2. 2013秋調査旅行余話(1)

2013秋調査旅行にくわえて、2013秋調査旅行余話をお送りしますが、余話と写真の数がが多いので、2回に分けてお送りします。

1.表層雪崩

 

 写真1 チョラ峠の表層雪崩地帯を行くトレッカー

 

 写真2 チョラ峠の下りの雪崩の雪塊(デブリ)地帯
10月中旬の大雪の影響のひとつが雪崩です。今回の踏査中にも雪崩地帯を通過しました。クンブ氷河からゴジュンバ氷河へ越えるチョラ峠では、表層雪崩とは知らずにトレッカーが、雪崩現場を通過していました(写真1)。写真のトレッカーの50mほど上の急な積雪斜面には表面の雪面が切れて落下した表層雪崩の跡が残り、さらに上部からは次の表層雪崩が発生する可能性もあります。私たちもチョラ峠の下りでは、急な斜面(ルンゼ)から落ちてくる雪崩の雪塊(デブリ)地帯を通過せざるをえませんでした(写真2)。10月中旬の大雪直後には、ルクラ東部のメラ・ピーク周辺では4名ほどの人が雪崩でなくなりましたし、10月下旬にチュクンにいた時には、韓国隊が雪崩遭難にあい、救助用ヘリコプターが飛んだという話も聞きました。ヒマラヤの岩石斜面では(岩石のない急な斜面を除いて)全層雪崩は発生しにくく、積雪表面の表層が滑り落ちてくる表層雪崩が降雪直後には一般的です。1995年11月の大雪の時に、日本人トレッカー20名以上が巻き込まれたパンガ(文献)でも表層雪崩だったのではないか、と今回改めて思いました(写真3、4)。日本でもそうですが、ヒマラヤでも、大雪の時は雪崩の可能性がありますので、1995年の日本人トレッカーように斜面直下のロッジの宿泊は避け、雪崩被害を避けるためには斜面から十分に距離をとることが必要です。また今回は4本爪のカンジキをもっていきましたので、堅い雪面の下りなどには大いに助かりました。

 

写真3 パンカの雪崩災害地帯

 

写真4 1995年のパンカ雪崩の災害地点

文献

ネパール・クンブ地方1995年パンガ雪崩報告. 1996, 雪氷,日本雪氷学会, 58, 2, 145-155.

2. ナー集落の2段テラス(2回の出水時期)

前便でもお伝えしたように、40年前のゴキョウでとられたゴジュンバ氷河の写真には、かつての氷河からの出水でモレーンの一部が浸食されている様子が写っています(写真5)。このような地形は広く見られ、対岸のタンナグ周辺の左岸モレーンにはゴキョウと同じような出水による浸食地形が分布します(日の当らぬ左岸モレーンが波打ち、凹部が浸食されていることが分かる;写真6)。また、ゴジュンバ氷河末端モレーンに位置するナー集落には2段の段丘(テラス)が分布している(写真7)ことから、18世紀の氷河拡大時期以降、ナーのテラスを形成した出水が少なくとも2回あったことを示している。

 

写真5 40年前のゴキョウ

 

 写真6 タンナグ周辺の左岸モレーン

 

写真7 ナー集落に見られる2段の段丘(テラス)

3.エベレスト峰の高度を決める要因(花崗岩貫入と地衣等などの影響)

 

 写真8 ヌプツェ峰の南面の大岩壁に見られる花崗岩体

 

写真9 北側のチベット側に傾いている地形のチョモランマ峰
チュクン周辺からは、ヌプツェ峰の南面の大岩壁に白い半球状の花崗岩体が見られます(写真8)。この岩壁の高さは4000mほどありますので、富士山がすっぽりと入る大きな高度差のある大岩壁です。花崗岩は、写真上部の両峰頂上部付近の堆積岩よりも密度が小さく(軽い)ので、地下深くから上昇し、山脈をもちあげるため、地球上の各山脈の中心部に分布するといわれています。
チョモランマ(エベレスト)峰の高度を決める要因は、樋口(1976)によると「エベレストの高さ約9千メートル、圏界面の高さ約一万メートル。ざっと似た値である。造山運動によってじわじわと盛り上がってきたヒマラヤの高峰はこの圏界面のはげしい風化作用で削られる。だからエベレストは圏界面よりも低く8848メートルなのではないか。もし圏界面がもっと高かったらそれに応じてエベレストも今よりずっと高いかもしれない」と述べていますが、まず上昇させる要因としては、大陸移動でインド亜大陸とアジア大陸の水平方向の衝突による衝上(逆)断層の影響のほか、前述の花崗岩の垂直方向への貫入の影響があります。また逆に、高度を減少させる要因は、正断層沿いのチベット側への頂上岩体の滑落と浸食作用の影響です(写真8)。ギャジョ氷河から見た画像(写真9)を見ると、他のヒマラヤの山々でははっきりとは見られませんが、エベレストの南側が花崗岩で持ち上げられて、北側のチベット側に傾いている地形が認められるのは、衝上(逆)断層とともに、ヌプツェ峰直下の花崗岩の貫入と頂上近くの北側に傾いた正断層の活動が相互に影響している、と考えられます。

