ネパール2014春調査報告11 お世話になった現地の人々
さて、今回の「ネパール2014春調査」は終了しつつありますが、ネパールを去るに際し、現地で今回およびこれまでにお世話になった方々への感謝の意をこめて、思い出の一端を書きとめておきます。ただ、ここでふれなかった多くの方々からも、さまざまなかたちで支援していただいたことも記しておかねばなりません。
いつもお世話になるハクパさんからは今回の「ネパール2014春調査」の初めに際し、「April 01 is APRIL FOOL day, so nepal awune pakka ho? Welcome to your JIKKA any time!(エイプリフールだけど、来るの本当?あなたの実家へはいつでも歓迎!)とメイルで言われました。彼はネパールで最も古い友人で、彼については、1970年代のハージュン観測所と切っても切れない関係があります。
1973年の東ネパール・クンブ地域のハージュン観測所建設のの立役者は、ペンバ・ツェリンさん(資料1)ですが、1970年代半ばに彼の消息は突然不明となってしまいました。一説によると、英語・チベット語などの語学に堪能な彼はネパールの秘密警察に利用されたあげく、けされたのではないか、ともいわれているのです。1970年代のネパール情勢には、南のインドや北のチベット・中国、はては第3国までからんだベールにつつまれた部分があったのではないか、と思います。
そして、ペンバ・ツェリンさんの後をついだのが彼の義弟のハクパ・ギャルブさん(資料1)でした。彼の仕事は観測基地の整備や地元住民との折衝から食事のまかないをするとともに、日本人隊員が不在の時には、観測を実施し(写真1)、記録をとり、日誌をつけることまで、実に多岐にわたっていました。現在は、日本の丸新志鷹建設会社カトマンズ事務所長を勤め、西ネパールのカルナリ川農業灌漑大規模施設やカトマンズへ水を供給するメラムチ流域の道路開発、はてはブータンの道路開発まで手広く開発事業を進める責任者です。資料1
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写真2は孫娘のジェシカちゃんを抱くガム・バハヅール・グルンさんですが、ジェシカちゃんもすでに3歳近くになり、今回の調査が終了し、彼のナチェ村に帰り着くと、ジャガイモ畑の除草をしていた母親のもとを離れ、「おじいちゃん」と叫びながら、ガム・バハヅール・グルンさんのもとに駆け寄ってきた“おじいちゃん子”です。彼らのあいだでは、キリスト教ではないのですが、ジェシカちゃんのようなヨーロッパ風の名前をつけるのが流行のようです。ハイカラ趣味なのでしょうか。
さて、ガム・バハヅール・グルンさんには2008年の最初のツラギ氷河湖調査以来お世話になっています。マルシャンディ河中流の支流、ダナ・コーラ(川)の最奥の彼のナチェ村まで従来は3日ほどかかりましたが、今ではマルシャンディ河沿いの荒削りの道ができましたので、ポカラから1日で行けるようになりました。それに携帯電話の普及で、ポカラから前もって電話しておいたら、彼の村近くの道路沿いのダラパニ村まで迎えに来てくれました。今回のツラギ氷河湖BCで大雪に見舞われたとき、彼は夜中フライシート屋根の雪下ろしを続けてくれ、時々「これで道が消えてしまう。どうしたら下山できるのだろうか」と悲鳴を上げていましたが、さすがに土地勘が鋭いので、雪で消えた踏み跡の道を探し出し、迷うことなく、石小屋のあるダラムサーラまでわれわれを導いてくれました(資料2)。彼はぼくにとっては、ウスリー紀行のデルス・ウザーラさんのような人です。
氷河湖調査は天気の合間を縫ってやり遂げることができましたが、東ネパールのクンブ地域では16人のシェルパの人たちが雪崩で亡くなった時と同じ時期の雪の世界から脱出するという撤収の困難さを彼は救ってくれたのです。そういえば、ナチェ村の人が見たという雪男は見ることができなかったのですが、さすがの雪男も、われわれ同様、雪の世界から脱出し、温かい世界へと移動せざるをえなかったのかもしれません。
資料2
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ツラギ氷河湖の調査を終えた時はいつも、ヒマラヤの最後の夜をジャガートのエコ・ホーム・ゲスト・ハウスで過ごすことにしています。ここには主人のチェット・バハドゥール・グルンさんがいて、トンパと呼ばれる発酵したヒエにお湯を注ぎ、ストローで吸いながら飲む日本酒の熱燗のようなお酒(資料3)をいただきながら、旧交をあたためることができるからです。
彼もツラギ氷河湖の危険性を気にかけていたので、「氷河湖は小さくなっているので、大きな地震でもない限り、氷河湖の決壊洪水の危険はない」ことを伝えると、安心していたようです。彼の息子がネパールの新年の休みでポカラの寄宿学校から戻ってきていましたが、ポカラの国際山岳博物館に息子ともども見学に来るとのことでした。
