1.はじめに
1973年春は、北極海の氷島T3などのアルバイトで資金をためたわたしたちが、ネパール・ヒマラヤ氷河調査隊(GEN)をはじめたときで、その年の井上治郎さんは、京都大学のヤルン・カン登山のあとGENにくわわり、世界最高峰チョモランマ(サガルマータ、エベレスト)の南麓に位置するクンブ地域のハージュン基地周辺に7月から11月まで滞在している。表題は、その時の治郎さんの言葉であった。
ハージュンとは、富士山よりも700mほど高いGENの基地名。そこにはハージュン日誌があり(
ウェブサイト http://glacierworld.weebly.com/ の 「国際協力>ネパール>4.ネパール氷河調査隊ハージュン基地建設」参照)、メンバーのおおくは、毎日のできごとや感じたことをかなり意欲的に日誌に書いているが、治郎さんはハージュン周辺滞在125日のうちわずか4日しか書いていない。彼の日誌記入率?4/125=0.032は例外的にすくない部類にはいるといえるだろう。その彼が日誌を記入したのは、ハージュン基地を去る直前の4日間のことであった。
だが、その4日間の彼の日誌を見ると、記入率は低いといえども、治郎さんが日誌を書くことに意欲的でなかったわけでは決してないことがわかる。というのは、その4日間の日誌には、ヒマラヤ調査のありかたや現地の人たちとのつきあいかたについて、8ページにわたりじつに意欲的に、あたかも別離の情にたえられず堰をきったかのように、彼は書いているのである。表題の言葉もふくめて、その内容が彼自身をよく表していると考えるので、長くなるが紹介させていただきたい。いまはすでに、梅里雪山峰の氷河にいだかれてしまった彼のことを、またいつかは、氷河から解放されるであろう彼のことをしのびつつ。
2.海外調査観
「こちらへ来てからずっと伏見氏と牛木氏の会話について考えている。日く、”我々のデータをヒマラヤ住民やネパール人民に還元すべし”。しかし私にはやはりこれはナンセンスとしか思えない。それをやるにはおそらく今の数倍以上のエネルギーが必要だろう。我々は研究者であって教育者ではないのだ。少なくとも私は未知の領域へ来て、研究(データをとること)で頭がいっぱいだ。とても遊びに来たシェルパに自分が今何をやっているか、説明しているヒマはない。勿論、その重要性は認める。地温計や雨量計がパクラレルのも、そういうコミュニケーションの不足からだろう。しかし、それなら観測を開始するまえに、全クンブのシェルパを集めて説明会を開けというのか?それぐらいなら自分はそのようなことは不測の事態としてアキラメた方が良いような気がする。日本の観測でも器械がこわされることはしょっちゅうある。まして教育程度の低いネパールでは仕方あるめえ。日本でも剣沢の雪渓を毎年はかるような仕事を一体何人が理解してる?小生もよくわからない。はまぐり雪に測量棒を立てておいても放ったらかしだったら、夏の終わりには殆どイタズラされているだろう。
我々の今度のデータは政府にリポートせねばならぬ。しかし、私の予想では、それらは数年間ホコリをかぶって、そのうち火事で焼けるか、あるいは廃棄処分になるかだろう。私はそれらを積極的に活用するようネパール当局に働きかける気は毛頭ない。そんな事はどっかの国のボランティアがやればよいのダ。そんなヒマがあれば自分はちょっとでもデータが欲しい。研究結果としてネパールは今後このようにすべきだという話がでてくるのは良い。しかし、最初から何もわからない状態で、何かネパールの為になることないかな?というような研究態度はまちがってると思う。そんなことするなら、クンビーラの南斜面に太陽電池でもバラまいて、クムジュン・クンデの村々に発電してやる方がずっとましだ。