写真10 地衣を代表する黒いテープをはった温度計は夜間は零下で、日中は零度以上になる。

浸食作用に関してはブータンのルナナ地域(4539m)での観測結果から(写真10)、とくに観測期間後半の晴天日に顕著に表れるように、次に述べる黒い地衣の影響が大きいことが分かりました。というのは、花崗岩を代表する白いテープをはった温度計は8000m高度に換算した温度変化では一日中零下を示しましたが、地衣を代表する黒いテープをはった温度計では、夜間は零下ですが、日中は零度以上になるため、黒い地衣が分布すると、日中融けた水分(写真11)が岩石の隙間に入り、夜間に凍ると、氷の体積膨張で岩石を破壊し落石を起こす浸食作用が働き、ヒマラヤ山脈の高度を低くすると解釈できます。白い花崗岩が多いヒマラヤ山脈中央部ですが、温暖化の進行とともに、黒い地衣類が高いところへ進出する過程(写真12)はますます活発になっていくことでしょう。今のところ黒い地衣類はエベレストの頂上には到達してはいませんが、温暖化で頂上の雪が融けるとともに黒い地衣類が頂上を覆うようになると、浸食作用が盛んに働くようになることでしょう。逆に白い花崗岩では8000mの高所でも一日中マイナスの温度ですので、このプロセスは働かないと考えられます。余談になるかもしれませんが、エベレストの登山の歴史ではたくさんの方々が命を落とされ、今でもかなりの人が冷凍状態で保存されていますが、将来は地衣類をはじめ微生物などが高いところへ進出しますので、ヒマラヤの高地でも分解がすすみ、今までの様な冷凍状態で保存されることはなくなると解釈できます。
前述のように、 ヒマラヤ山脈の高度を決めているのは、上昇・下降要因のそれぞれが影響しますので、一つの要因だけでは決められないのですが、2011年9月にはチョモランマ峰周辺で、シェルパの村の家に被害でるほどの地震があったとのことですので、その際世界最高峰は高度を変化させたかもしれません。ヒマラヤは絶えず変化し続けていますので、正確な測量が必要になります。木崎(1988)隊が中央ネパールのカリガンダキ河沿いで測量した結果、ヒマラヤ山脈の現在の上昇量は10mmに達する、と報告されています。


写真11 日中融けた水分が岩石の隙間に入り、夜間に凍ると、氷の体積膨張で岩石を破壊する。

写真12 白い花崗岩の地肌もやがて黒い地衣に覆われる。
数万年前の最終氷期から現在までの間の上昇量が、日本アルプスなどでは数百mと考えられているのに対して、ヒマラヤでは、それよりも1ケタ大きい1600mと見横られている(郭,1974)。約百年前に測量された世界最高峰のチョモランマの高さ8848mと最近の人工衛星を使った高度8850mを比較すると、チョモランマは百年間に2m、つまり平均的には、1年間に2cm上昇してきたことを示唆し、大きな上昇速度の見積りとなっています(文献)。地球上の大山脈のなかでも、ヒマラヤの高度が他の山脈よりもはるかに高いことは、浸食速度を一定としても、まずもってヒマラヤの上昇速度がはるかに大きいことを示しているのは間違いないでしょう。ヒマラヤをふくむチベット高原を中心とする内陸アジアは、新生代後期からの地形変化が地球上で最も大きかった変動帯です。 この内陸アジア変動帯の大きな地形変化は、この地域の気候条件などに大きな影響を与え、郭(1974)は「最終氷期以後数万年の間に、ヒマラヤの平均高度が4500mから6100mになったので、南方からの水蒸気輸送がグレート・ヒマラヤによってさまたげられるようになり、チベットは大陸性気候となった」と報告しています。
文献
郭旭東 (1974) 中国西蔵南部珠〓(ノギヘンに白の下にタ?)朗〓(王ヘンに馬)峰地区第四紀気候的変遷. 地質科学,第1期, 59-80.
樋口敬二(1976) エベレストはなぜ8848メートルか. 朝日新聞1976年1月14日夕刊.
木崎甲子郎(1988)編著, 上昇するヒマラヤ.  築地書館.
ヒマラヤの自然史. 1983, ヒマラヤ研究, 山と渓谷社,179-230.

