2016年ネパール通信15 サロンからヒマラヤへの想い
国際雪氷学会の名誉会員に選出された樋口敬二先生の卒寿記念の文集刊行に際して、1970年代に樋口研究室にお世話になって学生によるヒマラヤ調査を始めるとともに、その後も氷河研究を続けてきた半世紀の経過を振り返り、友人たちとの交流を想いながら、ネパールの氷河調査の課題などを下記のように「サロンからヒマラヤへの想い-フィールド・ワーク雑感-」としてまとめました。
サロンからヒマラヤへの想い-フィールド・ワーク雑感-
1)サロン
地球を旅していた1970年前後がなつかしい。1963年から3年程かかった日本→北極海調査(1年半;P1)*→ヨーロッパ自転車旅行(3ヶ月)→西アジア貧乏旅行(半年)→ネパール・ヒマラヤ地質・氷河調査(半年)→日本をめぐる東回りの地球一周の旅で、そこはかとない自由の味を知ってしまったからである。当時は、青雲の志に燃えていたが、大学環境は安保闘争の時代だった。しかし、安保のいわゆる「政治的」な闘争には、どうしても、自由の実現を感じることができず、未知の「海外調査」のなかに、新たな自由を求めていたのかも知れない。お互いに闘っていたいわゆる民青と三派の安保闘争両派の友人たちからは「のんびりと、海外調査などしていられるかい」と白い目でみられていたし、さらに、ぼくのいた北海道大学理学部地質学鉱物学科は、お互いの考えかたが違うと、学問上の議論もしないという不自由このうえない教室だったのである。
*北極海(1963~1965年)
http://glacierworld.weebly.com/2699722320.html
だが、名古屋大学の樋口敬二先生の研究室には、ぼくとおなじように、ヒマラヤなどの新天地のフィールドをめざす若者がたむろしていた。水圏科学研究所の樋口研究室401号室、ぼくたちが「サロン」*と称したその部屋(P2)からは、多くの若者がアジアや北・南極、北・南米、アフリカなどに旅立って行った。そこは、グローバルな旅を醸造する発酵樽であったといってもよいかもしれぬ。「規模雄大」をもってする中谷宇吉郎先生の流れをくむ樋口先生の、あの「地球からの発想」的な旅をつくるサロンは「名古屋大学探検部」的な性格もあったのではなかろうか。そこに集まってくる若者たちがもちこむ情報によって新しいプランがつくられるのであるが、比較氷河研究会の活動過程をつぶさに体験できたことは、多くの影響をぼくにあたえてくれた。そこで生まれた学生によるネパール・ヒマラヤ氷河調査計画の先遣隊員として、北大山岳部の小須田達治さんとともに、まず調査隊の許可を取り、そして東ネパール・クンブ地域に調査基地を建設し、さらに氷河調査を軌道にのせるため、カトマンズに向かった。1973年春のことだった。
*なつかしの樋口研サロン
https://glacierworld.net/academic-conference/nagoya-univ/higuchi-salon/
2)学生によるネパール・ヒマラヤ氷河調査隊
カトマズ入りしたぼくは、政府官庁のあるシンガダルバールの外務省でネパール・ヒマラヤ氷河調査隊の許可を得るための交渉をすることになった。当初は、従来方式で「Glaciological Expedition to Nepal」の計画書だったのであるが、その計画書ではネパール外務省の調査許可がなかなかもらえなかった。「to Nepal」では「外国(日本)からやってきたよそ者によるネパールへの」氷河調査隊というニュアンスが強すぎたのだろうか。調査許可の交渉進展のため、申請書がどの担当者の机まで上っているかを確認する目的で外務省に日参しているうちに、ネパール人とのつきあいも深くなり、それにつれてネパール語もいけるようになると、ぼくの考え方もだんだん変わってきた。(よし、できるだけ現地主義でいこう。)そこで、外務省との調査許可の交渉開始からしばらくして、「Glaciological Expedition of Nepal」の計画書に変えた。直訳では「ネパールの氷河調査隊」、英語の略称は、GENである。略称だけでは見えないが、GEとNのあいだに”of”が入っている。すると、交渉2ヶ月後、ネパール外務省は調査許可証を発行してくれたのである。
