科の点数が低かったというので,文科省などから総合学習削減の方向性が出されているが,学力を知識量で測るよりも,学生個人の知恵の豊かさのほうがより重要なではあるまいか.というのは,その学力試験の結果に明らかな「考え学ぶ力」が衰退していることの方が深刻だと考えるからである

 

 


 ところで,学生たちとのヒマラヤの旅はぼくにとってもかけがえのないものとなったので,サンライズ出版の”Duet”8巻5号に次のように記したのであった.「滋賀県立大学のフィールド・ワーク・クラブの部員と,ヒマラヤの環境問題を調査した.調査内容は,ネパールの首都カトマンズの水・大気・ゴミ問題など,および,カトマンズ北方のランタン・ヒマラヤの村々までの自然・社会環境の実態と課題を踏査することであった.ランタン・ヒマラヤは,私にとって21年ぶり.ヒマラヤへの旅は,カトマンズから離れるにしたがって近代化の影響がしだいに少なくなるので,あたかも歴史をさかのぼるタイム・トンネルをくぐるかのようだ.およそ2昔前のヒマラヤの面影を重ねあわしながら,同時に,かつての日本の姿をみいだす旅ともなった.」
「人と自然の共生をめざして」という看板が犬上川の河川改修現場に立っている.しかし,河辺林であるタブ林からみれば“人は助けてくれてはいない”ので,「共生」とは決していえない.今まさに心配なのは,人為的影響をあたえすぎてしまったために,タブ林の維持にとって必要な持続的な形成条件を失ってしまったのではなかろうか,ということである.そのために,タブの後継木が育ってくれたらと願うのみである.私たちにできるのは自然をできるだけ残して,せめて「共存」していくことなのであるまいか.後世の人たちに「タブの木は残った」といえるような自然環境との共存関係を実現したいものだ.そもそも1980年代から「地球全体のことを考えて,地域で行動せよ ( Think globally, act locally. )という標語が登場しているが,地元のわれわれにとっては,まず( Act locally, think globally. )なのではないか,と考える.
 以上のように,ヒマラヤ調査の基本的な姿勢がGE”to”NからGE”of”NをへてGE”for”Nに,調査隊自身も変化してきたのは,国際協力における海外調査の進化ととらえることができるのではなかろうか.その過程で,地元研究者との共同体制の確立や,現地住民との連携および県立大学の学生たちとの環境教育的な活動へと展開してきたのである.このことはとりもなおさず,滋賀県立大学環境科学部のフィ-ルドワーク(FW)も,FW1の課題発見,FW2の解析・分析,FW3の課題解決にいたるプロセスと対比できる,と思う.課題解決にいたる最終的プロセスには,現在のぼくたちが取り組んでいる「GE”for”N」と共通する視点があるからである.われわれは現在「犬上川を豊にする会」で地元住民と行政関係者とともに河川改修の進む犬上川の具体的な環境改善活動を行っているが,ネパールに関しても,2004年に開設された国際山岳博物館に対して,われわれのこれまでの成果を生かしながら,環境教育的な支援が将来はできないものかと計画しているところである.

3)モンゴルの経験

  バイカル湖に近いモンゴル北西部に位置するフブスグル湖(写真4)の課題は水位上昇である.この20年ほどで60cmも上昇したという.1年平均で3cmにもなる.そこで,私たちの調査テーマ「フブスグル湖の経年的水位上昇」の要因としては,まず地球温暖化による永久凍土の融解が影響しているのではないかと仮説的に考え調査を始めた.なにしろ,フブスグル湖の面積は琵琶湖の4倍もあるので,60cmの水位上昇は琵琶湖水位に換算すると2m以上の大きな変化になるのである.