4. ゴキョウの水草とカモ(生物環境の変化)­

 

写真13) ゴキョウのロングパンガ湖の水草

 

写真14) ゴキョウのロングパンガ湖のカモ
去年報告しましたように、調査したマナスル峰西方のツラギ氷河湖末端の湖では水草が進出していました(参考文献)が、今回のゴジュンバ氷河周辺のロングパンガ湖でもバイカモのような水草が分布しており(写真13)、去年の報告で予想したようにカモ類の鳥が飛来していました(写真14)。詳しい種名などについては、水草の権威、滋賀県立大学の浜端悦治さんには標本を見てもらい、教えていただきたいと思っています。水草の進出や鳥類の飛来は、温暖化とともに、ロッジなどからの排水の影響で湖の不栄養化が進行している可能性も考えられますが、将来はカモ類などの渡りの中継地になっていく可能性もあるのではないでしょうか。またその他の従来から気になっていた大型の鳥では、今までは人にはあまり近づかなかったコンマとよばれているライチョウの一種(写真15)やネパールの貴重な国鳥ダーンフェ(写真16)がロッジの近くで見られるようになったのは、自然保護の理解がすすみ比較的安全になったうえに、ロッジ近くで食べ物にもありつけるようになったことがきいているようです。

 

写真15)ゴキョウのライチョウ

 

写真16)モンラのダ―フェ(ネパールの国鳥)
参考文献
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/ 2012年11月 2012年秋ネパール調査報告

5. 調査研究啓蒙活動(イムジャ氷厚測定と観測事情)

 

写真17) ディンボチェのニマ・テンジンさん

 

写真18)イムジャ氷河湖末端の氷縞測定結果
Khumbu Alpine Conservation Council (KACC)の活動の一環として、ディンボチェにはヒマラヤの環境問題に関する展示施設ができ、施設長はニマ・テンジンさん(写真17)が担当し ていました。彼の妹さんは私たちの友人の佐伯さんと結婚し、現在は立山の麓で「クムジュン」というレストランを経営しています。さてその施設ですが、クンブ地域の自然を写真で紹介するとともに、最近の成果としては、2012年5月に行われたUNDPのマルセロ・ソモスさんたちのイムジャ氷河湖末端の氷厚測定結果(写真18)が展示されていました。それによると、一番氷が厚いのは湖に近いところで50mほどあるとのことです。
クンブ氷末端のロブチェには、その形からピラミッドとよばれるイタリア隊の気象観測所があります(写真19)。シェルパ6人がその管理にあたっていましたが、気象のテーマのほかにも、大気汚染と関連する住民の健康問題も研究分野になっているとのことです。その他の研究施設としては、筑波大学の上野健一さんたちによるシャンボチェの気象観測(写真20)がありますが、前便でお伝えしたように電池の問題で現在は観測が中断しているとのことです。さらにゴキョウでは、金網に囲まれた気象観測施設を見ました(写真21)が、地元の人に聞きますと、「誰のか分からない。以前は政府の関係者がやっていたが、最近は時々外人が来ているようだ」とのことです。また、私たちが1970年代に氷河気象観測を行った次に述べるハージュン観測基地の近くにドイツ隊の気象観測施設がありますが、住民との関係がうまくいっていない、とディンボチェの住民がこぼしていました。誰のか分からないゴキョウの気象観測施設でも感じたように、長期間の調査研究活動をするには、現地住民の理解をえることが必要(参考文献)だと思います。

 

写真19 )ロブチェのイタリア隊気象観測所

 

 写真20) 上野健一さんたちによるシャンボチェ気象観測機器とラー・ニマさん

 

写真21) ゴキョウの気象観測所
参考文献
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/ 2012年9月 イムジャ氷河湖調査からの展望-住民参加型の現地調査の必要性-
http://glacierworld.weebly.com/ ヒマラヤ>ECO TOUR>4.Imja Glacier Lake

6.ハージュン観測基地

 

写真22) かつてのハージュン観測基地

 