ついに、待ちにまった東ネパール・クンブ地域に到着し、世界最高峰チョモランマ(エベレスト)のふもとのハージュンと呼ばれるモレーンの平坦地に、地元の人たちの協力を得ながら、小須田さんとヒラリーさんが建てたクンデ病院で働いていたペンパ・ツェリンさんの協力で観測基地を建設することができた(P3)。ネパール・ヒマラヤ氷河学術調査隊の名称; Glaciological Expedition of Nepalの略称、GENはゲンと読めるので、験(げん)が良くなることを調査隊の発端にあたり、ひそかに期待したのである。こうして1973年4月、調査基地が完成し、学生たちだけの1年間におよぶネパール・ヒマラヤ氷河調査隊のフィールド・ワークがはじまった。隊員がフィールド・ワークで基地に不在の時は、ハクパ・ギャルブさんや芝崎茂弥さんたちが観測に従事してくれたのである(P4)。
大名旅行ではやっていけないぼくたち貧乏学生隊は、食料などの衣食住をはじめとして、荷物運びでも現地の人たちの協力なしにはやっていけないのだから、好むと好まざるとにかかわらず、(現地主義)を取らざるをえない。たとえば薪についても地元の理解が必要で、シェルパの人たちが住むヒマラヤでは、モンスーンの雨期には「宗教上の理由で煙をだしてはいけない」との申し出が住民からあった時も、それでは現地で調査生活ができなくなるので、地元の村の人びとと何回にもおよぶ協議をおこなったうえで、やっと信用してもらい、炊事用の火をたくことを許可してもらったのである。その問題のそもそもの状況については、調査隊の活動を最初から助けてくれたペンパさんが1973年5月28日の日誌で次のように書いている。「We may not able to stay at this place in Lhajung during the monsoon. Nobody can stay around Dingboche or nobody can make fire until the end of August. I am not sure, but they say that the smoke of fire effects to the barley and potatos. I told to the head man of Dingboche that, above the Dingboche which place is called Nangajung, anybody can stay, so why can we not be allowed to stay here? But, he didn’t reply me. I hope that we can talk with him and we will able to stay here.」
1973年春から1978年秋までの5年半におよぶネパール・ヒマラヤ氷河学術調査隊の正式名称は Glaciological Expedition of Nepal だった。隊員が日本からきている隊だから、GE”to”N(ネパールへの氷河調査隊)であって、GE”of”Nでは表現としておかしいという意見も当初はあった。しかしながら、英語の表現が少しくらいおかしくとも、GE”of”Nだと、(現地主義)の感じがでているではないか。1960年代までのネパール・ヒマラヤの氷河調査隊は、GE”to”Nの時代だった。山登りなどの外国隊と同様、よそ者の時代といえよう。そして1970年代になると、ぼくたちのGE”of”Nの観点がめばえ、さらに、クンブ地域のアマダブラム峰南側の氷河湖の決壊による1977年の洪水災害発生(次章で述べる氷河湖決壊洪水)を契機として、1980年代からは自然災害とも関連したGE”for”N(ネパールのための氷河調査隊)の段階にぼくらの意識が変化したのではないか。
*ネパール氷河調査隊ハージュン基地建設
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2013/09/blog-post.html
3)氷河湖決壊洪水(GLOF)、チベット高原科学討論会とハージュン観測基地その後
1977年9月3日にクンブ地域で洪水が発生した時、ネパール・ヒマラヤでは氷河湖決壊洪水(GLOF)現象は知られておらず、当時、トピックスになっていた氷河が急激に前進するサージ(Surge)現象が発生したものと想い、池上宏一さんと、洪水で侵食された谷地形を辿って、アマダブラム峰南面のミンボー谷上流の洪水発生地点まで遡って行った。そこで、破壊された末端モレーンと空になった氷河湖の地形を調査し、ネパール・ヒマラヤのGLOF現象*を初めて報告することができた。
