安藤さんの事業集大成は「国際山岳博物館」だったのではないか。
―安藤久男さんの追悼文にかえてー
伏見碩二

1)はじめに

「安藤さんの追悼文を書いておられると吉田さんからお聞きしたのですが、ただいま128号の最終校正に入っております。原稿はすぐいただけますでしょうか?もし可能なら今日明日中くらいにお送りいただけますか。」と北海道大学山の会会報の編集担当の米山悟さんが、突然、10月12日にメイルで知らせてきたので、「良くお気づきですね。安藤さんの資料収集中でした。そんな状況で不確かですが、明日までお待ち下さい。」とまずは返事をしたら、「ありがとうございます。了解です」の返事が来ましたので、とりあえず集めていた資料をもとに原稿執筆にあたふたととりかかりました。題名にある安藤さんたちが2003年に開設したネパールの国際山岳博物館(注1)は安藤さんの事業の集大成であったと思われ、私も2008年6月から2年間、学芸員として関係した(注2)ので、主としてその観点から安藤さんの思い出を書きはじめましたが、頼まれた翌日に提出しなければならない原稿では寝かせて推敲する間もありませんので、超スピード執筆のため何か至らぬ点などがあると思いますので、その節はご容赦とともにご指摘をくださるようあらかじめお願いしておきます。なお、吉田勝さんからは「添付の写真、よかったら使って下さい。」とのメイルで、安藤さん関係の南極の写真3枚が送られてきましたが、私からは「僕が書いているのはネパールの国際山岳博物館のことが中心ですので、南極のことは吉田さんが書かれた方が良いと思います。」と返事したことをこの「はじめに」つけ加えておきます。どうやら、米山さんのメイルにある冒頭の吉田さんは吉田勝さんだったようです。

(注1)International Mountain Museum
http://www.internationalmountainmuseum.org/
(注2)As a JICA Senior Volunteer
https://hyougaosasoi.blogspot.com/2012/09/as-jica-senior-volunteer.html

2)安藤さんのこれまでの事業外観

石本惠生さんが知らせてくれた「安藤久男氏逝去のお知らせ」を見た後、安藤さんの奥様の祥(さち)子さんにいろいろとお聞きしたところ、2021年8月22日から寝たきりになるが、当初はウニ丼をたいらげ、奥さんのマグロ丼にも手を付けるほど食欲旺盛だったそうですが、亡くなる最後の2日間は何も食べず、ついに9月20日午後、体をふいていた時に、静かに息をひきとられたそうです。その時、看護師が「心臓マッサージをしますか」というのを奥さんは断り、安藤さんの最後を静かに看取ったとのことです。享年88歳、米寿の彼岸でした。

ご承知のように、安藤さんは1963年のナラカンカール峰遠征隊長をつとめるとともに1968-1970年の第10次南極観測隊に参加しましたが、1973年に北海道開発局を退職し、安藤さんが中心になって㈱水文地質研究所を設立後、世界各地の調査事業に出かけているのは聞いていました。ところが、1970年代当時の私たちはヒマラヤ調査などを毎年のように行っていたので、安藤さんの海外事業の展開は十分には知りませんでした。そこで、奥様に電話でお聞きし、下記のような安藤さんの水資源などの水文地質調査を中心とするこれまでの事業展開の地域的な幅の広さにまずは驚かされました。

インドネシア(1975‐1976 地下水)、フィリピン(1976‐1978 水文地質)、オマーン(1981‐1982 地下水)、タイ(1983.2‐1983.12 地下水)、パキスタン(1984.5‐1984.12 ダム地質)、ザンビア(1985.2‐1985.5 地下水)、マダガスカル(1986.2‐1986.4 地下水)、ボリビア(1986.9‐1986.12 水資源)、ザイール(1987.1‐1987.5 水利用)、フィリピン(1987.9‐1988.1 水文地質)、ナイジェリア(1988.2‐1988.5 飲料水)、フィリピン(1988.7‐1988.11)、コスタリカ(1989.1‐1989.2 ダム)、フィリピン(1989.4‐1989.6 水道)、ナイジェリア(1989.7‐1989.9)、タイ(1989.11‐1989.12 農業水利)、タイ(1990.1‐1991.7 地下水)、 ネパール・タライ(1991.10‐1992.3 地下水)、ネパール・タライ(1992.5‐1993.5 地下水)、ネパール・タライ(1993.8‐1994.3 地下水)、タンザニア(1994.11‐1995.3 水資源)、タンザニア(1995.6‐1995.10 水資源)、タンザニア(1996.1‐1996.2 水資源)、ネパール・トリブバン大学(1996.3‐1998・2 環境地質)、ブルキナファソ(1998.4‐1998.6)、ジンバブエ・マラウイ・モザンビーク(1999.3‐1999.7 水文地質)、 フィリピン(2000.7‐2000.11 地下水)、フィリピン(2001.4‐2001.8 地下水)、ネパール・国際山岳博物館(2002.4‐2004.4 学芸員)