 写真23) ハージュン観測基地と新たな石小屋
クンブ地域の氷河観測基地を作るために1973年4月にはじめてハージュンを訪れた時、かつての放牧小屋がありましたが、荒れはて、したがって夏の放牧時期でも放棄されているのではないか、と感じていました。我々は住民と相談し、そこを観測基地(参考文献)にしたのですが、住んでいた1970年代には、誰も苦情を行ってこなかったのをみると、放牧地としては利用価値がなくなっていたようです。しかし今回観測基地(写真22)を再訪すると、かつてわれわれが住んでいた石小屋は2つに分割されているのに加えて、周辺には新たな石小屋が3つほど建てられていました(写真23)。夏の放牧時期になると、5軒ほどの家族がハージュンに住み、ヤクなどの家畜の放牧をするようになっているのですから、1970年代にくらべて多くの家畜を養うほど、土地の生産力が高くなったのではないか、と解釈できます。地球温暖化とともに、牧草を育てる水分条件が好転してきたのでしょうか。

写真24) ハージュン基地の花崗岩の転石に掘った「GEN」の文字

今回訪れた時には、かつてのハージュン基地の玄関前で、花崗岩の転石に掘った「GEN」の文字を見つけました(写真24)。「GEN」の文字を掘った転石には覚えがなかったので、1970年代から世話になっているハクパさん(写真25)にメイルで聞くと、次のような返事がきました。「Well, it was curved around 1975 with SAKANAKA Tetsuo who were with me at Lhajung station for one sole year and said he was a KU student and Jiro san initiated to Lhajung ..after that Mr. Shibasaki were another long stayer . 」なお、写真2に写っているGPS測定器でハージュン基地の位置を測定るると、北緯27度53分43.00、東経86度49分31.08、高度4425mでした。
また、掘られた「GEN」の文字をみると、「G」や「E」の文字の一部に、だいだい色の地衣類が生えているところから、もともとは白色の花崗岩ですが、20~30年もすると、地衣類が侵入してくることを示しています。前記のエベレスト峰の高度を決める要因(花崗岩貫入と地衣等などの影響)で述べたブータンでの観測では、だいだい色などの赤系統の地衣類が最初に侵入し、その後に黒い地衣類に変化することを観察していますので、やがてハージュンの地衣類も周辺のタウチェ峰の岩壁と同様に(写真22)、黒い地衣類に変わっていくと、太陽の日射をより吸収し、周辺地域を温めていくようになる、と解釈できます。


写真25) ハージュン基地で気象観測をするハクパ・ギャルブさん 

さて、「GEN」の文字のいわれです。ネパールヒマラヤ氷河調査隊の英語名Glaciological Expedition of  Nepalの頭文字をとったものですが、Nepalの前に「of」があるのを奇異に思われるかもしれませんが、その訳を説明します。
ネパールへの山登りなどと同様に、1960年代から1970年代初めまでの調査隊の英名は○○Expedition to Nepalでした。直訳すると、ネパールへの遠征隊です。「遠征」という名前も時代がかった感じ(アレキサンダー大遠征ならいざしらず)ですが、当時の調査隊は遠征隊の名前として「Expedition」を使っていました。しかし、1973年になるとその題名ではネパール外務省への2カ月ちかい交渉でも学生による調査許可がもらえなかったのは、外国(日本)から来たよそ者によるネパールへの調査隊というニュアンスが強すぎたためだったようです。調査許可の交渉のためネパール外務省に日参しているうちに、ネパール人とのつきあいも深くなり、それにつれてネパール語が話せるようになると、私の考え方も変わり、ネパール人との共同調査の性格をより強く示すGlaciological Expedition of Nepalの題名にして、ようやく許可を取ることができました。さらに1980年代になると、氷河湖の決壊による洪水被害が頻発するようになり、共同研究も現地住民の安全を考慮したGlaciological Expedition for Nepalの意識が強くなり現在に至っています。このように「to Nepal」というよそ者の時代から現地のニーズをくみとりながら双方向的に課題解決を目指す「of Nepal」および「for Nepal」の時代に変化してきたことを現地での氷河調査を通じて経験してきました。そのようなネパールでの体験から、2008年から2010年までの2年間、ポカラにある国際山岳博物館(写真26)ではJICAのシニアーボランティアの学芸員として「for Nepal (Himalaya)」の観点で仕事をしてきました。参考文献
ネパール氷河調査隊ハージュン基地建設
http://glacierworld.weebly.com/4124931249712540125232770327827355192661938538124951254012472125171253122522223202431435373.html

・As a JICA Senior Volunteer(Advocating Environmental Awareness)
http://www.jica.go.jp/nepal/english/office/others/pdf/newsletter_58.pdf