そこで、再会を楽しみにしていたところ、チェ・バハドゥール・グルンさんが子供さんを連れて、国際山岳博物館を訪ねてきてくれたのです(写真3右下)。子供さんのユケシュさんがポカラの寄宿学校にいるので、見舞いに来たのですが、ぼくには大好きなトンパとロクシ(自家製の焼酎)を持って来てくれました(資料4)。聞くと、ジャガートの彼の村からポカラまでオートバイで約5時間もかかって、お酒をリックに担いで来てくれたとのことです。彼は山岳博物館の展示見物はそこそこに、「息子には日本語を習わせて、日本に行ってほしい」とユケシュさんの前で言っていました。彼はそのことを息子さんに言うために博物館に来てくれたのではないか、と思えるほどでした。 写真3右下は御酒を持って来てくれた彼と息子のユケシュさん)
資料3
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資料4
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1974年に「山岳博物館」構想をたずさえてポカレルさんを訪ねたところ、当時ポカレルさんはネパール山岳協会の理事をされていましたので、ネパール山岳協会長だったクマール・カドガ・ビクラム・シャーさんにとりついでくれたのです。クマール・カドガ・ビクラム・シャーさんは当時のビレンドラ国王のお姉さんのご主人です。山岳博物館構想は亡くなられた宮地隆二さんの発案でした(資料6)が、1970年代ではまだ時期尚早で、残念ながら実現することはできませんでした。
しかし、ほぼ30年後に設立された国際山岳博物館は、なんとクマール・カドガ・ビクラム・シャーさんと関係のあるポカラの広大な敷地に建てられたことには宮地さんとの因縁を感じずにはいられません。まして、ぼくはその博物館にJICAのシニアー・ボランティアとして2008年から2年間にわたり学芸員の仕事をすることになった(資料7)のですから。資料5
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資料6
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資料7
http://glacierworld.weebly.com/1as-a-jica-senior-volunteer-advocating-environmental-awareness.html
日本を出る前にネットで見たヒマラヤの氷河湖決壊洪水のことを聞きに国際総合山岳地域開発センター(ICIMOD)に行ったところ、従来からヒマラヤの氷河研究を行っているムールさんとバジラチャリアさんに会うことができました(資料8)。彼ら二人が中心になって(写真5)、ヒンヅークシ・ヒマラヤの氷雪地域の国際会議を5月中旬にICIMODで開催するとのことでしたので、急遽参加させてもらうことになりました。会議は5月13日~16日までの4日間、午前9時~午後5時までICIMODのカンチェンジュンガ会議室で缶詰状態になり、100名ほどの出席者がら50ほどの報告を聞く、かなり忙しい日々を過ごしました(資料9)。
会議の第1印象は衛星画像解析やモデリングなどの研究報告がほとんどで、現地調査の研究成果が少なかったことです。広域的なデータをまとめるには前者の研究は欠かせませんが、グランド・トゥルースとしての後者の研究がないと、前者は砂上の楼閣になってしまう可能性があります。具体的には、氷河(インベントリー・流動・質量収支含む)や岩石氷河、凍土、氷河湖決壊洪水、水文循環に関する前者の研究でも、詳細な時空間的な変化をまとめているのは良いのですが、例えばツラギ氷河の流動にしても、数年前から氷河末端が氷河湖の底に座礁し、末端が静止しているのにもかかわらず、氷河流動を報告しているので、大いに気になりました。前者の研究が多くなっていることを考えると、後者の研究の重要性とともに、今回の会議の基本的な共通テーマが「データ・シアリング」であるのですから、両者の協力・情報交換がますます必要になってくることでしょう。資料8
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資料9