以上の資料は、ファックスが不調のため電話で聞き書きしましたので、不十分な点もあると思いますが、アジアやアフリカ各国をはじめ中南米・南アメリカなどへの事業展開の地域的な幅の広さにまずは驚ろかされ、「国際的に大活躍してきました、ね」と思わず言うと、奥様流に「出稼ぎです、よ。北アメリカやヨーロッパには行っていません、が。」と快活におっしゃるのだった。安藤さんは、奥様に聞きますと個人パスポート8冊の他に、オフィシャル・パスポート27冊をも所持していることが示すように、まぎれもない国際派だった。ただし、成長する子供たちの年齢との関係で安藤さんのそれぞれの海外事業を思い出されている奥様の話しぶりから、さぞかし、安藤さんの海外出張で奥様が子育てなどで苦労されてきたことは容易に偲ばれました。そのことに関しては、喜寿の奥様流表現で、「1965年の結婚以来、半分の期間しか一緒にいない、いわば“銃後の妻”の心境だった」そうです。

3)国際山岳博物館

安藤さんとネパールとの関係は、1963年のナラカンカール峰遠征隊に始まり、1991年10月~1992年3月と1992年5月~1993年5月および1993年8月~1994年3月までの南部タライ地域の農業開発などに関連する地下水調査で結びつきが強くなったようです。さらに、JICAのシニアボランティアとして、1996年3月から1998年2月のカトマンズのトリブバン大学での環境地質の講義(木崎甲子郎・吉田勝両氏も同大学で講義を行っている)を経て、安藤さんの最後の海外事業として、2002年4月から2004年4月までの2年間をポカラに滞在し、主として民族や地学そして登山の3つのテーマを中心に展示するポカラの国際山岳博物館(写真1)の開設準備に尽力されました。

安藤さんは、その後も何回か国際山岳博物館を訪れていますが、印象的なこととして記憶に残っているのは、東北地方に大津波が押し寄せた2011年3月11日のことでした。安藤夫妻のカトマンズの宿であるサンセット・ビューで会合していた時に、テレビに東北地方の地震による大津波の映像が飛び込んできましたので、その場にいた安藤さんの関係者全員が息をのんでテレビ画像にくぎ付けになりました。その際、次なる大地震はどこか、の話題になった時、安藤さんは即座に“ネパール”を予想したのであった。ネパールも地震国で、安藤さんの予想通り、2015年4月25日に大地震が起こり、カトマンズなどが被害を受けました(注3-7)。アジア大陸とインド亜大陸が衝突してできているヒマラヤですから、当然のごとく地震が頻発し、その時にヒマラヤが上昇するとも言われているほどです。そのため、安藤さんが整備した国際山岳博物館の地学コーナー(写真2)の重要なテーマとして地震現象が取り上げられています。

(注3)2015年ネパール春調査(6)カトマンズ大学にて(3)2015年ネパール地震(1)
https://hyougaosasoi.blogspot.com/2015/04/blog-post_29.html
(注4)2015年ネパール春調査(7)2015年ネパール地震(2)
https://hyougaosasoi.blogspot.com/2015/05/2015-2015.html
(注5)2015年ネパール春調査(8)2015ネパール地震(3)
https://hyougaosasoi.blogspot.com/2015/05/2015-2015_18.html
(注6)2015年ネパール春調査(9)2015ネパール地震(4)
https://hyougaosasoi.blogspot.com/2015/05/2015-2015_28.html
(注7)2015年ネパール春調査(13)2015年ネパール地震(5)
https://hyougaosasoi.blogspot.com/2015/06/2015-2015.html

