1973年2月、小須田達治さんと私は、名古屋大学を中心とする北大や京大などの学生によるネパール・ヒマラヤ氷河調査隊(GEN)の先遣隊員としてカトマンズに向かった。そこでまずは、その調査許可を取るために2か月間、ネパール外務省に日参し、4月にやっと許可が取れたので、世界最高峰チョモランマの麓、東ネパール・クンブ地域のハージュンに地元のペンパ・ツェリンさんに手伝ってもらって氷河観測基地を建設した(写真1と2;資料参照)。
資料
ネパール氷河調査隊ハージュン基地建設
https://glacierworld.net/regional-resarch/himalaya/glacier/lhajung-station/
つぎに我々が行ったのは、観測基地周辺のクンブ氷河などの調査体制を整えることであったが、その際に、小須田さんにとって残念な知らせが届いたのである。ネパールヒマラヤ氷河調査隊に参加するために北大を休学するつもりであった彼の「休学願いが認められない」というのであった。そこで彼は日本に戻り、北大と交渉するために4月末に下山し、帰国するはめになった。我々は観測基地の日誌をつけていたので、そこに彼は次のように記している。
1973年4月29日(以下は原文のママ)
僕の22年間住んだ“国”から或る報らせが着いた日から数日後、ここに記す。
その報らせによって、この地での一年間の“生活”を捨てねばならない、という・・・その“国”からの報らせによって 何故?僕の“居るところ”、“居るべきところ”とはいったいどこなのだろう。
Cho Laでのあのコルの彼方に有った“もの”は既に僕の内に有ったようだ。
それが、チョオユー、ギャチュンカンと呼ばれる固有名詞であっても、ネパールという国、土地の中のそこにしか、そこにしか地理的に存在しないとしても既にコルに立つ前に、僕は知っていたようだ。
Cho La(峠)の小須田さんと峠からのチョーオユー峰(左)とギャチュンカン峰(右)
『やぁ、再だ、会ったネ、チョオユー君!』
ただチョット、極東の国を訪れて来ます。
「帰国」だなんてコトバは使いません。
日本に居るとき「高き山」のみしか、つまり「何千mの山々」のみしか意識できなかった自分はまさにネパールというより、ヒマラヤ麓に営む人々、動物、そして地球の日本でない部分の“風に吹かれた”という意識を持つことが出来たようだ。
GENのみなさん、Khumbuの若き諸君、元気で、伏見さん大変でしょう。頑張って下さい。
緑増すハージュンと白き冬のハージュンを想念して
『チョット、遠くへ、氷河がないので気象調査のみしに行って来ます』
Kosuda
いったん帰国した小須田さんは北大との話がついたようで、彼は再び観測基地に戻り、調査隊を助けてくれたのであった。私自身はその夏に帰国し、秋からは調査隊の軍資金を稼ぐために、北極海の氷島T3で、長さ30m、直径30㎝のコアーを掘削し、沖縄の海洋博に展示するためのアルバイトに出かけたので、小須田さんとは再会できないままになってしまった。
彼にとって、Cho La(峠)から見たチョーオユー峰は『やぁ、再だ、会ったネ、チョオユー君!』と彼がいみじくも表現し、彼がやがて戻っていくであろう特別な“神々の座”であったに違いない。このたび、小須田達治さんの訃報に接し、もう半世紀前になってしまった1973年のネパール・ヒマラヤ氷河調査隊での彼の活躍ぶりを懐かしく思い出している。合掌!