*Nepal case study : Catastrophic Floods
また1980年5月、チベット高原科学討論会が北京で開かれたので、樋口先生や牛木久雄さんたちと参加し、その際中国の氷河研究者の施雅風先生はじめ、蘭州氷河凍土研究所等の人たちと知り合えたことや、チベット高原のラサからカトマンズまでのチベット氷河群からネパール氷河群への変化をつぶさに見たのは収穫であった。カトマンズまでのバスの道中で、コロラド大のジャック・アイブスさん(ICIMODの創始者)がチベット高原の地表面から立ちのぼる水蒸気を指差しながら、「シュリーレン現象」がチベット高原の気象に重要であることを繰り返し強調していたのが印象的であった。
さてハージュン調査基地のその後であるが、1973年4月に初めて現地を訪れた時、荒れはてた石小屋(P3)があったので、住民とも相談し、そこを調査基地にしたが、ぼくたちが住んでいた1970年代には、誰も苦情を言ってこなかったのをみると、放牧地としての利用価値はなかったのかもしれない。しかし2013年11月に観測基地を再訪*すると、かつてわれわれが住んでいた石小屋は2つに分割されている(P5)のに加えて、周辺には新たな石小屋が3つほど建てられていた。夏の放牧時期になると、少なくとも5軒ほどの家族がハージュンに住み、ヤクなどの家畜の放牧をするようになっていることを示す。その変化から、現在は多くの家畜を養うほど、1970年代にくらべて土地の生産力が高くなっているのではないか、と解釈できた。地球温暖化とともに、牧草を育てる水分・気温条件が好転してきたのかもしれない。そこで、ハージュン基地の庭石にGENの文字が掘られていたのを見つけた(P6)ので、ぼくたちの「GEN」の名前は将来にわたり、現地にも残っていくことであろう。
*2013秋調査旅行余話(1) ハージュン観測基地
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2013/12/blog-post.html
4)日本の氷河問題に関連して-鳥海山「貝形小氷河」説と立山「御前沢氷河」説-
「土屋さんの鳥海山「貝形小氷河」説を批評してほしい」と、なぜ、立山カルデラ砂防博物館の飯田肇さんがぼくに言ってきたのが今もって良くは分からないのだが、とにかく、ぼくは土屋巌さんの文献「日本の万年雪」を持っていなかったので、彼からその本を送ってもらい、次のような書評(部分的な抜粋ではあるが)を雪氷(2000年62巻4号, p.412-413)に投稿し、発表した。
この土屋巌氏の大著は,月山・鳥海山の雪氷現象とそれに関連する日本の万年雪(雪渓)および世界の小規模な氷河に言及したものであるが,その主題は,従来の「万年雪」の認識に対して「氷河」とあえて銘打った鳥海山「貝形小氷河」なる著者長年の主張であろう.はたして「貝形」は氷河か雪渓かについて,かつての学会や比較氷河研究会の場で著者と議論したことを改めて思いだす.ぼくの主張は,ネパール・ヒマラヤ氷河群の観点からであった.
1970年代にネパール・ヒマラヤでぼくが調査していたギャジョ氷河は数年ごとに前進と後退をくり返す典型的なカール氷河で,涵養域と消耗域が明瞭に区分できた(A).ところが1995年になると,氷河全域が著しい消耗過程の進行で,上流部と下流部の氷体が分離し,ともに雪渓になってしまったのである(伏見他,1997*1).つまり,氷体全面が消耗域になっている(B). 1970年代にわれわれが作成した氷河台帳 (Higuchi et. al., 1978*2) には,雪渓化が認められた1995年の「ギャジョ氷河」のような氷体のほか、氷体全域が涵養域であるものもふくまれていた(C).従って,ネパール・ヒマラヤ氷河群の実態は,(A)タイプの典型的な氷河とともに,(B)と(C)両タイプのような氷河とは認めがたい氷体をもふくんでいるのである.ところが,ネパール・ヒマラヤの(B)タイプのものの中には,急峻な崖からの雪崩によって雪・氷と岩屑を大量に取りこみ,末端モレーンを前進させているものも認められた.岩石氷河の性質を合わせもつ氷河である(D).もし日本に氷河があるとするならば,雪崩による涵養量が十分ならば岩屑を多量にふくむとはいえ,(D)タイプのような,今西(1969*3)が指摘する「低位置氷河」形成の可能性はあるのではないかと考える.