写真1 国際山岳博物館 

写真1 国際山岳博物館 

写真2 安藤さんの展示物

写真2 安藤さんの展示物

数年前のことですが、国際山岳博物館を管理・運営しているネパール山岳協会長のサンタ・ラマさんが東京に来られた時、安藤さんはすでに足を悪くされ、地下鉄の階段の上り下りにはかなり苦労されていたほどでしたが、北海道からわざわざ出てこられ、国際山岳博物館の課題解決の検討会に参加されたことをみても、国際山岳博物館への安藤さんの並々ならぬ思い入れの深さをひしひしと感じました。

そのことを示す国際山岳博物館の一つの展示が、博物館玄関前の広大な庭園内にある、安藤さんが作られた「Model of Mt. Manaslu」です。河原の丸石をコンクリートで固めた、高さ20mほどのマナスル峰のモデルです。急傾斜のあるモデルで、雨の後は滑りやすいので、日本でなら公園の危険物に指定されそうですが、ネパールの子供たちは実に楽しそうに登っていました(写真3)。マナスル・モデルの裏側はロック・クライミングの練習場にもなっているのです(現在では、博物館の玄関近くに立派なロック・クライミング施設ができています)。毎年5月9日には日本隊のマナスル峰初登頂日を記念した式典が安藤さんのマナスル・モデルの前で開かれています(写真4)。ポカラのシンボルはマチャプチャリ峰ですが、日本隊が初登頂したマナスル峰をモデルにしたところに安藤さんの心意気が表れているようで、日本人としてはうれしい限りです。マナスル峰とマチャプチャリ峰両峰の山型には似たところがあるので、おそらくは、マチャプチャリ峰のつもりで登っているだろうネパールの子供たちですが、本物のマチャプチャリ峰は神聖な山として登山が禁止されているので、博物館に設置するモデルとしてはマチャプチャリ峰ではなく、山型がよく似たマナスル峰にしたともとれる安藤さんの深謀遠慮が感じられます。

写真3 安藤さんのマナスル・モデルを登る子供たち

写真3 安藤さんのマナスル・モデルを登る子供たち

写真4  安藤さんのマナスル・モデル前で開かれるマナスル峰登頂記念式典

写真4  安藤さんのマナスル・モデル前で開かれるマナスル峰登頂記念式典

ところで、国際山岳博物館の原点には、1970年代の故宮地隆二さん(注8)の構想があったと思っています。当時名古屋におられた宮地家のご馳走である「にんにく卵」に舌鼓をうちながら、宮地節で話された博物館構想に聞き入りました。それは、インドのダージリンなどにある山登り中心の”登山博物館”ではなく、世界有数の山岳地域の自然や文化研究の場としてのヒマラヤ研究センターが、宮地さんの”山岳博物館”構想の視点でした。宮地さんの構想では、当時のカトマンズにたくさんあったネパールの旧貴族のラナ家の未使用の大邸宅を山岳博物館に作り変えるというものでした。宮地さんの勤めていた名古屋鉄道は、明治村やモンキーセンターおよびリトルワールドなどの博物館的な文化事業を行っていますし、宮地さん自身は沖縄の黒島で文化施設“伝統芸能館”を作られました。またさらに、弟の宮地新墾さんが琵琶湖研究所(注9)や琵琶湖博物館などをも構想されていたところを見ても、生態学者宮地伝三郎さんを父にもつ宮地家伝来の発想が山岳博物館構想の根底にあったように思えます。従って、安藤久男さんたちがポカラに立ち上げられた国際山岳博物館の原点には宮地さんの発想もあったと思われるのは以下の理由からです。

(注8)追悼 宮地隆二さん
https://hyougaosasoi.blogspot.com/2013/10/blog-post.html
(注9)回想記 琵琶湖の雪(1)
https://hyougaosasoi.blogspot.com/2013/02/blog-post.html
というのは、私は宮地さんの構想にのっとり、1974年にヒマラヤ・バーバン(館)をカトマンズに作り、地元関係者と山岳博物館の話を進めていきました。(この館はその後、渡辺興亜さんが中心になって進められ、友人のクサン・ノルブ・タワーさんのボーダナート近くの敷地内に建てられたカトマンズ・クラブ・ハウスへと発展し、ヒマラヤ研究・調査の基地になりました。)さて、当時のことですので、今のカトマンズの状況とは大きく異なります。例えば、コピー機などもないので、薄い紙に書いた手書きの山岳博物館の計画書を書きあげ、それを青焼きのプリントにするのですが、太陽の光で感光させますので、天気が悪いとコピーができません。雲が厚くなるとコピーを中止し、天気のいいときを見計らって計画書(写真5)をつくって、当時のネパール山岳協会理事のテク・チャンドラ・ポカレルさん(注10)に仲立ちになってもらい、ビレンドラ国王のお姉さんのご主人、クマール・カドガ・ビクラム・シャーさんまで話をあげていきました(写真6)。クマールさんはかつての秩父宮のような方で、登山や調査研究方面にも造詣が深く、話を良く聞いてくれました。ただし、この種の文化的な構想は1970年代のネパールでは早すぎた感がありましたが、結局、国際山岳博物館は2003年に、そのクマールさんのポカラの広大な土地に開設されたのは、30年前の宮地さんの構想の影響もあったのではなかろうかと思っています。

