ネパール・ヒマラヤ氷河調査隊(GEN)50周年の思い出(1)
―そうか、あれからもう、半世紀たつのか!―
1)はじめに
東京の牛木久雄さんから突然電話が来て、「ハクパさんからGEN50周年になるがどうするのか?」、と知らせてきたという。そこで彼は、「多くの関係者がネパールまでは行けない状況なので、Zoom会議をするのが現実的なのではないか」と返事をしたとのことである(資料1)。僕自身も、老々介護で遠出ができない身なので、Zoom会議ならありがたい、と伝えた。彼の電話は、名古屋の名越昭男さんの家からというので、静養中?と伝えられていた名越さんとも話すことができ、元気そうな声にまずは安心した。牛木さんは名越さんの見舞いに行っていたようだ。すると、ハクパさんからは依然として「Zoom会議よりもカトマンズでの開催」を示唆するメールがきた(資料2)ので、牛木さんの考え方を支持する返事(資料3)をだしておいた。そうか、1973年春、ネパール・ヒマラヤ氷河学術調査隊(Glaciological Expedition of Nepal)を立ち上げて、あれからもう、半世紀たつのか!
資料1
From: 牛木久雄 [mailto:wushiki@rom.kuramae.ne.jp]
Sent: Sunday, July 9, 2023 8:52 PM
To: Lhakpa Gyalu
Cc: 伏見 碩二; nagoshia@yk.commufa.jp
Subject: GEN anniversary
Dear Lhakpa Gyalu,
Sorry for my long silence.
Last Friday I went to Nagoya to see Nagoshi.
Then I gave a call to Fushimi from there, and we talked about the matter on GEN. The first GEN mission consisted of Fushimi, Nagoshi and Lhakpa !! I remember built-new Lhajung Observatory, you established, with GEN flag. I said to the two members that Lhakpa, as a mission member, gave me several mails, reminding me of 2023 as 50 years anniversary of GEN.
As you wrote, the best anniversary should be celebrated in Nepal. However, GEN members got old and they are physically difficult to join gathering in Kathmandu.
As a conceivable choice, we are suggesting you to be a host of a Zoom event on 50 years anniversary of GEN. You may have many experiences of participation in Zoom. Please consider the possibility of using Zoom.
If you schedule the event in this fall, in Oct., Nov., or Dec. we will be happy, particularly myself.
Regards,
Wsuhsiki
資料2
LHAKPA GYALU SHERPA <marushin@mos.com.np>
‘牛木久雄’
自分;
nagoshia@yk.commufa.jp
Dear Sirs
Your mail has been acknowledged.
Physical is better fly off from Japan to Kathmandu even to experience changes rather than Zoom. It is gift of Covid-19 the Zoom so ..a virtual. I got email from Mr. Takenaka ji he said there is gathering of Dr. Higuchi Laboratory in November ?
Stay healthy
Lhakpa Gyalu Sherpa
July 11, 2023
資料3
2023/07/11
FUSHIMI Hiroji
LHAKPA GYALU SHERPA;
‘牛木久雄’
自分;
nagoshia@yk.commufa.jp
Lhakpa Ji,
Thank you sending us a good proposal of our GEN Golden Jubillee. But. you know, some of us, including me, it’s hard to go KTM for it. So, I would recommend you to take the Wushiki San’s suggestion of the Zoom meeting probably sometime in this fall.
PS
The [gathering of Dr. Higuchi] you mentioned is for his 96th and his wife’s 90th birthday.
