2015年ネパール地震の経験から-ヒマラヤ地震博物館構想-

 

写真1 カトマンズ旧王宮の地震前(下)と地震後(上)

 

写真2 岩屑雪崩で埋まったランタン村とランタンコーラ

1)はじめに

2015年2月24日~6月9日の「ネパール2015年春」計画の主な内容は、1)カトマンズ大学の講義と2)ポカラ国際山岳博物館の展示更新だったが、 講義を行っていたところ、4月25日に「2015年ネパール地震」が発生した(写真1)。そのため、大学が休校になったので、カトマンズ盆地をはじめナワ コットやポカラ両地域における地震関連の現地調査も行い、住民の自然認識に関する疑問からヒマラヤ地震博物館の必要性を考えた。

2)住民の自然認識に関する3つの疑問
[wc_highlight color=”yellow”]A)3~4月のカトマンズ雷雨・ランタン降雪の異常気象の影響について[/wc_highlight]
3月後半から4月にかけてランタン地域では毎日降雪があり、放牧中のヤクがかなり死ぬ中で、「2015年ネパール地震」が発生、雪崩がランタン村を襲い (写真2)、174名が犠牲になった。住民は異常気象には気づいていたが、雪崩発生の可能性をどの程度認識していたのか?また、カトマンズでは雷雨が続 き、カトマンズ盆地のように砂や粘土の湖成堆積物で覆われているところやネパール山間部のように断層活動でできた粘土層地帯では土壌水分量が大きくなり、 地表が地震被害を大きくする軟弱地盤化したことに気づいていただろうか?
B)1934年と1833年の地震被害の教訓について
「2015年ネパール地震」の81年前の1934年に起こった地震はよく語られるが、さらに101年前の1833年の地震はほとんど知られていない。前者 の震源地は東ネパール、後者のそれは中央ネパールである(写真3)。震源の遠い1934年の地震でも被害が出たカトマンズは、震源の近い1833年の被害 はさらに大きかっただろう。地震は80年~100年毎に現れると言われているように、これらの地震被害の教訓がなぜ生かされなかったのか?
C)震度5程度で大災害になったことについて
今回の地震はカトマンズ大学で体験したが、1995年の神戸・淡路大震災時の大津で感じた震度5程度で、日本でならあまり被害が出ないと思われたが、かな りの大災害になった。そこで、カトマンズ盆地内のみならずヌワコット地域(写真4)やカトマンズ~ポカラ間のバス・ルート沿いの被害状況を現地調査した結 果、大災害になった原因としては、建物自体のほかに3)と4)で述べる地盤の問題があることが示唆された。

写真3 ネパールの1833/1934/2015年の震源地分布

写真4  ヌワコット地域リク川周辺の破壊された民家


3)JICAの地震セミナー

「2015年ネパール地震」発生から1ヶ月目の5月25日に、JICA主催の「Build Back Better Reconstruction Seminar for  Nepal」が 開かれた(写真5)。タイムリーな企画で、聴衆は4百名ほどに達した。セミナーの主な趣旨は地震後のネパールのより良い復興に向けての研究会だったのだ が、報告内容を聞いてみると、日本の地震災害の歴史や耐震家屋の詳細な実験的研究などが中心で、肝心の土台の軟弱地盤に関する研究発表はなかったのであ る。これでは、“砂上の楼閣”を建てるようなもので、ネパールの地震災害の具体的課題にはたしてどの程度役立ったのであろうか。

写真5  JICAにより開催された地震セミナー

写真6 パタンの無事の寺(AとB)と破壊された寺(C)

写真7 スワヤンブナート寺院の破壊した仏塔

4)ヒマラヤ地震博物館の必要性-現地でともに学ぶ-

では、地震災害の具体的な課題解決とは何か?パタンでは、世界遺産の建造物が集中する地域で、破壊された建物と被害を受けなかったものとが共存している (写真6)。またバクタプールでも、世界遺産のストゥーパは破壊されたが、周辺の二重の塔やニャタポラ寺院の五重の塔は無事であった。2)のC)と3)で 指摘したように、現地に即した課題解決に必要なことは、地震で破壊された建物と被害が少なかった建物の違いや現地の地盤の特徴との関係を調査し、民家や貴 重な文化財(写真7)の保全策を明らかにすることである。さらに、住民の災害意識の向上のためには、2)で述べた疑問を解明するため、住民と研究者が協力 し、カトマンズにヒマラヤ地震博物館、ランタン村にヒマラヤ災害情報センターを設立し、現地でともに学ぶことが必要だ、と考える。