(注10)テク・チャンドラ・ポカレルさん
ネパール2014春調査報告 11 お世話になった人々
https://hyougaosasoi.blogspot.com/2014/06/2014-11-6-6-2014-2014-april-01-is-april.html

写真5 手書きの山岳博物館計画書

写真5 手書きの山岳博物館計画書

写真6 テクさん(右)と国際山岳博物館展示のクマールさんの写真(左)

写真6 テクさん(右)と国際山岳博物館展示のクマールさんの写真(左)

残念ながら、クマールさんも含めて、先代王様の一族が(弟一家を除き)殺人事件で亡くなってしまいましたが、今はそのクマールさんのご子息であるディーバス・ビクラム・シャーさんがネパール山岳協会の専務理事をされ、国際山岳博物館の運営に尽力されています。先代のビレンドラ国王の面影そっくりのディーバスさんたちとの関係も含めて、安藤さんたちが立ち上げた国際山岳博物館で、私は2008年~2010年の2年間、JICAのシニアボランティアとして学芸員をつとめました。1974年の手書きの山岳博物館の計画をクマールさんに説明して以来、35年ほどしてようやく夢がかない、安藤さんと宮地さんのお陰で、国際山岳博物館で仕事をすることができたのですから、感慨はひとしおでした。

4)おわりに

友人の宮地隆二・瀬戸純両氏の分骨場(注11-12)は、2009年に高橋昭好・石本惠生両氏がヒマラヤに来た時に、マナスル峰西南のツラギ氷河湖へ行く途中の、ナチェ村から3時間ほどかかる高原(アル・バリ)に作っていましたが、場所が比較的遠いため、ポカラから車で30分ほどの距離にあり、ヒマラヤが良く見えるナウダダ峠近くで、ポカラの友人のハリダイ・トラチャンさんが開発している観光施設に移転しました(写真7)。その後、この分骨場は石碑ケルンになり、2017年には故米道裕彌さん(注13)の石碑も加えるとともに、なぜか生前供養なのでしょうか、健在の石本惠生さんの石碑も故人たちの仲間入りをしています。

(注11)ネパール2014春調査報告4 (6)友人と先輩の分骨場
https://hyougaosasoi.blogspot.com/2014/04/2014_22.html
(注12)ネパール2014春調査報告3*3) 分骨場の移転
https://hyougaosasoi.blogspot.com/2014/04/20143.html
(注13)追悼 米道裕彌さん
https://hyougaosasoi.blogspot.com/2016/12/blog-post.html

写真7 ハリダイさんが献花している 

写真7 ハリダイさんが献花している 

写真8 友人の石碑ケルンとアンナプルナ連峰

写真8 友人の石碑ケルンとアンナプルナ連峰

 

亡き友人たちの記念碑のケルンからの展望は素晴らしく、天気に恵まれると、マチャプチャリ峰を中心とするアンナプルナ連峰とそれらの東にマナスル三山が見渡せます(写真8)。ゆくゆくは、安藤さんの石碑を奥様ともご相談のうえ、機会を見て現地に赴き、設置したいと思っているところです。合掌!

