札幌の三角山近くにあった下宿では学校にも行かず、かつて数学科在籍だった(と思う)渡辺タンクローさんがひなが碁にふけっていました。雪の夜道をとぼとぼと三角山めざしてもどる時など、雪景色にうかぶ下宿の二階に電気がついているのはありがたいものでした。雪夜の道しるべになってくれているのにくわえて、タンクローさんから碁の手ほどきをうけることができるからです。タンクローさんはひとり静かに碁を打ちます。初心者のぼくを毛嫌いするようなこともなく、じつに泰然と待ち構えていてくれました。良くも悪くもエコノミック・アニマル的なせかせかした日本人が多いなかで、タンクローさんの品格は、極地研究所におられた同郷の大山佳邦さんとも共通する、三河・遠州の方々がもつ一種のぬくもり、あたかも、せかせかした日本砂漠のオアシスのような感じがしたものです。
ぼくは1982年から1995年まで、琵琶湖研究所で琵琶湖の環境課題に関係しました。主なテーマは水資源でしたが、生態学者の多い研究所のいわば「門前の小僧」で生物学や水質問題をかじるなかで、遅ればせながら、タンクローさんがアオコ研究の大御所であることを知りました。すでに始まっていた琵琶湖の赤潮時代は1980年代後半になるとアオコ時代に突入し、アオコの毒性問題が重要課題になるなど、水質状況は霞ヶ浦のそれに近づいていたのです。1995年以降、ぼくは琵琶湖研究所を離れ、滋賀県立大学に移りましたので、タンクローさんのその後の研究内容とは疎遠になってしまいました。タンクローさんは長年にわたるヒマラヤの藻類相の研究によって、1994年 「ヒマラヤの隠花植物の調査研究」で第30回秩父宮記念学術賞を受賞していますが、もう少し若ければ、「生態学琵琶湖賞」も受賞されていたのではないか、と思っています。
一本一本の鉛筆をきれいに削り、そして長さ順に丁寧に並べたタンクローさんの整理のいきとどいた机のある研究室を訪れたのは、10年以上も前、雪氷学会が筑波大学で行われたときのことでした。いろいろな物品が乱雑に放置されているぼくの机の周りとくらべると、タンクローさんの研究室のたたずまいは、いかにも整然としたアオコ研究のオアシスのようでした。
現在のぼくはJICAのシニアー・ボランティアで、ネパールのポカラにある国際山岳博物館(写真)で学芸員をしながら、タンクローさんがもしお元気ならば、ヒマラヤのフィールドに一緒に行くことができるのではないか、とふと思ったりもしています。というのは、確か1980年代後半だったと思いますが、庵谷晃さんたちと共同研究をしているヒマラヤの生物研究グループの方々と一緒のところを、京都植物園で偶然見かけたことがあります。ご健在ならば、現在もヒマラヤの共同研究を推進していることでしょう。また、私たちが1960年代以来お世話になり、ヒマラヤの研究基地であったカトマンズ・クラブ・ハウスの敷地を提供してくれたクサン・ノルブ・タワーさんを、何時だったでしょうか、彼にとっては必ずしも歓迎されなくなってしまったカトマンズに、渡辺ダンちゃんとともにタンクローさんが東京で見送ってくれたことを風の便りに聞いたことを思い出します。人徳あるタンクローさんの人柄なしには、おそらく、タワーさんは心を静めて日本を離れることができなかったのではないでしょうか。(上の写真左端のタワーさんも、ほどなくカトマンズはボーダナートの目玉寺で逝ってしまわれるのですが。)
ネパールでは新月の今頃にティハールと呼ぶ「光の祭り」をします。各家の玄関から部屋へと灯明を並べて、神々とともに逝きし人を招き入れるのです。ポカラの我が家のベランダに腰かけ、マチャプチャリの雪景色を眺めながら逝きし友人たちを偲んでいると、ともすると、戸をたたく音が聞こえます。ヒマラヤへ昇る谷風が吹きぬけて行くのです。風は鷹や鷲などの鳥とともに天空に舞い上がり、タンクローさんを彷彿とさせるマチャプチャリをめぐっていく。とくに新月の夜など、シリウス近くを駆け抜ける流星を見るにつけ、はたして、ヒマラヤのあの風は逝きし友の御霊をオリオン座流星群に届けてくれたのであろうか。