2017年ネパール通信5 ランタン村周辺の雪崩災害と災害地形などについて
1)ランタン村周辺の雪崩堆積物について
* 2017年ネパール通信4
「ランタン村周辺調査の予察的速報」
https://glacierworld.net/travel/nepal-travel/2017-2/2017-4/
1975年にランタン谷の調査に行った時はトリスリ・バザールがバスの終点で、谷の出合のシャプルー(写真1)まで3日ほど歩き、また1997年の時はドゥンチェからシャプルーまで1日歩いた(時期は夏の雨期で、断層地帯であるためドゥンチェ周辺の崩壊地をバスが喘ぎながら昇っていく恐怖の道だった)が、今回のバス道は谷の出合を超え、舗装道路がさらにチベット国境方面まで通じていると言う。噂によると、中国からの鉄道がチベットの国境を南下して、トリスリ川沿いにラスワやトリスリ・バザールを経て、カトマンズまで通じるというのだ。ラサ鉄道がひかれたときも驚いたものだが、ヒマラヤ超えのカトマンズ鉄道にはさらにびっくりだ。
バナナやサボテン(ユーフォルビア)のような乾燥した熱帯的なシャプルー周辺から苔むした森林地帯の入り口であるバンブー(名前の通り株状に群生した竹や笹がモス・フォーレストの下生え)をへて、2日目にはU字谷のゴラタベラに到着すると、目指すランタン村を覆う雪崩堆積物が望見できる(写真2)。
2015年4月25日の雪崩発生当時は、雪崩堆積物がランタン村からランタン川を覆い、対岸まで達していたが、今回はランタン川が堆積物中の氷を融かし、右岸側の雪崩堆積物本体と左岸側の雪崩堆積物末端部とが分離していた(写真3)。しかも、雪崩堆積物中の氷は、下位のA層と上位のB層とに、つまり2回の雪崩発生による氷層が堆積していることをはっきりと示していたのである(写真4)。第1回目の雪崩は、現地にいた大阪市立大学のランタン・リ峰登山隊の報告で、地震直後の正午ごろにランタン・リ峰頂上部が崩れ、雪崩をひきおこし、ランタン村を襲ったことが分かっているが、はたして第2回目の発生時期はいつであろうか。また、B層上部の融解層の厚さ、つまりB層の表面が融けたことを示す草付き斜面(B0)からB層表面までの比高がわかれば、雪崩発生からほぼ2年間の融解量を推定することができる。従って、雪崩堆積物中の氷層が今後いつまで残っていくのか、も推定できるであろう。現地で以上を観察して、基本的な調査方針が固まった。ランタン村のテンバ・ラマさんによれば、ランタン川の対岸まで覆っていた雪崩堆積物は2016年10月にランタン川を境に分離したとのことで、分離以前に現地調査をしたら、今回のように雪崩堆積物中の氷層を観測することは難しかったことであろう。今回のように分離後に現地調査でき、雪崩堆積物中の氷層をつぶさに調査できたことは幸運であった、というべきであろう。雪崩直後の2015年5月は、個人的なことだが、心臓手術直後で現地調査は難しかったことを考えると、フィールド・ワークでも何が幸いするのかについて、偶然といえば全く偶然に得た雪崩堆積物の今回調査のチャンスではあったが、考え深いものがある。
そこでまず、 雪崩堆積物全体を俯瞰するために、南側のモレーン地形上の上部(写真5のD地点)でゆっくりと昼食を取りながら、パノラマ写真を撮り、全体観察を行った(写真6のパノラマ写真の上は写真5のE地点から、中の写真は写真5のD地点から撮影)が、パノラマ写真でも分かるとおり、ランタン村の家々が僅かに上流部に小さく見える程度で、雪崩堆積物の規模の大きさに圧倒されものである。雪崩堆積物表面には、写真5のB地点を起源とする小川が流れており、雪崩堆積物中央部の2つの池(Pond1とPond2)を通り、Pond2で地下に浸透していた。ランタン村と下流のチャムキ村に通じる踏み跡が雪崩堆積物中央部のPond2周辺を通り、雪崩堆積物を横断すように、ランタン川に平行についている。なお、写真6したのパノラマ写真は写真5のB地点から撮ったもので、雪崩堆積物上のPond1が見えている。
写真6 ランタン村の雪崩堆積物のパノラマ写真。上部2枚の写真が3月30日、下のが3月31日に撮影された。
ランタン川左岸に分離された氷塊には4つが認められ、右岸の雪崩堆積物本体と区別し、上流からAS1~AS4と識別した(写真5と7)。また、B層表面の融解を示す草付き斜面下限B0から残存するB層表面までの比高は10m程度であることが分かった。雪崩堆積物形成時からほぼ2年間たっているので、単純計算で、年間融解量は5m程度であることが推定できた。 そこで、雪崩起源のランタン村上部の谷からは落下物がほとんどないとの住民の話から、上部の谷の残留堆積物は安定化しているものと解釈して、3月31日に雪崩堆積物上を上流から下流まで、安全に注意しながら、できるだけ歩き回って詳細調査をすることにした(写真8)。