Sincerely Yours,
Hiroji Fushimi
Cc. Wushiki San and Nagoshi San
2)樋口研サロン
地球を旅していた1960 -70年代がなつかしい。1963年から3年程かかった日本→北極海調査(1年半;P1)資料4→ヨーロッパ自転車旅行(3ヶ月)資料5→西アジア貧乏旅行(半年)→ネパール・ヒマラヤ地質・氷河調査(半年)→日本への東回りの地球一周の旅と1970年代のネパール・ヒマラヤ氷河の毎年調査で、そこはかとない自由の味を知ったからである。当時の大学環境は安保闘争の時代だったが、安保闘争のいわゆる「政治的」な闘争には、どうしても、自由の実現を感じることができず、青雲の志に燃え、未知の「海外調査」のなかに、新たな自由を求めていたのかも知れない。お互いに闘っていたいわゆる民青と三派の安保闘争両派の友人たちからは「のんびりと、海外調査などしていられるかい」と白い目でみられていたし、さらに、ぼくのいた北大の地質教室はお互いの考えかたが違うと、学問上の議論もしないという不自由このうえない教室だったのである。
資料4
1963Arctic
https://glacierworld.net/gallery/Arctic/1963Arctic/index.html
資料5
1965Europe
https://glacierworld.net/gallery/Europe/1965Europe/index.html
だが、名古屋大学の樋口敬二先生の研究室には、ぼくとおなじように、ヒマラヤなどの新天地のフィールドをめざす若者がたむろしていた。水圏科学研究所の樋口研究室401号室、ぼくたちが「サロン」と称したその部屋からは、多くの若者がアジアや北・南極、北・南米、アフリカなどに旅立って行った。そこは、グローバルな旅を醸造する発酵樽であったようだ。「規模雄大」をもってする中谷宇吉郎先生の流れをくむ樋口先生の、あの「地球からの発想」(資料6)的な旅をつくるサロンは「名古屋大学探検部」的な性格もあったのではなかろうか。北大山岳の先輩の渡辺興亜さん等が中心になって営まれていた「比較氷河研究会」の活動過程をつぶさに体験できたことは、多くの影響をぼくにあたえてくれた。そこで生まれた学生によるネパール・ヒマラヤ氷河調査計画の先遣隊員として、北大山岳部の小須田達治さんとともに、まずは調査隊の許可を取り、そして東ネパール・クンブ地域に基地を建設し、氷河調査を軌道にのせるために、1973年2月、カトマンズに向かった。
資料6
なつかしの樋口研サロン
https://glacierworld.net/academic-conference/nagoya-univ/higuchi-salon/
2016年ネパール通信15 サロンからヒマラヤへの想い
https://glacierworld.net/travel/nepal-travel/nepal2016/salon-to-himalaya/
3)調査許可取得と観測基地建設
学生によるネパール・ヒマラヤ氷河調査隊の先遣隊員としてカトマズ入りしたぼくは、政府官庁のあるシンガダルバール地区内にある外務省で調査隊の許可を得るための交渉をはじめた。当初は、従来方式で「Glaciological Expedition to Nepal」の計画書だったが、その計画書ではネパール外務省の調査許可がなかなかもらえなかった。「to Nepal」では「外国(日本)からやってきたよそ者によるネパールへの」氷河調査隊というニュアンスが強すぎたのだろうか。調査許可の交渉進展のため、申請書がどの担当者の机まで上っているかを確認するため外務省に日参し、ネパール人との付き合いが増し、ネパール語もいけるようになると、ぼくの考え方もだんだん変わってきた。(よし、できるだけ現地主義でいこう。)そこで、「Glaciological Expedition of Nepal」の計画書に変えたのである。直訳では「ネパールの氷河調査隊」、英語の略称がGEN。略称だけでは見えないが、GEとNのあいだに”of”が入っている(付録1)。すると、交渉2ヶ月後、ネパール外務省は調査許可証を発行してくれたのである。ネパール・ヒマラヤ氷河学術調査隊の名称; Glaciological Expedition of Nepalの略称GENはゲンと読めるので、験(げん)が良くなることを内心ひそかに期待したのである。