それにしても印象的なのは,本書の表紙カバーのカラー写真「鳥海山貝形小氷河とチョウカイアザミ」である.これが土屋氏の主張する「貝形小氷河」なのか,と改めて凝視した.というのは、ぼく自身,1993年の雪氷学会新庄大会のとき瀬古勝基・大野宏之両氏とともに鳥海山に登り,この写真の「貝形小氷河」上部のみが,わずかな雪の塊として残っていたのを見ていたからである.その時の印象は「吹きだまり雪の残骸ではないか.これが“小氷河”なら,日本の雪渓のほとんどが小氷河になってしまう,であった.日本では,平衡線高度が山頂高度以上なので,(A)タイプのような典型的氷河は認めがたいとともに,(B)タイプの吹きだまり形のものとみなせる土屋氏の主張する「貝型小氷河」の存在そのものにも疑問のあるところで,若浜(1978*4)や樋口(1982*5)の氷河特有の現象からの指摘にもめげず,「貝形小氷河」説をこの大著でも一貫して展開している姿勢には今さらながら恐れいる.
*1伏見碩二・瀬古勝基・矢吹裕伯 (1997) ヒマラヤ寒冷圏自然現象群集の将来像-生態学的氷河学と自然史学の視点から-.地学雑誌,106,2,280-285.
*2Higuchi et. al. (1978). Preliminary report on glacier inventory in the Dudh Kosi Region. Seppyou, 40, Special Issue, 78-83.
*3今西錦司 (1969) 日本山岳研究.中央公論社,408p.
*4若浜五郎(1978)氷河の科学. 日本放送協会,236p.
*5樋口敬二(1982)氷河への旅. 新潮社, 265p.
以上のように、土屋さんの「貝形小氷河」説に疑問を投げかけたのであるが、その書評をぼくに頼んできた飯田さんが、なぜ立山の「御前沢氷河説」などを提唱したのか、改めて興味をもたざるをえなかったのである。そこで、飯田さんたちの御前沢氷河の調査*に同行した。
2014年10月10日の御前沢氷河の規模は著しく縮小し、氷河下部の右岸と山腹との間の隙間が広がっていたので、そこから氷河の下に潜り込み、底部の氷の調査をすることができた。この調査のぼくの目的は氷河構造の観点から、御前沢氷河の底面付近に発達する透明氷と気泡を多く含む不透明氷の互層構造が、はたして飯田さんたちが報告している氷体の流動によって形成された氷河のバブル・フォリエーション(葉理)構造なのか、それとも積雪が積み重なってできた年層構造なのかを調査することだった。というのは、バブル・フォリエーションなら流動現象に結びつく氷河構造であり、年層なら積雪が積み重なった雪渓の堆積構造と解釈でき、さらに地質屋の観点から言えば、前者は流動現象によって動的に形成される変成岩、後者は積雪やフィルンの積雪が静的に変化した堆積岩にも匹敵する違いがあるからである。
まず、底部の氷の特徴を見ると、透明な氷と気泡を多く含む氷との互層の氷体については、ところどころに、比較的新しい新鮮な木の枝を含む汚れ層が介在していた(P7)。そこで、汚れ層面に直交する氷試料の薄片を作り、気泡形と結晶形について調べた。気泡形は円形で大きさは1~2mm、不規則に分布し、ネパールのクンブ地域にあるギャジョ氷河で観測されたような氷河の流動方向にひき伸ばされた気泡構造は認められなかった(P8)。 また結晶形の特徴はというと、5mmほどの細粒の結晶が全体的に分布し、前記のギャジョ氷河で観測されたような氷河氷に特徴的な複雑な粒界を示すとともに、大きく成長した結晶はない(P8)。さらに、氷河氷に特有な結晶(主軸)方位の定方位性(ファブリック・パターン)を概観したところそれは認めがたいことから、今回調査した御前沢氷河下部の氷体は氷河流動のせん断応力による動的環境下で形成された構造を示さず、雪渓の氷結晶が粗大化したザラメ雪が静的に氷化したものであり、また氷体の年代は介在する新鮮な木の枝からみて比較的新しいので、立山の御前沢氷河は雪渓である、と氷河構造の観点から解釈できた。従って、飯田さんたちの「御前沢氷河説」にも疑問を呈しておきたい。