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衛星画像解析やモデリングなどの研究報告が多いヒンヅークシ・ヒマラヤの氷雪地域の国際会議の中で、友人であるカトマンズ大学のリジャン・カヤスタ教室の学生たちが、われわれの仲間が1970年代に調査していたダウラギリ峰北部にあるリッカサンバ氷河や1980年代のランタン地域にあるヤラ氷河の現地調査を続けている報告(資料10)を聞き、なつかしいと同時に、彼らのフィールド・ワークをしながら、学生たちを育てている研究を頼もしく感じました。彼らは近々それらの氷河の1970年代・19809年代からの変化をまとめた報告書を出版する、とのことです。大いに期待したいと思います。彼らの話にもうひとつつけ加えたいのは、学生のなかに、クンブ地域のクムジュン村出身のソナム・プティさん(写真6左下)がいることです。ハクパ・ギャルブさんが言うには、「彼女はシェルパの氷河研究者第1号」とのことです。うれしいことに、5月27日午後、ソナム・フティさん(資料4)が友達とともに、ポカラ周辺の地質巡見の途中にもかかわらず、山岳博物館を訪ねてくれました(資料11)。
カトマンズに戻り、6月6日にカトマンズ盆地の東端にある丘の上に建てられたカトマンズ大学のリジャン・カヤスタさんのヒマラヤ氷雪圏・気候・災害研究センターを訪ねました(写真6)。彼らの研究室は、東京大学の小池研究室やアメリカのコロラド大学などと共同研究を進めていく計画があるそうです。この秋には新しい学生たちが入ってくるので、「半年ぐらい講義をしに来ないか」と誘ってくれました。講義以外にも、ぼくとしては、これまで整備してきたデータベースのキーワードなどが日本語なので、日本人以外の人に使ってもらうためにも、データベースの英語化をそのような機会にできそうなので、カトマンズ大学の講義の申し出を前向きに考えたいと思っているところです。資料10
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資料11
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オームさんといえば、どうしたわけか、彼は58才の定年1年前に退職し、今は無職だと言っていましたが、今回のICIMODが中心になってまとめたネパール氷河台帳の貢献者の一人として表彰されていました。
今回ぼくが指摘した小さくて、危険性のある氷河湖として、クンブ地域の東のホング・コーラ沿いのチャムラン峰周辺の小規模氷河湖の現地調査をICIMODがさっそくとりあげてくれ、今年中には現地調査を実施することになり、心強く思ったしだいです。資料12
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かつて日本に留学していた張寅生さんが、滋賀県立大学に大畑哲夫・上野健一両氏がいる頃訪ねてきたことがあるそうですが、ぼくはすっかり忘れていました。彼は蘭州の氷河凍土研究所の所長を長らく務め、2年前に亡くなった施雅風先生の最後の学生だそうですが、現在は北京のチベット高原研究所に勤務しています。毎年彼は、チベット高原からパキスタンにかよい、カラコラム・フンザ地域の水循環を調査しています(写真8の左から2番目)。彼の奥さんと子供さんたちは日本にいるので、「単身赴任です」と流暢な日本語で語っていました。
湖南大学の謝先生が蘭州の氷河凍土研究所いた1980年、北京でのチベット高原研究討論会後、ラサからカトマンズへ行く1週間ほどの巡見を謝先生に案内していただくとともに(資料13)、また、1987年には西コンロン山脈氷河調査では現地責任者の謝先生には大いにお世話になりました。その時の彼は「自分は研究者ではなく、ビジネスマンだ」と表現し、蘭州出発に際しては、トラックいっぱいの缶ビールを積んで、新疆省で表現通り商売をしていました。その彼が湖南大学で、再び研究者に戻り、彼もかなりの歳になっていることでしょうが、たのもしい女学生たち(写真8の張さん以外の方々))を育てているのを想像しながら、なつかしく思いました。資料13
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2002年のブータン中央北部のルナナ地域の氷河調査の際に、当時の第1女王(現在の国王の母親)がルゲ氷河湖に来られ(資料14)、偶然出会ったぼくに「お祈りするにすさわしい場所どどこか」と尋ねられたので、末端氷河湖に作ったケルンに案内したところ、そこで金貨をまきながら、氷河湖決壊洪水が起こらないようヒマラヤの神々に祈祷されました。その時、女王がぼくに「この偶然の出会いはカルマです」と表現されたので、カルマという言葉をはじめて聞きました。調べてみると、「カルマは人間の業(ごう)で、仏教の基本的概念である梵:を意訳したもの。宿命的な行為という意」どそうです。
ところで、そのカルマさんです(写真9)が、ファーストネームもミドルネームもなく、カルマだけが彼の名前だそうです。その彼が言うには「トルトミ氷河の排水路工事はまだ必要なかったかもしれない。トルトミ氷河より西に工事が必要な氷河があったのだが、今はもう人が集まらない。トルトミ氷河の工事では2人が死んだほど危険なので、工事後半には人が集まらず、軍隊に援助を求めざるを得なかったそうだ。地元に人たちは冬虫夏草の方が安全で、金目になるからだ」そうで、これからの第規模工事は難しくなるとのことでした。