待ちにまった調査許可証を手に入れるや否や、東ネパール・ヒマラヤのクンブ地域に向かい、世界最高峰チョモランマ(エベレスト)峰のふもとのハージュンと呼ばれるモレーンの平坦地に、地元の人たちに協力してもらいながら、チョモランマ峰初登頂者のエドモンド・ヒラリーさんのクンデ病院で働いていた英語の上手なペンパ・ツェリンさんの協力で観測基地を建設することができた(写真1)。基地の地名であるハージュンは、シェルパ語で平和な平らな土地を示すという。こうして1973年4月、調査基地が完成し、1年間におよぶネパール・ヒマラヤ氷河調査隊のフィールド・ワークがはじまった。隊員がフィールド・ワークで基地に不在の時は、ペンパ・ツェリンさん(付録2)や彼の従弟であるハクパ・ギャルブさんが観測基地の管理・運営に従事してくれた(写真2)。
大名旅行ではやっていけないぼくたち貧乏学生隊は、食料などの衣食住をはじめとして、荷物運びでも現地の人たちの協力なしにはやっていけないのだから、好むと好まざるとにかかわらず、(現地主義)を取らざるをえななかった。たとえば薪についても地元の理解が必要で、シェルパの人たちが住むヒマラヤでは、モンスーンの雨期には「宗教上の理由で煙をだしてはいけない」との申し出が住民からあった時も、それでは現地で調査活動ができなくなるので、地元のディンボチェ村の人びとと何回にもおよぶ協議をおこなったうえで、やっと理解してもらい、炊事用の火をたくことを許可してもらったのである。その問題のそもそもの状況については、調査隊の活動を最初から助けてくれたペンパさんが1973年5月28日の日誌で次のように書いている。「We may not able to stay at this place in Lhajung during the monsoon. Nobody can stay around Dingboche or nobody can make fire until the end of August. I am not sure, but they say that the smoke of fire effects to the barley and potatos. I told to the head man of Dingboche that, above the Dingboche which place is called Nangajung, anybody can stay, so why can we not be allowed to stay here? But, he didn’t reply me. I hope that we can talk with him and we will able to stay here.」 以上のように、地元の人たちと話し合いをしながら、1年間におよんだ学生たちによるネパール・ヒマラヤ氷河調査が行われた(付録3)。それは、今から、半世紀前のことであった。
付録1
”To→Of→For”へ変化したGENの名称
1973年春から1978年秋までの5年半におよぶネパール・ヒマラヤ氷河学術調査隊の正式名称は Glaciological Expedition of Nepal だった。隊員が日本からきている隊だから、GE”to”N(ネパールへの氷河調査隊)であって、GE”of”Nでは表現としておかしいという意見もあった。しかしながら、英語の表現が少しくらいおかしくとも、GE”of”Nだと、(現地主義)の感じがでているではないか。1960年代までのネパール・ヒマラヤの氷河調査隊は、GE”to”Nの時代だった(図1)。山登りなどの外国隊と同様、よそ者の時代といえよう。そして1970年代になると、上記3)の調査許可取得で述べたように、GE”of”Nの観点がめばえたのである。そしてさらに、クンブ地域のアマダブラム峰南側の氷河湖の決壊による1977年の洪水災害の発生を契機として、1980年代からは自然災害や温暖化とも関連したGE”for”N(ネパールのための氷河調査隊)の段階になってきている(資料)、と考えている(資料7)。
図1 氷河調査隊の名称変化
資料7
KU Lecture 2015 – 2017
1-2. Student’s research activities in Nepal Himalaya
https://environmentalchangesofthenepalhimalaya.weebly.com/1-2studentrsquos-research-activities-in-nepal-himalaya.html
付録2
2011年春調査最後の出来事-ペンパ・ツェリンさんの奥さんの訃報-
