ティリチェ村のマンガール・グルン(44)によると、モンスーンの雨期でビムタン地域では視界はなかったが、2006年7月13日午後3時頃、ものすごい音がし、大量の岩石が流れているのがガスの中で認められ、この洪水流は約12キロ下流のティリチェには午後9時頃に到達したというから、時速約2キロで流れ下ったと推定される。
ポカラのセティ川でも歴史的に何回も洪水流に見舞われているが、ブルディン・コーラでも、過去の洪水の岩石が時代がさかのぼるにつれて、赤い地衣から黒い地衣、そしてコケに覆われた帯状の岩石分布があり、多量に岩石が流下した地帯では河床の林が立ち枯れているを認めることができる。
2.ポンカー湖
ビムタン北方のヒムルン・ヒマールからはデブリ・カバーの巨大な氷河群が南に向かって流れ下っている。ポンカー湖は地図上のペリ・ヒマールからの新旧のモレーン堆積物の間(アブレションバレー)に形成された氷河湖であり、長さ約1キロ、幅50~100mで、流出河川は認められない。
ポンカー湖が立地する新旧のモレーン堆積物の比高は100m以上もある堅固なもので、直下型の大地震でもないかぎり、氷河湖決壊洪水(GLOF)を引き起こすことはないであろう。 この氷河湖には、ガン・カモ科の渡り鳥が飛来するという。
1.森林資源
ダラパニまでの南北方向の谷地形沿いにはモンスーン雨期の水蒸気が大量に侵入するので、素晴らしく立派な原生林を発達させているのだろう。したがって、氷河末端高度は森林限界のダケカンバ林まで下がっている。クンブなどよりも氷河末端硬度が1000m程も低い4000m付近となっているのもこのためだ。ビムタン北方のヒムルン氷河群の規模が著しく大きいことも、原生林の発達と同様に、氷河の涵養機構にマルシャンディ沿いに南方から供給される多量な水蒸気が大きな意味を持っていると解釈できる。今春調査したアンナプルナ連峰南面のマディ川上流のガプチェ氷河では、雪崩涵養の影響も加味され、氷河末端硬度は2500mと、ネパールで最も低い氷河・湖がGLOFを引き起こしているのである。しかしながら、マルシャンディ川が東西方向に流れを変える最上流部は、夏の南からの水蒸気侵入に対してアンナプルナ連峰の風下になるため、局地的な乾燥域になっている。このため、著しい森林の発達は見られない。マルシャンディ川の ダナ・コーラやドゥドゥ・コーラの支谷の原生林はこの流域のみならずネパール、広くはヒマラヤにとっても(ブ ータン同様に)貴重な森林資源、財産だ、と思う。
2.道路開発
南北方向のマルシャンディの峡谷は、道路開発のためには大岸壁を崩していかざるを得ないので、例のカリ・ガンダキよりも道路開発が困難だろうと思っていたところ、今回の調査直前に、南北方向のマルシャンディの峡谷がチャーメまで車(ジープ)が入ったというニュースを聞いて、大いに驚いた。GPSもうまく機能しない大峡谷なので、これまでの4回の調査行で、まさかそんなに早く道路が開通するとは思いもよらなかったからである。
右岸側の大岸壁を発破で打ち砕く際には、従来の左岸側の道は通行禁止となり、発破による右岸の岩壁破片が左岸の村にまで飛んで来て、閉村に追い込まれたところも出ているほどだった。発破による岩屑は垂れ流し放題で、河川環境を著しく損なっているとともに、このような工法では、前項の森林資源の視点に立てば、当然のようにむごたらしい森林破壊をともなうが、住民は一向に気にしている気配がないようだ。
開通で利益を得る道路沿いの村とマルシャンディ左岸側に取り残された村との乖離。車による輸送で、職を失うポーターやロバによる物資輸送に携わる人たち。このまま、さらに上流まで道路が延びれば、従来3週間近くかかったアンナプルナ一周が2日間で済んでしまうという。以前なら、ヒマラヤ山中入る時は小銭を多量に用意したものだが、今回は高額紙幣の1千ルピー札をだしても、文句を言う人はいない。恐ろしいほどの大きな変化だ。この調子では、クンブのナムチェバザールまでさえ、車で行けるようになるかもい知れない。われわれもジープを利用したので、ベシサハールからダラパニまで従来の3日間がわずか4時間、ポカラから3日かかったツラギ氷河・湖の調査出発地点の村ナチェまでも、わずか1日で到達してしまった。ツラギ氷河・湖への谷でも、ビンタンへのドゥドゥ・コーラの谷でも、道路標識が整備されつつあり、かつての木橋が鉄の橋に改良されている。入山者が増えているためであろう。