まずは、層位学的調査の基本として、ランタン川右岸のランタン村を覆っている雪崩堆積物本体の氷塊と分離した左岸の氷塊のA層とB層の対比を行った。両岸に分布する氷塊はともにA層とB層によって構成されており(写真9)、雪崩堆積物全体に共通する基本的構造だ、と解釈できるとともに、そのA層とB層の境界構造も認識できた(写真10の矢印)。さらにこの露頭でも、2年前の雪崩堆積物が最初に覆っていた表面を示す左岸の草付き状態が回復していない地点(B0)が連続的に現れており、現存するB層上部との比高が10m程度であるので、前述のように、2年間のB層上部の低下量はB層の融解量になり、単純計算だが、年平均5m程度と推定できた。
2017年ネパール通信4「ランタン村周辺調査の予察的速報」*で報告したように、雪崩堆積物中のA層については2015年4月25日正午ごろのネパール地震発生直後に形成されたのであるが、B層に関しては、 伊藤陽一ら*によると、5月12日の大きな余震の際に雪崩が発生したと報告している。ところが、住民に聞くと、5月12日には雪崩は発生しなかったが、実際は5月2日の11時頃にに雪崩が発生したとのことである。ネパールの地震局の資料によると、5月2日11時20分のマグニチュード5.1の比較的強い地震で、第1回目の雪崩後に取り残されていた不安定な堆積物が流動化し、2回目の雪崩を発生させたと解釈できる。なおその後は、ランタン村上部の雪崩発生地域の堆積物は安定化したため、5月12日のマグニチュード6.8の大きな地震でも、雪崩を引き起こさなかったのであろう。
*伊藤陽一・山口悟・西村浩一・藤田耕史・和泉薫・河島克久・上石勲 (2,016) 2015年ネパール地震時に発生した雪崩の被害と積雪深の関係.
上記の第2回目の雪崩発生時刻に関しては、地元のセン・ノルブさんの話をもとに、その引き金に余震データをみて、11時13分にも弱い余震があるが、11時20分の強い余震の発生が原因になると解釈したのであるが、連続的に発生した2つの地震があたかもダブルパンチのように効いた可能性もある。また、地元のテンバ・ラマさんにカトマンズで聞くと、 第2回目の雪崩発生時刻は5月2日の午後3~4時であったという。ただし、下記の5月2日の余震データ*をみても、その時刻には引き金になる余震は観測されていない。はたして、引き金になる原因をいかに解釈したら良いのであろうか。いずれにしても、第2回目の雪崩災害の発生日に関しては5月1日という人もいることに加えて、発生時刻に関しては午前と午後の2説があるように、地元の人々によって異なり、その記憶が薄れてきてると思われるので、正確な記録をとどめておく必要を痛切に感じる。
記
Date Local Time Latitude Longitude Magnitude(ML) Epicentre
2015/05/02 21:01 27.66 86.01 4.1 Dolakha
2015/05/02 11:20 28.24 84.76 5.1 Gorkha
2015/05/02 11:13 27.72 85.74 4.0 Sindhupalchowk
2015/05/02 09:32 27.93 85.50 4.2 Sindhupalchowk
2015/05/02 05:55 27.74 86.28 4.3 Dolakha
2015/05/02 03:55 27.95 85.73 4.2 Sindhupalchowk
* Recent Earthquakes
http://www.seismonepal.gov.np/index.php?action=earthquakes&show=recent
さらにテンバ・ラマさんの話によると、大きな余震があった5月12日は、やはり雪崩はなかったが、強風が吹いた、とのことである。このことも、その引き金は不明であるが、記録にとどめておく。
テンバ・ラマさんとは、ランタン・プランの貞兼さんも同席のウツセ・ホテル屋上で、今回の調査結果データをテンバ・ラマさんに提供したうえで、住民やトレッカーへの情報発信の場として、ランタン村のコミュニティ・ハウスを利用し、今回の調査結果をはじめ、関係者の発表済みの資料に加えて、また貞兼さんたちの日本での展示資料を住民やトレッカーへ分かりやすく広報することを提言したところ、快諾していただいた。カトマンズにつくるヒマラヤ地震博物館構想*の一環として、ランタン村にはヒマラヤ災害情報センターを設置する構想を考えているが、実現には時間がかかると思われるので、まずはランタン村の現地活動をできることから始めてはどうか、と考えている。