シェルパやネパール人達がヒマラヤ高山地帯の利用について目を向け、その研究にのり出すのは何十年か先だろう。日本でも、その埋蔵遺跡や文化資産に目をつけたのはたまたま赴任してきた外人教師であった。我々は決して招かれてネパールに来ているのではない。彼らは自分達の国土に対する自覚もないのに、そういう教育、あるいは国土開発に似たようなことをはじめるべきだというのはバカげている。彼らにとって今なすべきことはヒマラヤ以外にワンサとある。我々はただ我々の仕事を如何にスムースになすかということのみを考えればよい」(11月10日)
ここには、5月初めにハージュン基地に滞在した牛木久雄さんとの議論をもとにわたくしが日誌に書いた「牛木氏と地域研究についての話題。彼の主張する”カトマンズにヒマラヤ研究所をつくり、我々の研究結果をネパール人に還元すべし”という考えに同感」(5月1日)という記事に対する治郎さんの「我々は研究者であって教育者ではないのだ」という考えかたから発想する彼一流の現実主義的な?観点が率直に語られている。海外調査を経験した人なら、たとえ自分中心の見方といわれようとも、つつみ隠さずに心を打ち明けている治郎さんの考え方にも共感を覚えるのではなかろうか。
3.GEN
ネパール・ヒマラヤ氷河学術調査隊の英語の略称”GEN”とは、 Glaciolo-gical Expedition of Nepal の略である。直訳すると、ネパールの氷河調査隊。GENだけでは見えないけれど、GEとNのあいだに”of”が入っている。しかし、メンバーが日本からきている隊なので、GE”of”Nでは英語の表現としておかしいという意見もあったが、当初のGE”to”N(ネパールへの氷河調査隊)の計画書では、ネパール外務省での2カ月ちかい交渉でも調査許可がもらえなかったのである。外国人によるネパールへの氷河遠征隊というニュアンスが強すぎたのだろうか。GENの先遣隊メンバーとしてカトマズ入りした小須田さんとわたくしは、ネパール外務省に日参しているうちに、ネパール人とのつきあいも深くなり、それにつれてネパール語もいけるようになると、考えかたも変わってきた。
わたしたち、貧乏調査隊は、食料や薪などの衣食住をはじめとして、現地のひとびとの協力なしにはやっていけないのだから、好むと好まざるとにかかわらずかなりの部分を現地主義でいかざるをえなかったのである。たとえば薪についても地元の理解が必要で、モンスーン中は「宗教上の理由で煙をだしてはいけない」との申し出があったときも、それでは基地運営ができないので、地元のディンボチェ村の人びとと何回にもおよぶ協議をおこなったうえで、やっとわたしたちの調査活動を理解してもらったこともあった。英語の表現が少しくらいおかしくとも、GE”of”Nだと、現地主義の感じがでているではないか。GE”to”Nでは、いかにも、よそ者がやっている感じがするし、さらにすすめて、GE”for”N(ネパールのための氷河調査隊)のほうがよかったかな、と考えないでもなかったが---。
ところで、GE”of”Nの計画書にしてしばらくすると、ネパール外務省は許可証をやっと発行してくれたのである。そこで、地元のペンパさん、小須田さんとわたくしがクンブ氷河周辺を見てまわり、ハージュンを観測基地として選定し、現地の人びとの協力のもとに、基地建設・観測体制をスタートさせることができたのであった。ペンパさんによると、ハージュンとはシェルパ語で、幸福をもたらす神のすむ平らな土地という意味があるとのことである。ゲン(験、GEN)がよくなりますようにと期待しながら、ハージュン基地を開設したのであった。
4.氷河調査隊も進化?
