2017年ネパール通信9

ポカラの想い出

4月30日から5月7日までの約1週間をカトマンズの西約200キロにあるポカラで過ごした。いつものように、往復ともバス旅行だったので、行きは右側、帰りは左側の席を、つまり北側の窓席で予約し、晴れればヒマラヤが見えるのだが、今回は雲と大気汚染で残念ながら神々の座は拝めなかった。しかし、バス道路は中央ネパールの大河であるトリスリ川とマルシャンディ川の南側を通るので、予約した席はリバー・サイド・シートと呼ばれているように、両大河を見るにはおあつらえ向きであった。

今回のポカラでは、国際山岳博物館の展示を更新するとともに、懸案の大森弘一郎さんの大型写真の更新にも目処をたてるとともに、ランタン村でのヒマラヤ災害情報センター構想の実現をめざす準備活動について国際山岳博物館およびネパール山岳協会の関係者と相談した。また、昨年末に亡くなった友人の米道裕彌さんの石碑をカトマンズで作って、すでに祀ってあり、ヒマラヤの神々の座に見守られている友人・先輩たちとともに彼も供養した。

写真1 泥色のトリスリ川沿いには砂利取り場(左下)が多く、ボートの川下り(左上)をしていた。

トリスリ川はランタンやガネッシュ・ヒマラヤから流れてくるが、開発が著しく進む中国国境周辺の自然破壊状況などを反映して土砂の流入が多いので、 いつ見ても泥色の川である(写真1)。従来はチベットへのルートとして、コダリ道路があったが、氷河湖決壊洪水などによって、国境付近の道路は閉鎖されているので、トリスリ川上流域のラスワ地域が開発の拠点になっているようだ。現地では、将来は鉄道がカトマンズまでつながる、といった巨大開発計画までとりざたされている。カトマンズや周辺地域の建設ラッシュを反映してトリスリ川沿いのいたるところで砂利取りが行われている(写真1左下)。その泥の川で、ボートの川下りが行われいる(写真1左上)が、川下りをするネパール人や欧米人にとって泥の川には違和感がないようで、日本人のように(泥イコール汚い)という感じはもっていないようにおもわれる。

ところが、いつもはグレイシャー・ミルクの清流であったマルシャンディ川が、帰路にはついに泥の川になってしまったが、唯一グレイシャー・ミルクの清流の川相を往復路ともに見せてくれたのはマナスルとガネッシュ・ヒマラヤから流れてくるブリ・ガンダキ川(写真2)であった。西に向かって流れる泥のトリスリ川に北からのブリ・ガンダキ川が清流状態で合流するさまは印象的であった。

写真2 泥のトリスリ川とグレイシャー・ミルクのブリ・ガンダキ(川)。

写真3 いつもはグレイシャー・ミルクのマルシャンディ川が泥の川(左上)に、降雨時に泥が流出する(右下)。

ポカラに向かう4月30日のマルシャンディ川はグレイシャー・ミルク の清流であった(写真3)が、帰りの5月7日には泥の川に急変したのを見て驚いたものだった。上流のダムで泥を沈殿させたグレイシャー・ミルクの清流を中流の発電所で放流している(写真3左上)が、泥の川の水量のほうが多いので、焼け石に水の感じだった。大雨が降ると泥が流れ出す状況は畑地や開発地帯ではいたるところで見られる(写真3右下)。

トリスリ川とマルシャンディ川が合流するムグリンの橋周辺は定点写真を取る場所になっており、ポカラ行きの4月30日の泥のトリスリ川とグレイシャー・ミルクのマルシャンディ川の合流状況は見慣れている景観だ(写真4の左)が、帰りの5月7日には両河川とも泥の川状態で合流していた(写真4の右)。

写真4 トリスリ川とマルシャンディ川の合流地点における4月30日と5月7日の比較。

写真5 ポカラから見られるヒマラヤ風景1。

ポカラの標高は約800m、その北方約20キロにあるアンナプルナ連峰の8000mの神々の座は、近距離で高度さが大きいので、仰ぎ見るような感じがする(写真5、6)。 なかでもマチャプチャリ峰は7000mにも満たないが、ポカラの近くにあるため、背後の8000m級の山々よりも、アンナプルナ連峰の盟主のような感じがして、小さくともキラリと輝いている(写真5上)。ポカラの東には8000m峰のマナスルをはじめ、ピーク29とヒマルチュリのいわゆるマナスル三山がひかえている(写真5の中と下)。