だが、現在は乾期で、道路浸食は目立たなかったが、夏のモンスーン雨期のマルシャンディ谷沿いの激しい雨に叩かれれば、いたるところで浸食がすすみ、手がつけられなくなるかもしれぬ。カリガンダき沿いの道路などでは、毎年のように土石流などによって、道路が寸断されているのだ。当然、自然からのしっぺ返しがあることを十二分にも心得ておかねばなるまい。
トイレ問題は人口圧が少ない時は、自然の回復力で解決できるが、一定の値を超えると、環境への負荷が大きくなってしまう。村人が夏の放牧場で暮らす限りはトイレ問題は発生しないが、トレッキング・グループが土壌浄化に期待している簡易トイレも量が増えてくると、環境への負荷が問題になってくる。最近特にマナスル一周トレッキング基地になっているビムタンは高度が富士山頂ほどで気温が低いため、土壌浄化機能も十分に働かない。そのため、クンブのナムチェバザールなどと同様に、トイレからの土壌浸透で地下水を汚染し、住民の飲用水源にまで影響を与えるようになる。
ビムタンでもナムチェバザール同様、大規模ホテルが建設されているが、その土地の自律的環境回復力に見合った規模の開発にとどめておかないと、自業自得的に、やがては自分たちの首を絞めることになりかねない。適正開発規模の要請とともに、人口圧の調整の観点から、入域人数の制限なども視野に入れた総合的な環境対策が必要な段階に来ている。
1.雪男
ツラギ氷河湖調査は2008年以来今回で5回目であるが、こんな話は聞いたことがなかった。今年6月にツラギ氷河湖に雪男が出たというのだ。毎回世話になっているナチェ村のガム・バハドゥール・グルンさんは、冬虫夏草入のロクシを飲みながら興奮気味に話してくれた。グルン語ではモゥーというそうだが、彼はイエティと表現していた。全身黒いが、白い尻尾がある。上半身は熊、下半身が人で、二足歩行するという。氷河湖に浸ったあと、モレーンを超えて行ったというが、実際に見たのは彼ではなく、ミン・ラムさんたちで、4・5日たってからも再度現れたそうだ。ちなみに、ミン・ラムさんたちが写真を撮ったかと聞くと、本気で信じているガムさんは、イエティはパワーがあるので、写真には映らないのだという。もし本当なら、すばらしい発見物語になることは間違いない。2.野鳥料理
ビムタン下流のブルディン・コーラでの岩石流調査を終え、ビムタンに戻るところで、ポーターのバラートさんがチルマと呼ばれている標高3700m周辺のダケカンバ林に生息する鶏ほどの大きさの赤と青黒い色の野鳥の群れを見つけた。彼が石を投げると、まさかとは思ったが、一羽に当たったようだった。さっそく彼は荷物を放り出して、バタついている野帳めがけて突進し、見事手で捕まえてしまった。ビムタンの小屋に戻る道中で出会った地元の人たちもバラートさんの見事な技を褒め称えていた。
小屋に戻ると、馬子のサガールさんがすぐさま毛をむしり、ストーブで皮を丸焼きにしながら、刃物は使わずに、両手だけで脚を切り離し、次には胸を開いて、内蔵部分を血で手を染めながら、臓器ごとに分別していったサガールさんの手さばきにも、石で射止めたバラートさん同様、感心したものだった。サガールさんはチルマの分別が終わると、ストーブの上の針金に、手際よく干し並べ、今宵のロクシの酒の肴にしましょう、と言ってくれた。味は、地鶏のようなしっかりした歯ごたえのある、噛めば噛むほど旨みが出てくるような感じがした。
今回の13日間で撮った写真枚数は3414枚であった。1日平均、263枚。以前と比較すると、1日7本ものカラースライド写真を撮っていたことになる。かつては多くてもせいぜいカラースライド1日1・2本だったから、デジカメになると3倍以上の撮り方だ。美しいものはとりたくなるのはいたし方ないだろうが、何でもかんでも撮ったことで満足しがちになり、フィールド・ノートの記載量が少なくなっているのは気がかりなことではある。