* ヒマラヤ地震博物館(Himalayan Earthquake Museum)の計画
上記のヒマラヤ地震博物館とも関係するネパール側の「ダラハラ計画」*については、Nepal Reconstruction Authority(NRA)のBhishma K. Bhusal博士に4月10日に話を聞いたところ、ネパール人の寄付に加えてNepal TeleCom(NTC)が大口の資金をだし、NRAとNTCおよびネパール考古局の三者が2ヶ月後に全体として30億ルピー規模の契約をすることになっていると言うので、ヒマラヤ博物館構想も「ダラハラ(ビムセン・タワー復興)計画」に組み入れてくれるようにお願いしたが、この大規模プロジェクトがうまく進んでいくことを願うばかりである。また、ランタン村でのヒマラヤ災害情報センター構想に即した活動については4月12日にJICAカトマンズ事務所長の佐久間潤さんに会い、相談したところ、ネパール側のニーズが充分にあれば、JICAでも検討したうえで、短期間のボランティア-を来年度派遣する可能性は考えられるということなので、5月にポカラの国際山岳博物館へ行く時にネパール側関係者ともこの件で相談したいと思っている。
ランタン川左岸の最上流の氷塊(写真5と7のAS1)には急崖があり近づけなかったので、双眼鏡で観察すると、この地点でも当初の雪崩堆積物表面を示す草付き斜面が回復していないB0地点が連続的に認められる(写真11)とともに、日陰になっているA層の氷塊中には巨礫を含む岩砕が散在していることがわかった。
ホテルの建物などが急増する雪崩堆積物周辺部(写真5と8のA地点)のランタン村付近には氷塊はないが、A層の岩砕層(デブリ)の上をB層の岩砕が薄く覆っている(写真13)。このような岩砕層が、またいつ何時、襲ってくかもしれないので、要注意である。そのため、日本の防潮堤ほど大規模でなくとも、デブリの襲来を防ぐ石壁(堰)が必要になるのではなかろうか。そのための重機は、自然破壊を引き起こす大規模な氷河湖対策に使用するのではなく*、このようなランタン村にこそ必要なのではなかろうか、と指摘しておきたい。また、雪崩堆積物上部(写真5と8のB地点)いは流水があり、ランタン村の取水場になっている。そこから雪崩堆積物表面を流れる小川が下流の池(Pond1)に続いていくのが眺められた(写真14)。
* 2015年ネパール春調査(5)
カトマンズ大学にて(2)
1)ネパール地質学会
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015/04/blog-post_17.html
雪崩堆積物上部(写真5と8のC地点)には雪崩跡を示す20m四方の雪渓(写真15)があり、積雪期には雪崩が発生していることを示している。現在のところは、ランタン村上部の雪崩発生源地域の残留堆積物が安定化しているにしても、雪崩の流路になった地域(写真16の左上写真に示す下向きの長い矢印)の稜線部分には懸垂氷河(赤い点線内)があり、貞兼綾子さんが指摘するように、懸垂氷河が落下してくる危険性も考えられる。そこには、懸垂氷河落下を受け止める16世紀の氷河のモレーン堆積物があるが、その内部に湖が形成されるようになれば、懸垂氷河の一部分でもが直接湖に落下し、そこで生ずる津波がモレーンを破壊して、氷河湖決壊洪水(GLOF)が村を襲う災害には将来注意を要する、ことを指摘しておきたい。そのような災害を防ぐためには、雪崩堆積物周辺には新築家屋を建てないことだが、残念なことにすでに新しいホテルなどを立ててしまっているので、対症療法的には、前述したように、日本の防潮堤のような石積みの堤を築くしかないであろう。
2) 氷河地形について
ランタン川との出会いに位置するシャプルーはV字谷の峡谷であるが、その上部にはU字谷の地形が認められる(写真17)ので、かつてのランタン谷に広く発達した大規模氷河によって形成されたU字谷(写真18)がトリスリ川のシャプルー下流にまで連続的に分布している、と解釈できる。シャプルーから歩きはじめて2日後にゴラタベラに近づくと、ランタン谷のU字谷の谷底はモレーン堆積部に覆われ、U字谷の一部では崖錐地形が発達し、大規模な落石地帯になっている(写真18)。
写真18 ゴラタベラ下流のU字谷とモレーン堆積物、崖錐(Talus)写真18 ゴラタベラ下流のU字谷とモレーン堆積物、崖錐(Talus)
ゴラタベラ周辺では巨礫をふくむ角礫を粘土が充填する氷河性堆積物(モレーン)が分布(写真19と20)し、かつての氷河末端がこの周辺に位置していたことを示している。
3) 災害地形について