「ペンパと彼の将来についてしばらく語る。彼はやはりソル地域で農業指導者になりたい気持ちが強いようだ。モンジョの竹村氏に彼を紹介してやるのが良い手ではないか?しかし我々としては’74以後の計画遂行に彼のような良いシェルパが欲しい....結局は彼の判断によるだろう」(11月9日)。「我々は個人としてはいろんなデータをもって帰るだろうし、隊としてのデータもいわばみんなの興味が集中したものである。しかしそれ以外に我々、現在までのべ8人、がこういう観測をしたというのを何らかの形で残さねばならないと思う。具体的にはペンパにもっと観測の意味を教える必要があるのではなかろうか?彼は少し気が弱いところがあるようだ。我々ももっと積極的に彼に教えてやりたいと思う。そしてこのプロジェクトが終ったあとには、さすがに学術隊で暮らしたシェルパはちがうといわれるようにしてやりたいものだ。」(11月11日)
当時、牛木さんと語ったヒマラヤ研究所の構想は、1974年にカトマンズに開設したヒマ・アラヤ・バーバン(「ヒマラヤの舘」の意味で、この名前は牛木さんの命名)にむすびつき、そのあとは、渡辺興亜さんを中心とするグループの基金とカトマンズにおられたクサン・ノルブ・タワーさん一家らの援助もあり、「ヒマラヤの舘」は1976年の「カトマンズ・クラブ・ハウス」へと発展し、20年ほどにおよぶネパールにおけるわたしたちの研究基地になっていった。これらの研究基地は、いわゆる「ヒマラヤ研究所」といえるものにはなっていないが、山田知充さんたちが現在すすめているネパールの氷河洪水による災害アセスメントなどで、わたくしたちの研究成果が地元に還元されていることに見られるように、「ネパール人に研究結果を還元すべし」という当時の主張は具体化されつつあるのである。山田さんたちの現地での活動は、GENの観点からすると、GE”for”Nのプロジェクトになっている、といえよう。
ネパール・ヒマラヤの氷河調査隊は、かつてはGE”to”Nの時代だったが、われわれの1970年代にはGE”of”Nの観点がめばえ、そして山田さんをはじめとする1980年代からのプロジェクトなどではGE”for”Nの段階に達したのではなかろうか。とすると、氷河調査隊自身も進化?してきたのである。そのことは治郎さんが記していることと矛盾しない。「”我々のデータをヒマラヤ住民やネパール人民に還元すべし”...勿論、その必要性は認める...それをやるにはおそらく今の数倍以上のエネルギーが必要だろう。...その研究にのり出すのは何十年か先だろう」と、いみじくも治郎さんが見通していたのであるが、われわれはまさにその時代にいる。
5.Namaste(ナマステ)
ハージュンを去る日、多くのメンバーがしてきたように治郎さんも英語で日誌を書き、ペンパさんはじめおおくのシェルパの人たちを念頭において次のように記すのである。
「Today, it is my 125th day after arrival to Hlajung. And I’m going to down on this good day. I could make my private study and official observation almost completely. It’s thanks to Mr. Pemba Tsering and our members. I hope to send my thousands of “Namaste” to all Sherpas in Khumbu and I’m looking forward to see them again in near future. Thank you very much!」(11月12日)
“Namaste”(ナマステ)とは、感謝をこめたネパール語の挨拶ことばで、治郎さんの1973年最後のこのハージュン日誌に対して、ペンパさんはその日誌で次のように答えている。
「Today, Mr. Inoue has left this place with finishing his 5 month study. I hoped he was quite satisfied with his work, and I want to have rest of the members satisfied when they leave from here. I must think that my duty is to help for all of members as much as I can, and as far as possible.」(11月12日)