2021年10月13日(米寿と喜寿の安藤夫妻の結婚56周年の日)記す

 

 

追記1

元気なころの晩年の安藤さんは北大山岳館に足げく通い、山岳館の管理・運営やとりわけ資料整理などに尽力されていたと伺っていますので、その点は同様な努力をされた中村晴彦さんとともに、AACHにとって掛け替えのない 会員だったことは誰しも認めるところではないでしょうか。その点の他にも、1963年のナラカンカール峰遠征隊や1968-1970年の第10次南極観測隊のことなどをどなたかに書いてほしい、と思っています。

追記2

「安藤さんの追悼文」を米山悟さんの求めに応じて書きあげましたが、下記のメイルで、4月発行号に掲載延期されるということになりました。


米山悟 <joneyama@gmail.com>
2021/10/13 (水) 20:03
伏見様
原稿ありがとうございます。すみません、思っていたより大きい4ページの大作で、今回の会報の今の段階では、ちょっと差し込むには遅すぎでした。急いで仕上げていただいたのに申し訳ありません。無理やり縮めるよりも、次回の4月発行号で掲載したいと思います。予告もいたします。どうぞよろしくお願いいたします。

追記3

10月19日の渡辺会長宅の会合で石本さんから「掲載延期ではなく、掲載される」と伺っていましたが、米山さんからは何の知らせがないので、どうしたのかと思っていたところ、本日21日に下記のメイルが米山さんからきました。

米山悟 <joneyama@gmail.com>
2021/10/21 (木) 16:24
伏見様
いただいた原稿を、今回128号で掲載したいと思います。前回、延期の提案をいたしましたが、その後、他の原稿の構成の事情もあり、紙面数を足して、今月に入れたいと思います。せっかく書いていただいた原稿、方針が揺らいで申し訳ありませんでした。大変労作の追悼記、ありがとうございました。校正段階の版を添付いたしますので、今一度、誤字脱字、名前の間違いなどがないか、チェックをお願いいたします。石本さんの名前の字は、会員名簿に従い、以下のように直します。
p 35頁左段下から11行目:恵生 → 惠生

追記4

安藤夫人とのメイルでのやり取りを加えます。

FUSHIMI Hiroji
2021/10/13 (水) 17:28
祥子さまーーー伏見です
お元気そうな声をお聞きし、大いに安心しました。
さて、安藤さんの追悼文を添付しますので、ご覧
になってください。お気づき点等がありましたら、
お知らせください。それでは、重々ご自愛のほど。

FUSHIMI Hiroji
2021/12/05 (日) 11:11
安藤さまーーー伏見です
今冬は雪が多くなりそうですが、いかがお過ごしでしょうか。
北大山の会の会報は届いていると思いますが、それを読んだ
中央大学の黒川惠さんから下記の安藤館長の思い出が寄せら
れていますので、お知らせします。どうぞ、ご覧ください。
新たなコロナ株の侵入もあり、くれぐれもご自愛ください。

安藤久男さんの追悼記事読ませていただきました。
ポカラ国際山岳博物館開館式のときはJACからもトレッキングを兼ねて
50人くらい出かけました。テク・チャンドラ・ポカレル氏やクマール・カドカさんの写真も懐かしく拝見しました。安藤館長がおられなければ山岳博物館の維持はできなかったと思っています。
とりいそぎお礼まで。またうまい酒を酌み交わしたいものです。
中央大学 黒川 惠

Hisao ANDO <hisaoando@andoconsultants.com>
2021/12/08 (水) 21:05
伏見さま
拝復
会報が届いたことも報告せずにご無沙汰申し訳ありません。
奥様が具合悪いのにこんな長い追悼文書いて頂いて身の縮む思いでした。
黒川さまの文章拝読しました。嬉しかったです。
主人はあの山岳館の仕事がとても楽しかったそうです。
あんなに地元の人に愛される場所になるなんて、予想を越えた人気ですものね。
立地条件も良かったし、それにネパール側の働いている人も一生懸命ですものね。
安藤、竹花、伏見と続いたのも良かったと思います。
私のほうはいろいろな事が片付き大分落ち着きました。
では、今夜はこれで。  安藤祥子

FUSHIMI Hiroji
2021/12/08 (水) 21:52
安藤さまーーー伏見です
丁寧なメイルのお返事をくださり誠にありがとうございました。
紅葉も盛りを過ぎ、琵琶湖周辺の山に雪が降り始めましたので、
琵琶湖地域南部の大津は、ときどき雪国、雪見酒の世界ですが、
そろそろ冬タイヤに交換しようと思っている時期になりました。
今冬は雪が多くなりそうなので、くれぐれも、ご自愛ください。
機会があれば、ポカラに赴き、あのケルン詣でをする心算です。