ゴラタベラでは、地震時の落石で壊されたゴラタベラの民家(写真21)の近くで、地震時の落石で壊されたホテルを同じ場所に再建している(写真22)、と思われるのはどうしたことだ。災害から何も学んでないのは、ランタン村の新築ホテルにも見られる残念な現象である。特別な理由がない限り、このようなホテルに泊まるのは遠慮したいところだ。
ランタン谷の調査の最初と最後に泊まったバンブーも背後の急崖からの落石災害の可能性の高い地点(写真23と24)であるが、次の宿泊地まで到達できなかったため、しかたなく一泊せざるをえなかった。
ランタン谷では100%安全な地点を見つけるのが困難なくらい、落石など(写真25)のさまざまな災害が発生する可能性がある。 2015年春の地震およびその後の余震で地震災害が強調されるが、もとを正せば、ヒマラヤを東西に横断する断層帯(Main Central Thrust)が分布しているので、地すべり地帯(写真26)や崩壊地形がいたるところに分布する自然災害と共存しなければならない地域なのである。
4) おわりに
ランタン地域の調査については、1975年*のほかに、1997年夏に滋賀県立大学の学生たちとキャンジン・ゴンパまで行き、現地に滞在していた名古屋大学の藤田・坂井両氏にお世話になり、デブリに覆われたリルン氷河下流部を学生たちと巡検することができ、両氏には大いに感謝している。その時は、個人的なことだが、狭心症の病み上がりで、薬漬けの生活から脱出するために、精神的な開放を求めてヒマラヤの神々の座を拝みに行ったのである(その効果はあったようで、その後、薬漬け生活から開放された)が、今回は、2年前の地震直後の現地調査が心筋症の手術直後のため、カトマンズ大学にいながら、ランタン・プランの貞兼さんや山形・弘前両大学の八木・桧垣両氏たちのヘリコプターによる現地調査にも加わることができなかったのは残念なことであった。そこで、カトマンズ大学のリジャンさんに代わりに行ってもらわざるをえなかったので、今回の自分としては、いわば捲土重来をきして、(大げさだが)弔い合戦のような心持ちだった。幸いなことに、4000m以上まで登り、調査することができたので、上記の「2017年ネパール通信4」に書いたように「心臓を手術していただき、4163mまで登ることができるように回復してくださった三菱京都病院名誉院長の三木真司先生」には重ねて感謝するとともに、今後はなんとか、5000m台まで登りたいものだ、とひそかに思っている。
*追悼 五百澤智也さん
-ランタン谷の思い出-
*2017年ネパール通信3(写真報告)
「カトマンズ大学にきました」
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2017/03/blog-post.htmlところで、前述のライト・エクスペディションの最終的な支出合計は22106円となり、1割ばかりオーバーしてしまった。事前にとられる「Trekkers’ Information Management System(TIMS)」の20ドルに加えて、現地で軍人がたむろするチェック・ポストで「National Park/Reserve/Entrance Permit」と称する3390ルピーの金額もとられたのは痛かった。これらは、もともとの「Trekking Permission」の性格があるので、もともと1つのものを2つに分けて、1つは事前に徴収し、2つ目は入山直前に取るという仕組みを作った(悪)知恵者の二重取り方式ではないのか、と勘ぐりたくなる。上記22106円はネパールの金額で19895ルピーになるので、2万ルピー以内に抑えたということで、ヒマラヤの神々の座にライト・エクスペディションの申し訳がたつかもしれない、と逃げの手を打っておく。とにかく、ランタン谷の出会い近くに設置されたチェック・ポストの軍人たちに「支払い拒否」はできず、否応なしに払わされるのだから、せめて、国立公園保護「National Park/Reserve」のためにちゃんと使ってくれているのを願うばかりである。ひょっとすると、これも上記の「2017年ネパール通信4」で書いたように、ランタンの「旅の有終の美」」の出来事として、旅の垢をとり、疲れを癒やしてくれたパヒロの温泉はこれらの資金からでているのかもしれない、などと彼らに好意的に考えたりもしたのだが、はたしてどうか。
―Environmental Changes of the Nepal Himalaya― SCHEDULE http://environmentalchangesofthenepalhimalaya.weebly.com/schedule.html