晴れた日の早朝には、まず8000m峰のアンナプルナⅠとダウラギリ(写真6の上)が朝日でモルゲン・ロート(朝の赤)に染まり、ついで、アンナプルナⅡやマチャプチャリ (写真6の下)などの山々にも日の出の光がとどく。これらの荘厳で勇壮な景観を見ていると、ネパールに来たことを実感する。だが、このような素晴らしい光景に恵まれる機会は実は少ない。今回は4月30日にポカラに到着し、5月7日のカトマンズへ向かうまでの7日間でヒマラヤが見えたのは5月2日と5月5日の早朝のみであった。また、かつて国際山岳博物館に勤めていた2009年3月から1年間、毎週1回早朝のアンナプルナ連峰の展望の変化をまとめてみる*と、雲の少ない早朝でも、アンナプルナ連峰が一望に見渡せる日は1年のうちでも10週程度と非常に少ないことが分かった。とくに展望が良いのは、雨期明けの10月中旬や冬期の風の強い日に限られている。以上のように、ポカラにきてアンナプルナ連峰が見渡せる確率を展望率とすれば、2割程度なので、従ってマチャプチャリを眺めることができた人は幸運である、といえる。とくに大気汚染が年々ひどくなるネパールは、カトマンズのようにヒマラヤが見えなくなることで、貴重な観光資源を失っていることを指摘しておく。
*Holly Mountain
https://glacierworld.net/regional-resarch/himalaya/machapuchare/machapuchare01/

写真6 ポカラから見られるヒマラヤ風景2。

 

写真7 友人たちの記念碑。

友人たちの分骨場や慰霊碑がポカラ近くのナウダラにある*ので、 昨年なくなった北海道大学山岳部同期の米道裕彌さんの石碑を友人たちのにくわえた。、幸いなことに5月2日は天気にも恵まれたので、雲間のヒマラヤを見ながら、供養することができた。
* ネパール2014春調査報告 10 -ポカラよ、また-
亡き友人の記念碑
https://glacierworld.net/travel/nepal-travel/nepal2014/nepal2014_10pokhara2/

「マチャプチャリ峰は小さくともキラリと輝いている」と述べたが、日中の雲でき方もマチャプチャリ峰を見るのに幸いしていると思われる。と言うのは、マチャプチャリ峰の東西にあるアンナプルナⅠやアンナプルナⅡは8000m級の大きな山塊であるため、日射が山腹を温めると上昇気流を発生し積雲活動が活発になって、周辺のヒマラヤを隠してしまうが、アンナプルナⅠやアンナプルナⅡ周辺の積雲活動の谷間に位置するマチャプチャリ周辺の積雲の発達状況は比較的弱いので、他の山々が雲に隠れてしまう中にあっても、マチャプチャリ峰だけが最後まで顔を見せてくれているのである(写真8の上から下へ)。

ポカラの国際山岳博物館で学芸員の仕事をしていた2009年3月から1年間、毎週1回早朝のアンナプルナ連峰のパノラマ写真を撮り、1年間の変化を調べた*。雲の少ない早朝でも、アンナプルナ連峰が一望に見渡せる日は1年のうちでも非常に少ないことが分かった。とくに展望が良いのは、雨期明けの10月中旬や冬期の風の強い日に限られている。したがって、ポカラに来てアンナプルナ連峰を従えた盟主のマチャプチャリ峰が見ることができた人は幸運である、といえる。
*Holly Mountain
https://glacierworld.net/regional-resarch/himalaya/machapuchare/machapuchare01/

写真8 アンナプルナ連峰の雲の発生・発達経過。

写真9 日中発達する入道雲から、時々1cm大のヒョウ(右下)が降る。

写真8が示しているようにぽから周辺の日中の積雲活動が活発で、午後になると雷をともなう入道雲から大粒の雨や直径1cm大のヒョウが降ることが多い(写真9とその右下)。しばしば降るヒョウによりバナナの葉が破れ傘のようになり(写真10とその左下)、このため農作物にも大きな被害が出ている。

写真10 しばしば降るヒョウによりバナナの葉が破れ傘のようになる(左下)と言われる。

写真11 オールド・バザールの民家とマチャプチャリ峰。

「キラリと輝くマチャプチャリ」はポカラのランドマークであり、 オールド・バザールのレンガ建ての民家(写真11)や新築の家々(写真12)の背後にも、また子供たちが踊る裕福な家の門の上にもマチャプチャリは輝いている(写真12の右下)。