ノルウェーのジャクソン・ミリアムさんがブータンのヤクシン氷河の決壊洪水(GLOF)について報告した時、その南側の氷河湖も谷の浸食地形からGLOFの可能性があるのでは、と質問したところ、カルマさんに聞いてくれというほど、ブータンの氷河の現状についてはカルマさんが第一人者になっている様子がうかがえた。
カルマさんは会えば笑顔を絶やさすことのなかったが、ICIMODの会議場では一言もしゃべらなかった。しかし、ICIMODで積雪予測の仕事しているデオ・ラジ・グルンさんや、アメリカ留学で鍛えられてきた若いチミ・ドルジェさんなどが彼の後継者として育って きているので、カルマさんはブータンの氷雪関係者の大ボスのような感じがしました。彼 は、会議終了を1日残して、ブータンに早々と戻って行った。資料14
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アディカリさんの自宅は、カトマンズの空港近くの有名なパシュパティナー寺院の南側にあり、亡くなられて大学病院の献体になっている父上の話を、アディカリさん兄弟からゆっくりとうかがいました。アディカリさんの父、チェトラ・プラタップ・アディカリさんは上智大学に留学し、日本文学を研究しました。ネパールでは、夏目漱石や宮沢賢治などの日本文学者を紹介したネパール語の本を出版するとともに、詩人として俳句関係の本も多数あり、日本の文学者と共同で「ヒマラヤ文庫」もだしていたとのことです。そのような貴重な活動をされてきたチェトラ・プラタップ・アディカリさんが4月13日に71歳で亡くなられた(資料15)ことを知りませんでした。ぼくが支部長を勤める日本ネパール協会関西支部でも紹介させていただきたいと思っているところです。写真10は玄関脇のご霊前の兄弟で、チェトラ・プラタップ・アディカリさんの写真の上に「最後に残された仕事は詩である・・・」とネパール語で書いてあるそうです。彼の「富士山麓}というネパール語の俳句の冒頭には、「富士山とピンクのサクラの日本人とヒマラヤと赤いシャクナゲのネパール人は義兄弟」と書かれていることをアジャールさんが教えてくれました。邸宅前の庭に植えられた2年目のソメイヨシノが今春4つの花を咲かせ、その日本のサクラを見てチェトラ・プラタップ・アディカリさんは亡くなられたとのことです。ご冥福をお祈りいたします。
アジャール・アディカリさんのことは、彼が、ぼくの友人である平田更一さんの会社で画像解析の仕事をしていた関係で、ぼくは平田さんからチェトラ・プラタップ・アディカリさんの亡くなられたことを聞きましたので、カトマンズに到着してすぐにお宅を訪ねて行きました。アジャールさんはカトマンズで画像解析の仕事をしていますので、東京で本の編集の仕事をしている日本人の奥さんとは別居で、「単身赴 任です」と笑いながら上手な日本語で言っていました。
資料15
アジャールさんの弟、アマンさん作成のチェトラ・プラタップ・アディカリさんの葬式のビデオ
https://www.youtube.com/watch?v=Q0mjJxLYarA
友人の瀬戸純・宮地隆二両氏の分骨場は、マナスル峰(8163m)西南のツラギ氷河湖へ行く途中の、ナチェ村から3時間ほどかかる高原(アル・バリ)にあります(資料16)が、場所が比較的遠いため、ポカラから車で小一時間の距離にあり、ヒマラヤが良く見えるナウダダ峠近くで、ハリダイ・トラチャンさんが開発している施設に移転しました。5月30日は天気にも恵まれ、亡き友人の記念碑のケルンからはマチャプチャリ峰を中心とするアンナプルナ連峰とマナスル三山が見渡せました(写真11)。
ハリダイ・トラチャンさんは、ポカラの国際山岳博物館のスペシャル・アドバイザーであるとともに、ネパールのアーチェリー競技の代表選手です。今年10月に韓国で開かれるアジア競技大会にアーチェリーの選手として参加するその前後に日本に来る可能性があるそうなので、日本で再会し、関係者と国際山岳博物館の話ができるのが楽しみです。資料16
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今回の旅で出会った人のなかで、日本語が堪能な張さんやアジャールさんから、思いがけず、「単身赴任者」という表現を聞きました。五体投地礼で長い時間をかけて聖地への巡礼をするチベット人のような迫力は到底もちえませんが、せめてヒマラヤの神々の座を望みながら、今後は、前述のカトマンズ大学での半年ほどの講義をするかたわら、友人たちの記念碑をそれなりに立派にしていくことも、ぼくに課せられた勤めなのではないか、と思っています。その意味では、ぼくもまた「単身赴任者」の一人なのかもしれません。
今後の予定は、6月9日クアランプールを経由しサイゴンに飛びます。東南アジアのメコン川最下流地域を1週間旅行し、今月中旬に帰国します。それでは、皆さま、ナマステ!