写真4 モンゴルのフブスグル湖

琵琶湖も,明治前半までは水位上昇が大きな問題であった.洪水にしばしばみまわれていたからである.琵琶湖のかつての水位上昇の原因は人為的な山地の破壊で,多量の土砂が琵琶湖に流入し,琵琶湖からの出口である瀬田川に自然のダムができ,流れを堰きとめるようになっていたからとみなせる.それでは,かつての琵琶湖の水位上昇速度はどのくらいになるのか.現在よりも1mほど高い明治前期の水位にまで上昇してきた平均速度を概算してみると,まず5千年ほどまえの縄文遺跡が,最近の平均水位0cmを基準にして,-2mの湖底に広く分布する(粟津遺跡など)ことから推定すると,明治前期までの1m高かった分をくわえると,縄文時代から水位は3mほど上昇したことになる.すると,平均水位の上昇速度は1年で0.6mmである.しかし,縄文時代は,その後の新しい時代よりも,より自然と共存する生活だから,山地破壊などは少なかったと考えると,近代の環境破壊の激しかった時代の値としては過小評価の可能性が高い.例えば,戦国時代の長浜の太閤井戸や明智光秀の坂本城の城壁が,琵琶湖水位が-1mちかくになると,現れることから見積もると,水位上昇速度は5百年ほど前の戦国時代からは1年で4mmとなる.どうやら,戦国時代からの上昇速度は縄文時代よりは1桁,大きいようだ.環境破壊がさらに進んだことを示すのであろう.

写真5 水位上昇で浸水被害の湖岸森林

  以上のように,琵琶湖水位の平均上昇速度は0.6~4mmの範囲になり,時代が新しくなるにつれて,上昇速度が大きくなってくる.これらの値と比較してみても,フブスグル湖の値は琵琶湖のものより,さらに1桁,大きいのである.このような大きな上昇速度のため,フブスグル湖岸周辺の牧草地や森林が水没している(写真5).さらに,北部湖岸の町ハンクでは水没の危険にさらされ,町の移転が進められているという.深刻な事態だ.なんとか,この課題解決のための知恵をだしたいというのが,調査の課題であった.


写真6 山火事被害のカラマツ林

  そこで,永久凍土の融解現象の実態を明らかにするため,地温観測を中心に調査することになった.そして,フィールド・ワークをしなければ気づかなかったような興味ある現象が明らかになったのである.まず,カラマツの森林地域ではところにより地下1.5mで地温が0℃,つまり凍土層の存在を明らかにすることができた.また、大部分のカラマツ林では地下2m周辺の地温が0℃になることが予想された.森林が立派に保存されていると,木の枝や葉が日射を遮るので,地温が低く保たれ,永久凍土を保護しているのである.永久凍土が地表面近くにあれば,夏に溶ける表面付近の地下水を利用して森林が育つ.つまり,森林と永久凍土とは互いに助け合っている1種の共生関係にあるともいえよう.ところが,牧草地や山火事で焼けた林(写真6)では地温が高く,地下の凍土層の融解がすすんでいることが明らかになった.牧草地は当然人為的だが,山火事もその要因が大きいといわれる.というのは,薬などに利用する目的で,シカの角やジャコウを風下に追い込んで射止め,狩猟の後に見つけ安くするため下草を燃やすので,そのとき森林も焼けてしまうのだという.また最近では,観光客用のジャム生産のために,ブルーベリーやコケモモなどを収穫した後,火をつけるのだとも言われている.下草を肥料になる灰にし,来年の実りを良くするために火事をひきおこしていることになる.南面に広がる牧草地や広大な山火事などによる森林破壊の大きさを見るにつけ,人為的な影響の大きさを感じざるをえなかった.人為的山火事の影響については,フィールド・ワークで始めて明らかになったことであるが,森林保全に関する住民の環境教育が重要であることを示している

写真7 大戸川河口の自然のダム

実はこの調査には,もう1つの懸案があった.それは.フブスグル湖南端部の湖から川に変わるところの地形調査である.懸案といったのは,今回の調査に出かける前に,「かつての琵琶湖のように,瀬田川が埋まり,流れにくくなったら,水位が上昇するのではないか」という仮説を考えていたからである.ぼくの心には,瀬田川を埋める大戸川のようなイメージ(写真7)がうかんでいた.大戸川が瀬田川に流入する南郷周辺の黒津の河床を明治前期まで埋めていた「黒津八島」のことである.