写真12 建築ラッシュの家並みとマチャプチャリ、家の門の上にもマチャプチャリ(右下)。

写真13 国際山岳博物館の展示風景1。

今回も展示写真の更新をする(写真13、14)とともに、とくに国際山岳博物館でもひときわ大きな写真展示である大森弘一郎氏のヒマラヤ写真*の更新のため、ネパール山岳協会のサンタ副会長と話を行った。さらにサンタ副会長をはじめとした国際山岳博物館およびネパール山岳協会の関係者と、ランタン村でのヒマラヤ災害情報センター構想の実現をめざす準備活動について相談した。
*2017年ネパール通信3(写真報告)
「カトマンズ大学にきました」
写真19と写真20
https://www.blogger.com/blogger.g?blogID=2190565833287998015#editor/target=post;postID=4916597127258058703

写真14 国際察b学博物館の展示風景2。

 

写真15 火炎樹(Spathodea campanulata)。

カトマンズの木の花がジャカランダとすれば、ポカラは火炎樹(写真15)であろう*。去年の同時期のポカラでは火炎樹が咲いていたのであるが、今年はまだこれからの状態で、トリスリ川とマルシャンディ川が合流する途中のムグリン周辺でのみ咲き始めていた(写真15)。
* 2015春ネパール調査(9) ネパール地震(3)ポカラからカトマンズにもどりて(写真速報)
ポカラからカトマンズへ

9.ネパール地震(3)ポカラからカトマンズにもどりて(写真速報)

2008年から2010年まで学芸員を努めた ポカラの国際山岳博物館を去る時に植えたギンナンから芽が出たイチョウ*が3本、1m前後まで成長していた(写真16)。
* 2015年ネパール春調査(10)ポカラ報告
イチョウと追悼碑
https://glacierworld.net/travel/nepal-travel/nepal2015/nepal2015_11pokhara/

写真16 国際山岳博物館に植樹したイチョウ(Ginkgo biloba;サングラスはスケール代わり)。

写真17 エベレスト登頂の最高齢者だったミン・バハドゥール・シェルチャン氏が亡くなった。

 

ポカラを発つ前日(5月6日)の夕食時に、長年お世話になっているタカリー族のハリダイ・トラチャン氏から「2008年に76歳でエベレストに登頂し、ギネスの世界記録で最高齢エベレスト登頂者として認められたミン・バハドゥール・シェルチャン氏がエベレスト登山のベースキャンプで亡くなったという訃報が届いた(写真17)」ことを知らされた。ミン・バハドゥール・シェルチャン氏もタカリー族で、ハリダイ・トラチャン氏の友人である。 2013年に三浦雄一郎氏が80歳でエベレストに登頂し、彼の記録を破ったので、再起をこめて、ミン・バハドゥール・シェルチャン氏は86歳にしてエベレストの再挑戦を目指していたのであった。写真17は、ポカラの国際山岳博物館にいた2008年に、地元のタカリー族がミン・バハドゥール・シェルチャン氏の歓迎会を開いた時に撮影したもので、彼と交わした握手の力強さは今でも覚えている。

三浦雄一郎氏が1970年にエベレスト・スキー隊長を努めた時には隊員として僕も大変お世話になり、隊の終了後に現地に残り、修士論文のための氷河調査をすることができたのであるが、その三浦氏をカトマンズ・ゲスト・ハウスが顕彰しており、その顕彰の展示の中で三浦氏の「齢には関係なく、夢をもつことが重要である」とのメッセージを紹介している(写真18)。三浦氏のライバル関係で、しかも年上のミン・バハドゥール・シェルチャン氏を三浦氏は尊敬しているに違いない。正に、その意味で、僕も今年は76になるが、ミン・バハドゥール・シェルチャン氏と三浦雄一郎氏のようなエベレスト登頂は無理だが、自分ができる分野で両者の先駆者的な行動力に学びたいと思っている。

写真18 カトマンズ・ゲスト・ハウスで顕彰されているエベレスト登頂の最高齢者、三浦雄一郎氏のポートレイトとメッセージ。

(1週間の選挙休みになった静かなカトマンズ大学に戻り、カッコウの歌を聞きながら5月10日朝記す)