*1)御前沢雪渓の調査
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2014/10/blog-post.html
5)瀬古勝基さんのKCH日誌
瀬古さんとは1993年10月に鳥海山(P9)に、1995年10月にはギャジョ氷河の調査で同行するとともに、また1996年3月にカトマンズで開かれた「Ecohydrology of High Mountain Areas」国際会議(ICIMOD主催)にともに参加したのであるが、その彼が1996年秋の雪氷学会北見大会の頃に失踪することになったので、ぼくにとっては、失踪直前の彼とネパールで過ごした日々がいっそう忘れられない。今でも、カトマンズ中心部の繁華街などを歩いていると、瀬古さんがふっと顔を見せるのでは、と想う時がある。
その瀬古さんは、1996年3月29日のカトマンズ・クラブ・ハウス(KCH)日誌で次のような図(P10)を描いている*。図の縦軸はActive(Pathos,感性)-Passive(Logos)、横軸が Apparent(Constructive,活動)-Suggestive(Reflective,思考)である(注、赤字はママ)。そこに、「酔っぱらいながら覚えていることばを考える。“人は信念とともに若く、疑惑とともに老いる。”」と記している。またその2日後の3月31日の日誌には、カトマンズの上記の国際会議の資料がはりつけてあり、「久々のKCH滞在、滞在期間を伸ばしたため、1人、当地に留る。久々にネパールのペースに慣れる」、と「久々」の表現を2度繰り返して書き、4月4日のには、「飛行機の切符が取れ、本日帰国致します。今回も大変勉強になりました。すこし冷えた頭で“人は信念と共に老いる”のか・・・名大 水研 瀬古」、と記名している。しかしながら、瀬古さんが描いた図には、「多様な学問&コミュニケーション」と説明しているだけで、瀬古さんが占めるべき位置は図中に示されていないのだが、その半年後に失踪する彼の心の内面が図の縦軸と横軸のとり方や、彼の表現である“人は信念とともに若く、疑惑とともに老いる”から“人は信念と共に老いる”へ変化した表現に現れているのではないか、と想っている。
その国際会議のことは3月30日の日誌で、ぼくは次のように書いた。「瀬古兄とともにEcohydrology会議に参加し、本日伏見のみ帰国する。今回の会議については、色々と学ぶことが多かった。とくに、ドイツとイギリスの活躍が目立った反面、日本のヒマラヤ研究者の参加が少なかったのは残念の一語につきる。Scientific Strategyの面からも反省すべきことと想われる。また、キラン・シャンカール・ヨガチャリヤさんを中心とするネパール側の熱意(将来のヒマラヤ研究に対する)を十分にくみ取る事ができたのも収穫であった。それに対して、どのように答えるべきか。宿題が残されている、と想う。」
*瀬古勝基さんの想い出
https://glacierworld.net/travel/recollection/seko-katuki/
6)カトマンズ・クラブ・ハウス(KCH)およびお世話になった人たちのその後
カトマンズ・クラブ・ハウス、略称KCHの前身は、1974年、ターメルの北のゴルクファカに間借りした家および、その後にシンガダルバールの東のドビ・コーラ対岸に借りた一軒家で、牛木さんによって「ヒマラヤ・ヴァーワン(館)」と命名されていた。KCHについては渡辺興亜さんが中心になってヒマラヤ関係者から建設資金を集める労を取っていただいたので、1976年当時、カトマンズにいた白石和行さんとでKCHの建物を設計した。建設場所は、お世話になっていたクサン・ノルブ・タワーさん(以下タワーさんと呼ぶ)との話し合いのもとに、ボーダナート寺院近くの彼の敷地のなかに建てることになった(P11)。1977年2月にヒマアラヤ・ヴァーワンから引っ越してきた以後のKCHは日本の関係者のヒマラヤ調査基地としての役割を果たすことになり、その間、KCHの維持・管理は実に多くの方々(在田一則・和田一雄・白石和行・名越昭男・横山宏太郎・渡辺真之・山田知充・門田勤・貞兼綾子各氏など)によって引き継がれてきたのである。