これまで撮りためたデータベース<http//picasaweb.google.com/fushimih5>には9万5千枚ほどの写真が掲載されているから、今回の調査で10万枚近くになるだろう。マチャプチャリ峰だけでも8594枚あるが、現在ポカラに滞在し、連日マチャプチャリの美しい姿を見ていると、多分9000枚程度には達してしまうであろう。そうすると今後も、写真1枚1枚のキーワード付が待っていることになるが、さらにデータベースを構築していただいている干場悟氏にはまたまたご苦労をおかけしなくてはならないのが気がかりでもある。
カトマンズからポカラに行く時はバスを利用しているが、窓から見る景色をいつも楽しみにしている。GPSの軌跡ルートがあれば、ルートマップとして使える。川の色の変化や土地利用の特徴などをデジカメで写真を撮ると、写真をGPSのルートマップに載せることができるので、氷河の粘土を含んだいわゆるグレーシャー・ミルクの流れがどこで変化するのかなどが分かる。
以前は、揺れるバスなどの車の中でフィールドノートをとっていたが、最近はもっぱらGPSとデジカメに頼よるようになっている。
4.馬の旅
今回の旅行後半はマルシャンディ川支流のドゥドゥ・コーラにあるティリチェを基点とする調査になった。そこは友人の古川宇一さんが1970年代に長期滞在して、文化人類学的調査を行った村である。ティリチェ村のコマール・ギャレさんは、ぼくが古川さんの友人であることを知っているので、ビムタン地域への3日間の調査旅行に白馬を提供してくれた。ヒマラヤでの白馬にまたがった調査とは、いやはや、贅沢なものであった。ただ、馬がどんどん進んでいってくれるので、シャッター・チャンスをのがし、写真枚数が少なくなったようだ。その点、デジカメの罪への対応をある程度はしてくたようだが、フィールド・ノートの記載量がさらに減ったことも間違いないようだ。
ナチェ村からツラギ氷河・湖への途中に、マナスルとアンナプルナ両峰が見渡せる3000mのジャガイモ畑と放牧地が広がるゆるやかな高原があるので、4年前ケルンを積んで、友人の瀬戸純さんの分骨をしたのに引き続き、その翌年、先輩の宮地隆二さんの分骨も行い、調査の都度、良い香りのするビャクシンを炊き、香煙がヒマラヤの神々に届くように、今回もお参りをしてきた。ちょうど、ヤクの群れが分骨場に集まっており、逝かれた方々を守っているような気がした。
実は、今回の調査に当たっては、家に遺言を残してきたことを白状します。
「遺言 死亡通知は出さずに、葬式は内々で行うこと。墓も戒名も不必要、香典や花輪は断ること。後日、ヒマラヤに散骨し、何回忌などもしないこと。(2012年10月15日 伏見碩二)」
最後に
実のところ、調査3日目までは腰痛があり、古希を1つ過ぎた体には心配のタネであったが、その後回復し、腹が細くなり、体重が減ると、なんぼでも歩けるような気がするほど快調になった。ヒマラヤの神々のお陰かもしれない。調査の最終段階では、かつてシェルパの友人たちが紙を使わずにトイレをするのをうらやましく思っていたものだが、自分のも、太いソーセージと言ったらよいか、犬のような密度の高いシェルパ的なものに変わると、肛門がきれいさっぱりで、紙を必要としなくなったのには自分ながら驚いた。このぶんでは、もう少し行けそうな気がしているので、来年は、懐かしのクンブのギャジョ氷河やホングの谷などにも足を伸ばしたいと思っている。
最後になるが、旅も終りに近づいたティリチェで会ったニュージランドのCryo-Biologistのシャムさんが、「あなたのやっていることはHobbyですね」と言ってくれたから、「Yes, I am enjoying my hobby.」と答えておいた。今後は、あと数日間、ポカラ湖沼群保護の国際湿地会議に参加するとともに、ネパールを離れてからは、インドネシアのトバ湖とミャンマーのヤンゴン周辺の水郷地帯を見たうえで、改めて、2012年秋の旅の全体をまとめてみたい。それでは、皆さま、ナマステ!
(2012.11.07 マチャプチャリなどが素晴らしいポカラにて記す)