1970年前後の時代は、文化大革命、ケネディ大統領とキング牧師暗殺、アポロ11号の月面着陸、学園紛争、大阪万博、ウォーターゲート事件やベトナム戦争終結などの出来事が続いた世界的にも変動の時代であったようだ。我々のヒマラヤの調査活動も、それらの世界的変動の中での日本の高度成長時代を背景にしていたと思うと今さらながら考え深い。1970年代の5年間におよぶ私たちの氷河調査隊(GEN)の期間はネパールにとっても大変な時代で会ったように思う。というのは、チベットの独立を目標に活動する当時のダライ・ラマの親衛隊が、一説によるとアメリカのCIAの援助を受けて、ネパール北部の山岳地帯でチベットに侵攻してきた中国と戦っていたからであった。1970年代中頃、ペンパ・ツェリンさんはGENの仕事を従弟のハクパ・ギャルブさんに引き継ぐと、英語とチベット語に堪能な彼は、CIAに与するネパール政府に雇われ、身元不明になり、頻発する騒動の中で消されてしまったのではないか、と噂されていたのである。
1911年のネパール調査の終わり、帰国便に乗るためカトマンズ空港に向かう5月9日の朝、1970年代から世話になっているハクパ・ギャルブさんからペンパ・ツェリン夫人の悲報が伝えられた。1973年の氷河観測基地ハージュンを一緒に作ってくれたハクパさんの従兄である故ペンパ・ツェリンさんの妻ニマ・ヤンジンさんが昨夜亡くなり、その朝、火葬が行われるとのことであった。そこで、ハクパさんの車で空港へ向かう途中、荼毘が行われていたカトマンズのバグマティ川岸のテクに送ってもらい、約30名ほどのシェルパの人たちが参列していたニマ・ヤンジンさんの火葬(写真3)に参列できた(資料8)。ニマさんの荼毘の脇で涙を流していた長男のウルケン・モランさんはがっちりとした体躯でしたが、一方ペンパ・ツェリンさんの名前を引き継いでいる、スリムな長女ツェリン・ドマさんは、ペンパさんそっくりの、なつかしい面影を思い出させてくれた(写真4)。ウルケンさんやツェリンさんの将来ははたしてどうなるのかと一抹の不安を覚えながら、出席していた1979年にチョモランマに登頂したアン・フルバさんに別れの挨拶をして空港に向かったのであった。カトマンズからバンコックへの飛行機では、ヒマラヤにしばしの別れを告げるために左窓側の席をとりましたが、早くも発達した積雲群のため、ガウリシャンカールと思しき双耳峰が雲間に見え隠れしましたが、チョモランマなどがあるクンブ地方は、あたかも雨期のような厚い雲に閉ざされていた。ヒマラヤの神々の座も、おそらくニマ・ヤンジンさんやペンパ・ツェリンさんを弔うかのように、涙しているように感じた。
資料8
追悼 井上治郎さん
「我々は研究者であって教育者ではないのだ」
追記
https://glacierworld.net/travel/recollection/inoue-jirou/
付録3
ハージュン観測基地のその後
クンブ地域の氷河観測基地を作るために1973年4月にはじめてハージュンを訪れた時、かつての放牧小屋があったが、荒れはて、したがって夏の放牧時期でも放棄されているのではないか、と感じた。我々は住民と相談し、そこを観測基地にしたが、観測生活をしていた1970年代には、地元の人が誰も苦情を行ってこなかったのをみると、放牧地としては利用価値がなくなっていたのかもしれない。しかし2013年秋に観測基地(写真5)を再訪すると、かつてわれわれが住んでいた石小屋は2つに分割されているのに加えて、周辺には新たな石小屋が3つほど建てられていた。夏の放牧時期になると、5軒ほどの家族がハージュンに住み、ヤクなどの家畜の放牧をするようになっているのだろう。この変化から、ハージュン地域が1970年代にくらべて多くの家畜を養うほど、土地の生産力が高くなったのではないか、と解釈できる。地球温暖化とともに、牧草を育てる水分条件が好転してきたことを示唆する。
この再訪問時(資料9)に、かつてのハージュン基地の玄関前で、花崗岩の転石に掘った「GEN」の文字を見つけた(写真6)。「GEN」の文字を掘った転石には覚えがなかったので、1970年代から世話になっているハクパさん(写真25)にメイルで聞くと、次のような返事がきました。「Well, it was curved around 1975 with SAKANAKA Tetsuo who were with me at Lhajung station for one sole year and said he was a KU student and Jiro san initiated to Lhajung ..after that Mr. Shibasaki were another long stayer.」 なお、写真に写っているGPS測定器でハージュン基地の位置を測定すると、北緯27度53分43.00、東経86度49分31.08、高度4425mだった。また、掘られた「GEN」の文字、「G」や「E」の文字のの溝に、だいだい色の地衣類が生えているところから、もともとは白色の花崗岩だが、30年ほどもすると、地衣類が侵入してくることを示す。だいだい色などの赤や黄色系統の地衣類が最初に侵入し、その後に黒い地衣類が取って代わる変化がみられるようなので、やがてハージュンの地衣類も周辺のタウチェ峰の岩壁と同様に(写真5)、黒い地衣類に変わっていくと、太陽の日射をより吸収し、周辺地域の温暖化を加速するばかりか、夜間凍結した岩石を昼間の日射で溶かす融解再凍結による風化作用を強化する要因にもなることが考えられる。