タワーさんは1965年の中央ヒマラヤ地質・氷河調査隊に参加した後、日本に来て、ぼくたちと札幌で下宿することになったが、その間、タワーさんの言行録なる次のようなメモを書き留めた。「子どもの時から行きたいところたくさんあった。4才でラマ教のタンボチェの寺に入り、15才の時チベットへ行った。仏教の言葉、ものすごく上手になった。タンボチェのお寺に帰ってみると、外国人がたくさん来たから、外国に行きたくなった。お寺の偉い人と喧嘩になったので、200ルピーお金だしてお寺やめた。カルカッタへ行って商売し、カトマンズで金もうけた。日本へ来てよかったのは、車の免許とったこと、歯の病気なおしたこと、スキーもした。どこへ行っても、いちばんいい国はないよ。あなた日本が一番いいと想う?どこへ行っても、悪いとこあるでしょ。中国きらいだね。チベット人の国とった。中国は夜きた。・・」彼はタクシーや旅行関係の会社を順調に経営し、円満な家庭生活を送っていたのであるが、晩年は不幸の連続で、自殺した長男ナムギャルさんと奥さんのプルバ・チャムジさんからも見放され、家庭は崩壊し、アルコールに溺れ、ホームレスの生活を余儀なくされた結果、ラマ教のボーダナート寺院で息を引き取ったのである。だがその奥さんも、最後はアルコール中毒で命を落としたが、幸いなのは、次男のフジ・ザンブーさんと長女のカルシャン・デキさんがアメリカでそれぞれタクシー運転手と看護婦として何不自由なく暮している、ということである。
1970年代以降の激動するネパール社会にあって、それぞれの家庭も個人もその変化に翻弄されていったのはタワーさんの家族だけではない。GENのはじめに尽力してくれたペンパ・ツェリンさんも、1970年代後半に失踪するのである。彼は英語とチベット語に長けていたので、一説によると、アメリカのCIAもからんだともいわれるチベット独立運動の動向を追っていたネパールの諜報機関に彼は雇われ、最終的には消されてしまったのではないか、と噂されている。ペンパ・ツェリンさんの妻ニマ・ヤンジンさんが亡くなったのは2011年春であった。カトマンズの聖川、バグマティ川岸の火葬場で、がっちりとした体躯の長男のウルケン・モランさんとほっそりした長女のツェリン・ドマさんに会い、ペンパ・ツェリンさんの面影を偲ぶことができたのである*。ペンパ・ツェリンさんの後を継ぎ、樋口先生を隊長とするGENの活動を支えてくれたハクパ・ギャルブさんの弟、パルデンさんはバングラデッシュで勉強した技術者だったので、ハクパさんの建設会社の責任者としては必要不可欠の人だったにもかかわらず、自殺をしてしまった。彼らネパールの友人たちはネパール社会の大きな変化に翻弄されてきたのであるが、ぼく自身も振り返ってみて、同じ感慨をいだくのである。
*追記 2011年春調査最後の出来事-ペンパ・ツェリンさんの奥さんの訃報-
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2013/09/blog-post_26.html
さてKCHのその後*であるが、2015年6月のカトマンズ盆地東北部のサクーへの地震調査の行き帰りにKCHの前を通ったのであるが、あまりの変わりように、KCHの場所を特定することはできなかった。今回案内してくれたタワーさんの義弟のJPラマさんですら、ビルの合間を幾度となく確かめたうえで、ようやく、自動車修理工場の門を見つけ、中に入ると、想い出のKCHはあったが、自動車修理工場用のブリキ屋根が邪魔してKCHの建物の全体像は隠されていた(P12)。KCH玄関右側の当初1m程だった松の木(P11)は、10m以上に成長していたので驚いたが、残念ながら左側の松の木は枯れていた。KCH周辺でも建付の悪い家は地震で倒れたり、ヒビが壁に入っていたりしているが、KCHの建物の外壁も内部も無傷で、ヒビ割れなどは見られなかったのは、おそらく、タワーさんが建設時に鉄筋やコンクリートの建付をしっかりと監督してくれたことによるのであろう。また、縦の長さが2m程もある大きな窓ガラスも健在であったのも確認し、ほっと胸をなでおろしたものであった。