写真8 フブスグル湖出口の自然のダム

 

さて,帰りの飛行機の出発時間を気にしながら現地調査に行き,ふたたび驚くことになった.なんと,フブスグル湖からの流出河川には自然のダムができ,せせらぎになっている(写真8)のである.かつての「黒津八島」もかくありなんという地形が展開している.とにかく,まず,足のくるぶしほどの深さしかない右岸の浅瀬に長靴で入った.川幅は30mほどで,右岸側の半分ほどが深さ10~20cmのせせらぎになっているほど川床が礫で埋まっている.左岸側の水深もそれほど深くはなく,60~70cm程度である.とにかく,飛行機の出発までの時間がないので,周辺に落ちていた木片や牛糞・ガラス瓶・ポリ瓶などを利用して表面流速などを2時間ほどで測定した.明治前期までの人々が「黒津八島」を渡り歩いていたことを想像しながら,河床を歩きまわった.ところで,フブスグル湖南端の湖から川に変わる右岸側を見ると,不自然な形をした礫の丘が分布しているのである.その大きさは,高さ2m,幅7m,長さ70mほど.これはまぎれもない人工的な構築物である.ということは,住民の人たちが水位上昇対策として,フブスグル湖のいわゆる「黒津八島」をすでに浚渫・除去していたことを示す.フブスグル湖の水位上昇問題の解決策をすでに住民が実践していたのである.このことは,フブスグル湖の水位上昇の原因と対策に直接関係し,被害にみまわれている町や湖岸森林の保全を考えるために重要である.
そこで地元の人に聞くと,1980年代初めに浚渫をしたのだという.その際には,フブスグル湖の水位が30cm低下しているのが水位変化図から見てとれる.モンゴル国立大学の先生に聞くと,1970年代にも数回浚渫した可能性があるとのことである.礫の丘の体積はせいぜい千百m3ほどになるので,1人1日1m3を川岸まで運ぶとしても1000人日分の仕事に過ぎない.10人でやれば100日でできるのである.この手法で,フブスグル湖北部の町,ハンクの人たちの心配を和らげ,森林保全を達成することができるという見通しをつけることができた.

 4)まとめ

ヒマラヤもモンゴルでも,氷河と永久凍土の融解で湖沼の拡大期を迎え,大きくなりすぎた湖沼の決壊・洪水や,また湖岸集落や森林の水没による災害がひきおこされている.このことは,現在は水資源が豊富な時代に思えるのだが,将来は氷河や永久凍土の減少で,水資源の乏しくなることを肝に銘じなければならない.すでにチベット内陸部に現れているような湖沼縮小・塩湖化現象が,今世紀中頃にはヒマラヤ山脈・チベット~モンゴル高原全域におよぶ可能性がある.氷河や永久凍土,つまり固体としての淡水資源が地球温暖化で融け,枯渇するからである.アジアの大河川はこれらの地域を水源とするので,1年の大半を占める乾期の河川水量は減少し,すでに黄河で現れているような断流現象が,アジアの各大河川にまでおよぶと,著しい人口増加が見込まれる南アジアに深刻な環境課題(issue)をひきおす.
 フブスグル湖の現地調査で述べたように,原因がわかると,対策がはっきりする.まず短期的には,自然のダムを取り除くことである.1980年代初めのような浚渫を実施すれば,水位を30cm低下させることができる.ただし,かつての社会主義時代は人海戦術のような土木工事が容易にできたが,自由社会となった今はなかなかできないようだ.次に,中期的な対策としては,森林保全のための土地利用の改善で,住民への環境教育が重要になる.そのため,現地の研究者や大学生たちと現地調査とともに討論会を実施してきている.さらに,最後の長期的な課題が地球温暖化対策で,アメリカなどの離反者を再説得しながらもまずは先進国が中心になって京都議定書を遵守していく必要があろう.