すでに40年ほど前のものになるハージュン日誌を手にとると、いまでも煙やギィー(油)などのまざった基地独特の臭いがする。そこにはさまざまな想いがこめられている。モンスーン前後のヒマラヤの青い空と天の川、モンスーン期の青いケシなどの花と霧につつまれた基地。そこにはペンパさん、そして彼をついだハクパさんをはじめとした地元の人たちとわたしたちの1970年代の喜びと悲しみの歴史がある。わたしたちのほとんどは20代であった。だから、ハージュン日誌がかもしだす基地の臭いは、わたしたちの青春の思い出をよびもどすように感じられて、なつかしい。GENの1970年代には、実にたくさんの人びとのお世話になった。ハージュン日誌の臭いにつつまれていると、地元の人びとや共同研究者のおおくの顔が目にうかぶ。そのなかでは、ここに紹介した地元のペンパさんやタワーさんもすでにいない。また、共同研究者の樋口明生さんもいってしまわれた。
はじめに紹介した11月10日の治郎さんの日誌の前文には、「夕方、マカルーの残照を30分ぐらいみていた。何だか去るのが惜しくなってくる。静寂が立ちこめる中で夜のとばりは徐々におりてくる。そして2つだけ明るいチョーオユーとマカルー、パンボチェから下の谷は霧でつつまれている。ペンパはバルー(犬の名)を従えてヤクのフンを拾ってる。百葉箱ごしにみるわれらがハージュン。これまでのことをいろいろと回想してると不覚にも涙がひとすじ....落ちませんでした」とあり、感受性豊かな彼の青春のおもかげを見るおもいがする。その文章につづいて、表題に象徴されるような海外学術調査に関する彼の考え方が展開されているのである。その前日の11月9日の日誌の最後には「今夜は満月リッヒがキレイダヨー---!」と彼は書いているので、11月10日の夜のとばりにつつまれて、百葉箱ごしにハージュン基地を見つめる治郎さんには、満月にちかい月光がふりそそいでいたことであろう。
さて、将来のことである。氷河から解放されてでてくる40代の変わっていないであろう治郎さんが、彼の年齢の倍近いわたしたちにむかって、なにを語るだろうか。率直にかたりかける彼のことだから、わたしたちひとりひとりをきびしく評価するやもしれない。青春時代のおもかげをとどめているであろう彼に、年老いたわたしたちははたして対峙することができるだろうか。その日の到来を、舐目して待ちたいところだが、じつのところ、おそろしい気がするのである。なぜなら、京都で行われた彼の葬儀に参列したわたしたちとともに、たくさんの子供たちまでもが治郎さんを見送りに集まっているのを見たとき、彼は研究者であるばかりか、これは以前から感じていたことであるが、教育者でもあったことを確信したのである。それだから、「我々は研究者であって教育者ではないのだ」と書きしるした治郎さんではあったが、研究者としてのわたしたちのみならず、教育者としてのわたちたちをも評価するのではないか、とおそれたからである。なにやら、そのことを考えると、おたおたしてはいられない。
はたして、治郎さんと対峙する将来、GENをひとつの契機としてすすめてきたわたしたちの学術調査の基本的な考え方はどのような進化?をとげているであろうか。
それを、彼はどうみるか! ”ナマステ”。
*本文は「追悼 井上治郎, 井上治郎遺稿・追悼文集刊行委員会, 1993」に投稿した原稿に、手を加えました。
追記
約3カ月の今回の旅の終わりも近づき、カトマンズ空港に向かう朝、1970年代から世話になっているハクパ・ギャルブさんから悲報が伝えられました。1973年の氷河観測基地ハージュンを一緒に作ってくれたハクパさんの従兄である故ペンパ・ツェリンさんの妻ニマ・ヤンジンさんが昨夜亡くなり、今朝火葬が行われるとのことであった。そこで、ハクパさんの車で空港へ向かう途中、荼毘が行われていたカトマンズのバグマティ川岸のテクに送ってもらい、約30名ほどのシェルパの人たちが参列していたニマ・ヤンジンさんの火葬(上写真)に参列しました。ニマさんの荼毘の脇で泣いていた長男のウルケン・モランさん(28)はがっちりとした体躯、一方やせ形の長女ツェリン・ドマさん(26)ともども、ペンパさんのなつかしい面影を思い出させてくれました(下写真)。かつて、1965年以来長いことつきあった故クサン・ノルブ・タワーさんの奥さんを弔らった後、かれの息子であるフジ・ザンブーさんと娘さんのカルシャン・デキさんにお目にかかったことを思い出しました。二人は現在、それぞれアメリカとヨーロッパで新しい人生を築いていますが、ウルケンさんやツェリンさんの将来ははたしてどうなるなるのかと一抹の不安を覚えながら、出席していた1979年にチョモランマに登頂したアン・フルバさんに別れの挨拶をして空港に向かいました。カトマンズからバンコックへの飛行機では、ヒマラヤにしばしの別れを告げるために左窓側の席をとりましたが、早くも発達した積雲群のため、ガウリシャンカールと思しき双耳峰が雲間に見え隠れしましたが、チョモランマなどがあるクンブ地方は、あたかも雨期のような厚い雲に閉ざされていました。ヒマラヤの神々の座も、おそらくニマ・ヤンジンさんを弔うかのように、涙しているようでした。