*KCHその後
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015/06/2015-kch-kch-kch-kcl-kch-kch-kch-j.html
7)カトマンズ大学の講義
カトマンズ大学の講義の主なテーマは、1965年以来半世紀の調査結果に基づいた「ネパール・ヒマラヤの環境変化と課題」で、これまで撮りためた12万枚ほどの写真データベースを利用して、ヒマラヤの環境課題の実態を学生たちに理解してもらうよう努めている。講義はOpen Lectureで、学生はじめ誰もが、干場悟さんに作っていただいたホームページ*で講義の内容を見ることができる。紙資料は使わず、レポート提出や講義の質疑・コメントなどはホームページの「CONTACT」で行う。講義は、通常月・水・金の3回、午前中2時間で、全部で70時間ほどである。
*KU Lecture 2015 – 2017
http://environmentalchangesofthenepalhimalaya.weebly.com/
2015年の受講学生は、リジャン・バクタ・カヤスタ助教授の研究室で氷河学を学ぶ修士課程1年目の10人で(P13)、5人が留学生(パキスタン3名、インド2名)、ネパール人5人のうち3人が山岳民族だった。2016年の講義も3月~5月に行い、新入生としてネパール人学生4名に、インド人留学生3名の7名が参加した。なかには、1970年代以来お世話になっているクンブ地域の方々の孫にあたる学生もいるので、(2章で述べた現地主義の観点で)これまでのお返しをしたい、と想っている。
8)おわりに-ヒマラヤ地震博物館や樋口文庫など-
私事にわたるが、琵琶湖研究所の1988年の調査でケガをし、肋骨7本、鎖骨1本を折り、2ヶ月の入院を余儀なくされた。その際、肋骨4本が肺に刺さったので、肺の手術のため背中に30cm、加えて鎖骨周辺に10cm程の手術跡が残っている。その時以来、4本の肋骨には針金が巻かれている(P14)が、空港のX線検査では幸いひっかかったことはないし、このケガのおかげか、20年以上にわたる喫煙習慣ともおさらばすることができたのである。さらに、2014年には狭心症を再発し、3度の手術を行った結果、心臓の冠動脈にステントが9箇所に埋め込められ、血液がやっと流れるようになった(P14)。そのぼくも後期高齢者の仲間入りし、ヒマラヤを最初に訪れた20代の“青雲の志”は遠くになりにけりだが、樋口先生の「地球からの発想」にあやかり、せめて当時の“Passion・Mission・Action”の気概を想いだしながら、2015年の地震で大災害を受けたネパールにヒマラヤ地震博物館*とヒマラヤ災害情報センターを設立したい、とカトマンズ大学の講義のかたわら想っている。
*ヒマラヤ地震博物館(Himalayan Earthquake Museum)
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2016/06/himalayan-earthquake-museum.html
最後に、樋口先生が名古屋市科学館長をしていた2005年2月にお訪ねし(P15)、新たに預かった資料を、中部大学で以前にいただいていた文献に加え、樋口文庫*として整備した(P16)。内容は、極地研究所や民族学博物館の研究報告、氷河・気象・環境科学雑誌など合計1400点程である。2007年のぼくの定年にともない、西堀栄三郎記念「探検の殿堂」の角川咲江さんにお願いし、滋賀県立大学から「探検の殿堂」に移管したので、将来、探検を志す若者に役立つてほしいと願っている。
*樋口文庫
https://glacierworld.net/academic-conference/nagoya-univ/higuchi-library/