資料9
2013秋調査旅行余話(1)
6.ハージュン観測基地
https://glacierworld.net/travel/nepal-travel/nepal2013/neoal2013_02episode/
付録4
北極海でのボーリングと山岳博物館構想
1973年春の.ネパール・ヒマラヤ氷河調査隊から帰国するや否や、調査隊などの軍資金稼ぎのために、2)章で述べた1960年代に調査した北極海の氷島でボーリングし、沖縄海洋博用の直径30cmの氷資料を30mほど採集するチームに参加した。おかげで、ヒマラヤで10キロほどやせた体重が、北極海のアメリカ基地での食糧事情の好転で回復すことができた。
北極海から戻った1973年の冬、宮地隆二さんから将来の生き方にも関係する話を聞くことになる(資料10)。「インドのダージリンなどのような”登山博物館”ではなく、山岳地域の自然や文化研究の場としての”山岳博物館”構想」。宮地さんの話では、当時のカトマンズにたくさんあったラナ家(ネパールの旧貴族)の未使用の大邸宅をヒマラヤ研究センターの役割を持つ山岳博物館に作り変えるというものだった。宮地さんが勤めていた名古屋鉄道は、明治村・モンキーセンターやリトルワールドなどの博物館的な文化事業を行っているし、宮地さん自身は石垣島近くの黒島で文化施設を作っていたことをみても、またさらに、残念ながら若くして亡くなられた弟の宮地新墾さんが琵琶湖研究所や琵琶湖博物館などをも構想されていたところを見ても、宮地伝三郎先生を父にもつ宮地家伝来の考え方が山岳博物館構想の根底にあったようだ。後になって、安藤久男さんたちがポカラに立ち上げられた国際山岳博物館(資料11)の原点には宮地さんの発想もあったのではないかと思う。
そこで僕は1974年に、宮地さんの構想にのっとり、ヒマラヤ・バーバン(館)をカトマンズに作り、地元関係者と山岳博物館の話を進めていった。当時のことなので、今のカトマンズの状況とは大きく異なる。例えば、コピー機などもないので、薄い紙に書いた手書きの山岳博物館の計画書を書きあげ、それを青焼きのプリントにするのだが、太陽の光で感光させるので、天気が悪いとコピーができない。雲が厚くなるとコピーを中止し、天気の良い時を見計らって計画書を作り(写真7)、当時のビレンドラ国王のお姉さんのご主人、クマール・カドガ・ビクラム・シャーさんまで話をあげていった。クマール・カドガさんは登山や調査研究方面に興味があり、彼は話を良く聞いてくれた。だが、山岳博物館の構想は1970年代では早すぎた感があったようだ。それでも結局は、そのクマール・カドガさんのポカラの広大な土地に、国際山岳博物館が2003年に安藤さんたちの尽力によって発足することになった。宮地さんの発想から実に30年近くもかかったことになる。残念ながら、クマール・カドガ・ビクラム・シャーさんも含めて、先代王様一族(弟一家を除き)は亡くなられたが、クマール・カドガさんの息子であるディーバス・ビクラム・シャーさんがネパール登山協会の専務理事で、国際山岳博物館の運営に尽くされいる。先代のビレンドラ国王の面影そっくりのディーバス・ビクラム・シャーさんたちとの関係も含めて、安藤さんたちが立ち上げてくれた国際山岳博物館で、「ヒマラヤの自然史」(資料12)の観点を発展させることができないかと考えて、私は2008年~2010年の2年間、JICAのシニアー・ボランティアとして学芸員をつとめた。1974年の手書きの山岳博物館の計画をクマール・カドガさんに語って以来、35年ほどしてようやく夢がかない、宮地さんや安藤さんのお陰で、国際山岳博物館で仕事ができるようになって感無量であった。
資料10
宮地隆二さん-山岳博物館ことはじめ-
https://glacierworld.net/travel/recollection/miyaji-ryuji/
資料11
安藤さんの事業集大成は「国際山岳博物館」
https://glacierworld.net/travel/aach-memorandum/aach10-andoh/
資料12
ヒマラヤの自然史
1983 ヒマラヤ研究. 原真・渡辺興亜編, 山と渓谷社, 179-230.